血脈を守る者-6-
ヴァリアンテは速歩で馬を走らせていた。
真冬の朝は身を切るような寒さで、体温と体力を奪っていく。カーシュラードが心配性だったおかげで防寒具もそれなりのものを用意してくれていて助かった。毛皮の襟巻きに鼻先まで埋めて、マントをきつく身体に巻きつけた。
王都カーマは山脈と巨大湖に囲まれた天然の要塞都市だ。山脈は標高が高すぎて越えることはできず、湖も大きすぎることと中心は魔霧が深く方向感覚を失って難破するので船を出すこともできない。どちらも越えると隣国だが、近くとも遠い場所だった。
囁きの谷は山脈の麓の総称だ。王城より北にある墓所を抜けて大森林を越えた先にある。墓所群は建国の祖である『紅蓮の魔神』が眠りについた場所だとされていて、基本的に一般人の立ち入りは禁止されている。定期的に赤狼師団の軍人が警備にあたっているが、墓守を置いているわけではない。
警備兵とすれ違わずに済んでいるのは、赤狼師団長その人が味方についているからだ。クリストローゼは仕事の大半を部下たちに任せているが、その実あらゆる報告書に目を通している。だから、墓所の見回り時間も記憶していた。今日の警備は正午に城を出発するので、その時間帯さえ避ければ見つかることはないらしい。
それでも王城の裏門を使うことはせず、ヴァリアンテは大きく城を迂回して湖の近くを抜け、獣道のような林道から墓所へと進路を取った。
ひと目を忍ぶには理由がある。剣聖から正式に委任されているとはいえ、公式記録に載せているわけではないし、どこかに申請して許可を待つなんてことをしている時間もない。妨害されたり痛くもない腹を探られて足止めをくうくらいなら、さっさと目的を達成してしまった方が事が早く済む。
王城の一番高い塔も見えなくなり、そろそろ墓所につく頃だ。整備された石畳を蹄鉄が踏む音が響いた。正午にはまだ遠いし、王城から正式な道を使ったとしても馬で一時間はかかる。警備兵の気配はない。ここまでは順調だ。安堵の息をもらし、ヴァリアンテは手綱を握り直した。
墓所を過ぎれば気配と魔力を主張して谷の方角へむかえばいい。哨戒のダークエルフがいれば、絶対に見つけてくれるはずだ。
死者の眠りを妨げないよう馬足を常歩にして石の道を進む。半球状の遺構が墓所の入り口だ。遺体は地下に埋葬される。中に入ったことはないが、立ち寄ったことはあった。墓所の先の大森林には、もちろん、足を踏み入れたことはない。
大森林は背の高い樹木が多く、昼でも夜のように暗いという。目印も何もないので、迷い込んでしまえば出てくることも探すことも難しい。
さあ、乗り込もうじゃないか。意気込んだヴァリアンテが渋る馬の首をなでたその時だった。
「遅い。このくそ寒い中、どれだけ待ってたと思う」
遺構の柱のかげから、小柄な男性が姿を現した。
「……M3? なんで、君がここに……」
ローブについた砂埃をほろいながら、男は馬上のヴァリアンテを見下すような態度で鼻を鳴らした。彼はマキシマ・M・マクミラン。M3という通称で呼ばれる、魔梟師団に所属する大魔導師だ。
「魔神に謁見するんだろう? 抜け駆けはずるいと思わないか」
光の加減で赤くもみえる黒髪は、フードをかぶっているせいでほとんど闇と同化していた。赤紫の瞳は鋭く尊大な印象を隠しもしない。何より左顔面に浮かんだ霊印が異質さを主張していた。小柄さと童顔さで若くみられがちだが、老化が穏やかなのは高い魔力値のせいだ。
マクミランはカーマ王国の第三王家で魔導の大家だ。M3は剣士ではないので、ギュスタロッサに選ばれて金剛石の指輪をはめている。彼の魔武具は魔笏。剣士ではないので剣位持ちとは呼ばれないが、能力は剣位持ち相当だ。
「……どこで聞いた?」
連れ戻しにきたわけじゃないことはわかる。M3について知らない仲ではない。士官学校こそ同期ではないし、年齢も彼のほうがいくつか上だけれど、自習室で顔を合わせる程度には認知していた。会話をかわすようになったのは、剣術指南で魔梟師団へ通うようになってからだ。断じて友達ではない。けれど、彼の性格はよく知っている。
乗り手の不機嫌を読みとったのか、馬が心配そうにいなないた。
「お前の病室で、剣聖と赤狼師団長とカーシュラードがそろって何を話す?」
「……盗聴してたの?」
「そりゃあ、するだろう。熊と犬の結界なんぞ便所紙みたいなもんだぞ。一度うちで訓練でもしたらどうだ」
あまりの言い草に、ヴァリアンテはM3を馬上から睨みつけた。マクミラン家はよく彼を当主になど据えているものだ。
「そうカッカするなよ。聞いてたのも気づいたのも俺だけだ。俺がここにいることを、師団の誰も知っちゃいねぇ。もとはカーシュラードを探ってたんだがな、つり上げた獲物はでかかった。誰かと分け合う気はねぇよ」
片方の眉を上げて、M3が偽悪的な笑みを浮かべた。
「なあ、つもる話は馬の上でいいだろう? 俺はこれ以上歩くのも飛翔魔術を使うのも嫌だからな。疲れる」
だから乗せろと、彼は悪びれもせず片手を上げた。ここで悶着している場合ではないし、無視して置いていけば後々面倒ごとに発展する。舌打ちを隠さずしかめ面のまま、ヴァリアンテは仕方なくM3を引き上げた。後ろに乗せたのは嫌がらせも含んでいた。
「……尻が痛いな。しかも野郎とタンデムなんて、想像以上に気持ち悪い。なぜ俺がお前にしがみつかなきゃならん。おい、ヴァリアンテ、お前が歩いて手綱を引けばいいんじゃないか」
「蹴り落とすよ」
「止めてくれ。確実に受け身は取れない」
威張ることでもないのに偉そうに言い放つM3を振り落としたい衝動と戦いながら、ヴァリアンテは黙々と馬を歩かせた。ふたり用の鞍でもないのにふたり乗りなんて最悪に決まっている。文句を吠えたいが、言えば負けな気がして、理不尽を飲み込んだ。
M3は魔梟師団の頂点だ。魔力量は国内最高峰で、彼を超える者は知られていない。師団長ではないし一介の研究者ということになっているが、決して侮ることのできない男だ。古代魔導を専攻し、攻撃系の術に特化している。兵器としての価値は、カーシュラードよりも上かもしれない。
歩行や食事さえ魔術でなんとかしてしまえるほどの器用さの反面、魔力を使わなければ何の取り柄もない。体力は子供よりも少ないし、腕力は老婆にも負ける。おおよそ力仕事には向かないのがM3だ。馬に乗ることだってひとりでは無理だろう。
だが、もとより彼が肉体を鍛える必要はないのだ。彼はカーマ王家の中で常に上位に君臨するマクミラン家の長男で、魔力と精神力を鍛える訓練を、それこそ拷問のように幼い頃から施されている。マクミランでは魔が全てだ。雑事など使用人に任せればいい。それが許される地位と財力と権を持っていた。
「それで? 同行理由は?」
「魔神に謁見願うために決まってるだろうが」
「だから、なんでそんなことをしたいんだ。処刑場で魔力封印の術をかけた謝罪でもしたいのか」
ときおりM3の魔笏が足にあたる。自分の武器ぐらい大人しく持っていてほしい。
「あれか。あんなもん、魔神にとって屁でもねぇだろ。むしろ、内務大臣に脅されて連行されたんだ。うちも被害者だぞ」
ハッ、と憎しみを隠さず鼻を鳴らすM3は、彼は彼で師団を大切にしているのだ。口の悪さが台無しにしているが。
「カーマは本来魔導国家だろう。剣士ばかりがでかい顔をする情勢を変革するのに、いい機会だと思わんか? 魔梟師団は全員が『紅蓮の魔神』を推す用意がある。魔を虐げるいまの国王のおかげで肩身が狭くてな。一足飛びに頭を押さえたい」
「……それは建前だろ」
建前でも充分問題発言だが、それだけではないと直感が囁く。
「本音は?」
「魔神から古代魔導を引き出したい」
「今でも充分、君は強いじゃないか」
「そうだな。俺以上の戦魔導師は世界中探しても滅多にいないだろう。だが、俺は所詮、人間だ。魔族の血が入ってるなら別だが、ただカーマの血が濃いというだけだ。それ以上を得られるなら何だってするさ」
忠誠だ国政だと語られるより、利己的な都合を押し出してくる方が彼らしいし、信頼できる。いまの王都の状況を知っていて言えるのだから、図太さは他に類をみないだろう。自分よりよほどダークエルフの気質に近いんじゃないかと、ヴァリアンテは長嘆した。
「だから俺は魔神の敵にならない。ってことは、お前たちの敵にもならない。むしろ役に立つと思うぜ?」
「そうじゃなかったら、馬には乗せないけどね……」
「お前ら剣位持ちだって、原点回帰を願ってんだろ。国王も政治家も、剣位持ちを使いこなせてねぇからな。特にクーヴェルトのくそ野郎は、ヴァマカーラに対する扱いがひどすぎる。妬みとひがみだろ。だからネディエールの奴なんかに利用されんだよ」
慎重にならざるを得ない発言を、M3は簡単に言ってのけた。諫めるべきだとは思うが、心のどこか同意してしまうので、正面切って非難もできない。ヴァリアンテは否定も肯定もせずうなった。
国王クーヴェルトは正統王家の直系だが、魔力値は高くない。魔の才能は、ふたりの妹に受け継がれていた。次の女王はサヴィトリーニだろうと目されていた矢先に、年若い彼女は息子を産んだことが原因で亡くなってしまった。その数年後に生まれたヴァマカーラは、前国王夫妻が晩年も晩年にもうけた子だ。
誰もが思ってもみない姫君の誕生は、祝いの余韻を残す間もなく悲劇へと変わる。病によって王が崩御し、クーヴェルトが国王を継承することとなった。当時のヴァマカーラは魔が芽生えたばかりの幼子だった。
けれど、魔力値の高さは隠せない。ヴァマカーラが成長すれば譲位を求められることは想像に難くなかった。魔力値では王になる資格はないと陰口を叩かれ、実際に高魔力を持って生まれた分家の者たちの、はかるような視線にさらされてきた。クーヴェルトは、そんなさなかで生きているのだ。
魔力の強い者に劣等感を抱いていたとしても、なんらおかしくはない。だからこそ、王位を継承してからのクーヴェルトは方向性を変えたのだろう。
王は表だって対立を煽ったりはしないが、馬鹿ではない。彼は王族と協調するより、国民の支持を取りつけた。ゆっくりと、穏やかに、魔力の少ない者の保障を厚くし、待遇を改善させた。それだけなら、別段文句もなかっただろう。けれど、それで終わりはしなかった。
国政から高位魔力保持者や剣位を持つ者を、排除しはじめた。ある程度までの出世はできても、それ以上に食い込ませることをしない。クーヴェルトは魔力値の低い者たちを重用してまわりを固めていたので、少数派が声を上げても届かないことが多くなった。
ヴァリアンテもそのあおりを食ったのだが、それを知ったのは指南役として王城に出入りするようになってからだ。
本来なら、才能ある一般国民は見いだされ次第あらゆる進学で優遇される。金銭的負担もなく王立士官学校や私立校への編入が許され、支援を受け入れるのであれば国家資産として大事に育てられる。引き抜き制度を事実上停止に追い込んだのは、クーヴェルト派の役人だ。彼らの政策の中で、才能あるものがどれだけ進路を断たれたかしらない。
カーマという国は特殊な文化を持つ国だ。
血が濃い――魔力の高い者は、弱い者を守る。ただし、守り方はそれぞれの性格によるところもあるので、尊大な者もいれば献身的な者もいる。唯一の共通点は、最終的には命がけで弱きを守ることだ。
それも全て『紅蓮の魔神』に由来するのだが、持たざる者は簡単に受け入れたり信じたりできない。そういう意識を、クーヴェルトは育ててしまった。
「この状況を劇的にひっくり返すには、『紅蓮の魔神』復活は渡りに船だが、国民全員が復活を喜んで盲目的に平伏すわけじゃねえさ。クーヴェルトを敵に回せば禍根が残る」
「そうかもね」
カーマは魔神が創世した国だ。具体的な信仰や国教というものは存在しないが、位置づけ的には『紅蓮の魔神』こそがカーマの神と言っても過言ではない。だが、いくらその身に魔神の血を宿しているといっても、全員が全員その恩恵にあずかっているわけじゃない。魔神を信じていない者も、きっといるだろう。M3の言うとおりだ。
「魔神に会えば全部都合よくいく、なんて考えてたわけじゃねえよな?」
「……もちろん」
「それ聞いて安心したわ。魔神に傾倒しすぎて敵を作ってりゃ本末転倒だからな。カーシュラードみたいに」
「歩かせるよ」
「おいやめろ。てか、お前はなんでそうあいつに熱上げてんだ? 将来性への投資か? 付き合ってんのか? それとも、ハーフエルフのよしみか?」
「……ちょっと待って。私はハーフだって公表してないんだけど、どこで聞いたのか教えてくれるかな」
「本気の殺気をぶつけるんじゃねぇよ。お前の剣は耳に響く。別に誰に聞いたわけでもねえ。先祖返りにしちゃあ、お前の魔は純度が高すぎんだ。カーシュラードと波長が似てるしな。クセルクスの後妻の話は有名だろ。とくれば、ダークエルフとの混血だろうなって予想ができる。カマかけに引っかかったのはお前の凡ミスだ」
政治談義から流れるようにカーシュラードという弱点を持ち出し、いらだたせて判断力を鈍らせる。M3の話術にまんまと引っかかった己の愚かさに、ヴァリアンテは内心で後ろに座る男を罵りまくった。
だが、雑談もそこまでだ。
何を言い返そうかと考えあぐねているうちに、無数の殺気に囲まれていた。剣の柄を握るが、M3が邪魔だ。
魔力の収束。弓のきしむ音。
一瞬後の攻撃は、しかし、M3の放つ防御結界によって全て弾かれた。はらはらと矢が落ちる。
「……先に言ってくれ。吐き気がする」
「蜂の巣になりたかったのか。それは悪いことをしたな」
魔術発動にはキャストタイムがあるはずなのに、M3はほとんど即時発動が可能だ。魔導師というのは、そういう異質な者たちだ。ただ、至近距離でそれだけ高度な術を展開されると、魔力のあおりを受けて感覚が狂う。
軽く頭をふったヴァリアンテは馬から降りて、樹影から姿を現した者たちと向き合った。昼でも薄暗い森に溶け込む褐色の肌と独特な黒衣。淡い色の髪と、耳輪の長く伸びた耳。実母の面影が感じられる彼らこそ、探していたダークエルフだ。
攻撃はしてきたけれど、姿を見せたのだから敵意はないのかもしれない。きっと彼らの先制攻撃は、ヴァリアンテがM3に放った殺気に触発されたのだ。
だが、弓をつがえたまま、鏃はこちらを狙っている。
「黒氏族の血を引きし者がカーマ人を連れて何用か」
正面から、男の声が響いた。ヴァリアンテは姿勢を正し、深く息を吸った。
「『紅蓮の魔神』に謁見を申し入れにきた」
「お前ひとりなら問題なかろうに」
次の声は女だ。
「彼はマクミランの者。魔神の血統ということは、確かめられたであろう。黒氏族が刃を向ける相手ではない」
「常時ならば助けよう。現今はそれにない」
問答は仕方のないことだ。ヴァリアンテひとりであればこれほど警戒されることはなかったし、それを狙っていたからこそ今朝の密談で主張したのだ。M3の出現はイレギュラーだった。
彼が大人しく黙っているのは、己の出番でないと理解しているからか、それともヴァリアンテを従僕扱いしているからか、どちらにせよ場を引っかき回さないのなら、そのまま黙っていてほしい。
「私の剣にかけて、黒氏族に生殺与奪の権を預ける。マクミランは与する者だ」
言い切ったヴァリアンテに青年の姿をしたダークエルフがひとり歩み出た。
「魔神の血と、黒十三氏の誇りに懸けて、誓えるか」
「誓おう」
逡巡もない即答に、ダークエルフたちがようやく武器を納めた。
「ついてこい」
青年が影のように背を向ける。急いで馬に跨がるヴァリアンテの背中に隠れ、M3はひっそりとほくそ笑んでいた。
◇◇◇
昼を大幅にすぎて夕刻前、ヴァリアンテはようやくM3とのふたり乗りから解放された。
谷間は深く、すでに日が沈んだように暗かった。山脈までは緩やかな登りになっているが、突然壁のような断崖が現れる。乱杭歯のように岩が重なっているので、どこが入り口かわからない。だが、わずかな角度で隠された扉を見つけることができた。
「なるほど、これはわからんな。地質のせいか、谷の構造か、魔がこもってやがる。走査しようにも素通りする」
「……君はもう頼むから大人しくしててよ」
「矢が飛んでこないんだから、この程度はいいんだろ」
魔導師が許されていないのに術を使うのは、剣士が鯉口を切るようなものだ。敵対したいのでないかぎり、無礼な行為にあたる。
「谷そのものを利用するとは、見事なもんだな」
重なった岩陰を進んでいけば洞窟のような廊下が続き、やがてエントランスホールに出た。
つらら石や石柱に魔力の明かりが灯り、天然のシャンデリアを形成している。床は平らに磨かれ、ダンスパーティーを開けるほど広く天井が高い。壁には無数のアーチ状の入り口があり、階段が繋がっていた。城の全体像はわからないが、きっとそれなりの規模だろう。
柱に施された彫刻は、幾何学模様と動植物が多い。壁面も模様が描かれているが、人物画の類はひとつもない。原始的な自然の岩肌と古い様式の建築が融合していた。調度品は繊細で手入れが行き届いている。
「こりゃあ、すごいな」
M3が本当に感心しきった声で長嘆し、ダークエルフがその発言にちらりと視線を寄越した。どことなく誇らしげな空気を感じる。建国から二千年を越えて人間に発見させず、また、居住に耐えられる状態を維持してきた自負があるのだろう。
一番大きな石の階段を上るよう案内し、ダークエルフたちは三々五々に散らばっていった。預けた馬が気にならないでもないけれど、まさか殺して食うことはないだろう。きちんと世話をしてくれるはずだ。
階段はゆっくりとカーブを描いて上階へ続いていた。一度折れて方向を変えた先に、よく知る相手が立っていた。闇を溶かしたような漆黒の瞳は柔らかく楽しげだ。
「調子はどうだ? 顔色はよさそうだな」
「ギラーメイア」
それはまぎれもなく、実母そのひとだった。
耳を飾るいくつもの飾りが涼しげな音を奏でる。ぴたりと足を覆うズボンと高いヒール。燕尾服のジャケットをそのままドレスにしたような独特な民族衣装は、優雅というより好戦的だ。
顔を見るのは数年ぶりだが、昏睡中に彼女も魔力を分けてくれたと聞いた。うなずけば、うなずき返される。
カーシュラードの話では侍女長めいたことをしていると言っていたが、彼女に王族女性の世話などできるのだろうか。ヴァマカーラ姫に剣技でも教えているのじゃないだろうかと心配になってしまう。
「上がってきなさい。――魔力ではなく、脚力で」
ざっと三階分の高さを見上げたM3が、ヴァリアンテの背後で苦痛のうめきを漏らした。実際に飛翔術を使おうとしていたのか、魔の名残が散って石材に吸い込まれていく。
むしろ厳戒態勢にあるだろう場所で魔力を練ろうというのだから、M3の図太さには恐れ入る。首だけ振り返って半眼を向けると、盛大に鼻を鳴らされた。公式の場では王族としての威厳も礼儀も忘れないのに、彼の奔放さは予測ができない。
貧弱なM3に手を貸すこともせず、ヴァリアンテはゆっくりと階段を上った。ギラーメイアが隣に続く。
「王都の動きは?」
「赤狼師団が、レグナヴィーダ様にかけられた殺人容疑の冤罪を暴きました。証拠固めをしています。黒羆師団はほとんどの上層部と兵の四分の一が動けなくなってますからね、前線だったら全滅すれすれですよ。すぐ元通りにはならないでしょう。地方支部から兵を呼び戻すのかどうかも、判断できる者がいない」
「カーシュラードが生きている。それで補えばよろしい」
「笑えない冗談だ……」
首都防衛が必要な事態になれば、もちろんカーシュラードは命がけで守るだろう。そして、生きては帰らない。
「議会や市民はどうだ」
「その辺の事情を含めて、魔神と話したい。あなたも同席してくれてかまいません」
「ふむ。ここで話しても二度手間になるか」
黙ってうなずいたその時、黒いマントの端が視界をかすめていった。階段を上がった先に、セプターを握るM3が仁王立ちで見下ろしている。飛翔術というものはそれなりに高度な技術だったはずなのだが、彼をみていると誰にでもできそうな気がしてしまう。
「……マクミランの長子は、なかなか愉快な男だな」
ギラーメイアは瞳を丸くして、言いつけを守らず飛翔術を使ったM3の度胸に驚いていた。殺気を返したりはしないから、素直に彼女の言い分を聞かなくともよかったのかもしれない。ギラーメイアはギラーメイアで、M3と同じくらい何を考えているのかわからないのだ。
「そりゃどうも。クセルクス家の後妻でありながら主人のそばに居着かないあんたより、まっとうな自信があるぜ」
「王族規はカーマ人の規定であって、ダークエルフはその範疇に入らない。しかし細くとも繋がりがあればこそ、私が姫のお世話をすることができるのだ」
ふふん、と誇らしそうに鼻で笑う。ギラーメイアはM3の言動を意に介したりはしなかった。
M3にはギラーメイアの紹介をしていない。名前を呼んだだけだ。けれど、彼はそれだけでクセルクスの後妻、カーシュラードの実母だと見抜いた。結婚式でお披露目を行ったわけでもない、公式行事に一切顔を出さない、名前もほとんど表に出ていない。そんな相手をよく覚えていたものだ。
そういえばと、ヴァリアンテはふいに思い出す。クセルクス家の当主であるカラケルサスは、女主人の仕事を一切行わないギラーメイアに対して、いつも『彼女には彼女のやるべきことがある』と誇らしげに語っていた。無責任でいい加減なように思えて、彼はこうなることを予想していたのだろうか。
「さて」
扉の前でギラーメイアは一度足を止めた。
「ここから先の命の保障はしかねる。真なる魔と対峙する覚悟はあるか」
アンバー色の髪をふわりと波うたせるダークエルフは、年若い乙女のように華奢だ。けれど漆黒の瞳はまぎれもない戦士のそれだった。
「今のカーマでここより安全な場所はないと思うぞ」
「その点は私も同意するけど、ギラーメイア、私たちは脅しには乗らないよ」
息を飲むことすらしないふたりに、ダークエルフの王女は唇をへの字に曲げた。
「つまらない餓鬼どもよな。命がけできたとでも言えば、折檻してやろうと思ったのに」
「……俺らが無事に帰城できなきゃ、困るのは魔神側の連中だろうよ」
無事に帰ることも仕事のうちだ。
可愛げがないだのなんだと悪態をつきながら、ギラーメイアは扉を開いた。脅し文句のわりにそこは謁見の間でもなんでもなく、聖霊灯のともる廊下が続いていた。等間隔に段差があり、その奥に朱塗りの扉が収まっていた。
廊下に足を踏み入れた瞬間、ぴりりと産毛をなでるような魔力を感じた。なんらかの結界内に入ったのだろう。
「レグノ様と姫君は、お前たちが訪れたことをすでに知っている。レグノ様は最初、お前たちに会うつもりはないと仰っていた。けれど、姫の説得で渋々うなずいてくださった」
「それはよかった。伝えなければ、尋ねなければならないことばかりなので、拝謁できなければ全ての部屋を暴いていたかもしれない」
「諦め悪いところは誰に似たんだ」
「知ってますか、ギラーメイア。私はよく、母親にそっくりだと言われるんですよ」
「それはさぞかし美しく聡明で見識高い母君だろうな」
お互いに他人のような会話だが、ギラーメイアとヴァリアンテは血の繋がった母子だ。M3に親子関係を知られたくないので遠回しの応酬をしているが、彼がいなかったとしても皮肉をぶつけるのは変わらない。
そもそも、ヴァリアンテにとっては彼女が母親だという意識は薄かった。
「魔神だけではなく、姫にも目通り叶うんだろうな?」
口を挟んだM3をちらりと流し見て、ギラーメイアはうなずいた。
「姫はいつも魔神と共にある」
「……まさか、二人は恋仲だ、なんてオチか?」
「この戯けが。そうであればよかったかもしれないが、そうなることは絶対にないだろう。同じカルマヴィアといえ姫はカーマの姫であって、魔神の妻であった者ではない」
気になる言い回しではあるが、それ以上は黙れと気配が告げている。ギラーメイアは扉の前に立った。彼女の倍は背の高い扉は、赤地に黒い鋼で幾何学模様の装飾が施されていた。両手で押し開くと、暖色の明かりが廊下に差し込んでくる。
「犠姫、ただいま戻りました」
優雅に一礼をしたギラーメイアは、従えたふたりを扉の前に置き去りにした。肌を刺すほどの魔力に入室を戸惑ってしまう。
そこは謁見の間というより、客をもてなすためのリビングのようだった。森の風景を描いた絨毯が敷かれ、ローテーブルとソファが置かれている。壁際にはいくつものチェストと燭台。バルコニーつきの大きな窓がある。そして部屋の一番奥、一段高くなった暖炉のそば、ラウンジチェアに男女がそれぞれ座っていた。
腰を遙かに超えて伸ばされた朱殷色の髪は、緩く波うっている。まるで兄妹のような雰囲気だが、男には二本の角が生えていた。
琥珀色の瞳を輝かせているのがヴァマカーラ姫だ。王城で過ごしていた頃とは正反対の雰囲気の、ダークエルフ風のドレスを身に纏っている。
ヴァリアンテは彼女の姿を確認し、無意識に安堵の溜め息をついた。親衛隊員となり、彼女を護るはずだった。慕うべき相手が無事で、ようやく安心することができた。
ヴァマカーラもヴァリアンテの想いがわかるのか、視線を向けて笑みを浮かべる。彼女もまた、ヴァリアンテの安否を心配していた。
そしてもうひとり。
豊かな頭髪と同じ朱殷色の虹彩と、金の散る黒い瞳孔を持つ青年、彼こそが魔神の再来だ。処刑場で見た姿と変わらないはずなのに、纏う気配はまるで別物だった。
ちらと視線を向けられただけで、背筋が震えた。分け与えられた魔力が腹の奥で沸騰しているような錯覚を覚える。
ああ、彼は、彼こそが『紅蓮の魔神』だ。
カーマ建国の神祖。仕えるべき魔の王だ。
「あなたに問いたい」
反射的に膝を折ろうとしたヴァリアンテを遮って、M3が前に進み出た。魔笏を降ろすこともなく、部屋を満たす濃厚な魔に物怖じすることもない。胸を張って魔神を仰ぐ。
王族規範では、正統王家との謁見では、身分の高い者の方から声をかけなければ会話を行うことができないとされている。案の定というべきか、王家の中心で生きてきたヴァマカーラがM3の不遜さに眉を寄せ、不快さを示していた。だが、にらまれて改めるなら、M3は厄介者扱いされていない。
そして、この場はすでにカーマという国の領域を離れているのだ。それを、ヴァリアンテでさえも受け入れなければいけないのだと、実感した。
「何を問う?」
「あなたはカーマを滅ぼすつもりか否か」
魔神の第一声に感動する神経を持ち合わせていないM3は、間髪入れずに質問した。
「私を滅ぼうそうとしないかぎり、否」
レグナヴィーダは気分を害した様子でもなく、淡々と言葉を紡ぐ。
「では、あなたは何者か」
「私は私だ」
「それはレグナヴィーダ・オヴェディタ・カイレーク・ルクレヴァウス=カルマヴィアを真名とするカーマ人か、それとも『紅蓮の魔神』を冠される魔王か」
魔神はようやく興味を覚えたというようにM3に視線を合わせ、かすかに笑った。
「それを聞いた者はそなたが初めてだ」
嬉しそうな声色を耳にして気づかされた。レグナヴィーダを前にすると血の囁きに支配される。畏怖は誰何を排除し、盲目的に彼が何者か信じこんでしまう。
「私はどちらでもあるし、どちらでもない。血肉はカーマの民によって生み出されたが、躰は触媒にすぎず、すでに魔族への転化は済んでいる。エレボスよりこの地に降り、創主と戦い、カルマヴィアを愛して国を興した『紅蓮の魔神』は私の称号であるし、人間として過ごした二十五年の記憶をも否定はせぬ」
「あなたが『紅蓮の魔神』であると認識して問題ないんだな?」
「問題ない」
「ならば、魔梟師団に所属する魔導師及び魔術士はこれより、第三王家当主にして大魔導師、マキシマ・マグナス・マクミランの名において『紅蓮の魔神』顕現を認め、その魔族への忠誠麾下を宣言する」
公式行事でもなかなか名乗らない正式名で宣誓したM3は、騎士のように片膝をつくかわりに魔笏の石突を床に打ちつけた。軽く膝を折って頭を下げる。それが魔導師の最高礼だ。
「聖光霊以外の全ての聖霊を従え、古代魔すら御せるとは、二千余年の時を経て、これほどの逸材を出現させることができるのか」
レグナヴィーダはM3の特性を正しく理解し、どこか誇らしげに囁いた。魔神は右手を差し出した。彼の指に指輪や宝飾品の類はなかったが、長い爪先にまで浮かび上がる霊印が充分な効果を与えていた。
M3は堂々とレグナヴィーダの元へ歩み寄り、その指先にくちづけた。唇を触れる無礼はせず、忠誠を許された証として敬意を示す。
完全に出遅れたヴァリアンテは、それでも焦ってはいなかった。忠誠を誓うことは過程であって、今回の目的ではない。それに、魔梟師団の総意を知れたことは充分な土産にもなる。
言いたいこと言い終えて一定の満足を得たのか、M3が椅子を要求した。態度のでかさに呆れを通り越して恐れすら感じるが、そのおかげで空気が変わったことも事実だ。
どこか困惑気味なダークエルフが、異様な物を見るような目でM3を眺めながら、お茶の用意をはじめた。彼らに椅子を運んでもらい、給仕されるのは恐縮する。何か手伝わねばという衝動に駆られるが、手伝えば手伝ったでホストの品位を損ねることになってしまう。
所在なさげな表情を浮かべるヴァリアンテを救ったのは、美しく微笑むヴァマカーラ姫だった。
「あなたが無事で、安心いたしました」
「ありがたきお言葉にございます、殿下。幾多の助力を得て、こうしてお目にかかることが叶いました」
彼女を護るための親衛隊に推挙されていたが、その職に就くことは遠くなってしまった。けれど、想いは変わらない。ヴァリアンテは微笑みを返し、未来の主へ礼をした。右腕を前に出して腰を折る。騎士から淑女へ親愛を込めた礼だ。
ヴァマカーラ姫が声をかけてくれたおかげで、椅子に座らずにすみそうだ。いくら病み上がりでも、主と同じ空間で騎士が座るのは抵抗がある。
「そなたには私からも感謝を告げよう。そなたが命を賭したおかげで、私の癇癪に巻き込まれた者が少なくすんだ」
「持てる力があればこそ、行うべきを行ったまで。私には過ぎたお言葉です」
「それで瀕死になってりゃ世話ないけどな」
この場の誰よりも偉そうな態度で鼻を鳴らすM3を、ヴァリアンテは完全に無視した。
「あなた様の魔で生かされました。このご恩、生涯をかけて報いましょう」
「縁者へ贈った言葉は正しく理解されたと聞いたが、そなたは私に何用だ」
「わたくしたちを連れ戻しにきたわけではないのでしょう?」
「ええ、殿下」
ヴァリアンテは肯定し、居住まいを正した。
まずは王都の情勢を説明する。被害状況から始まり、各師団の動向。赤狼師団がレグナヴィーダ殿下にかけられた容疑が冤罪である証拠を見つけたこと。黒羆師団が機能停止していること。
「約三十時間後に開会する査問会で冤罪の証明がされます。査問会には国王と王妃、宰相、評議会の各会長、各師団の代表と各大臣、そして二十一王家の代表が参加します。処刑場での一件は、レグナヴィーダ様の正当防衛ということになるでしょう。ただの王族ではない。『紅蓮の魔神』そのひとが不当な扱いを拒絶したのです。巻き込まれてしまった者に哀悼の意を表しますが、加担した者に与える慈悲はない。黒羆師団は損害の訴えを申し出ません。おそらく、労働災害事故として扱うのではないかと思います」
ヴァリアンテは一度言葉を切った。肩に力が入ってしまう。
「しかし、レグナヴィーダ殿下の処刑に国璽が捺されていることが問題なのです。現在のカーマはクーヴェルト国王を愛している。王が『紅蓮の魔神』を殺そうとしたなど、あってはならない。たとえ真実だとしても」
「クーヴェルトは私の存在を知ってはいたが、何者であるかは知らなかっただろう」
「……それを聞けて安心しました。陛下に責任を取らせることだけは絶対に避けなくてはならない。誤解だった、騙されていた、どんな理由でもいいが、故意ではいけない」
レグナヴィーダの断言に、ヴァリアンテの緊張がほぐれた。クーヴェルト陛下は嘘をつくのが上手い方ではないので、万が一にでも魔神処刑を許可していたのなら、どこかでボロを出しかねない。友のために知らず押印してしまったというほうが、愚かさは同じでも幾分マシだ。
「国民が納得するシナリオを描くための人身御供は、ネディエール公ニーガスが担うことになるでしょう。けれど、ネディエール家それ自体を非難することはしませんし、取り潰しなどもってのほかです。あなたの怒り家名にまで及ぶのでしょうか?」
「私はニーガスに対して報復を行った。あの男以外の処遇に興味はない。だが、なるほど……」
魔神は優雅に嗤った。
「現世というものは煩雑らしい」
「建国から二千三百を越え、カーマの民は血を崇める者が減った。王と王族への敬意も、一概に血によるものではなくなっている。『紅蓮の魔神』の子孫であると語ってはいるが、あくまでも神話のできごとだと考える者が多い。日常生活で魔導師や剣位持ちとふれあうことなど、ほとんどないからな。血が沸き立つ体験をするほうが稀だ。暮らす上で邪魔にはならないし、連綿と続く記念日や祭りの象徴にしておくには便利だから排斥しないだけだろう」
茶菓子と紅茶を堪能しながら、M3が市井について語る。ヴァマカーラは最初こそ怒りを浮かべていたけれど、聞いているうちに顔色をなくした。彼女は慈善活動で国民とふれあう機会もあったが、その日常を知ることなく生きてきたのだ。
「一度でも魔神と相対すれば、どれだけ血が薄まろうがカーマ人のなんたるかを思い出すんだが、我が君は顕現を示すために国内行脚をする気はないんだろ?」
「是」
「査問会に顔出しくらいならどうだ」
「拒否する」
「だとよ、ヴァリアンテ。お前のもくろみは外れた」
「……私が耐えきれずに君の首を切り離す前に口を閉じてくれないか」
拳を握ってなんとか怒りを押しとどめるが、腕が震えそうだった。深呼吸を意識して激昂を殺す。M3の破天荒さに乗せられては駄目だ。
「王都はいま、国王派と、魔神派に分断されようとしています。魔神派に属するのは、剣位持ちやそれに類する血の濃い者たちです。だが、派閥など作る意味などないはずだ。内乱も革命も起こしている場合ではない。完全に派閥が分かれてしまう前に統合したいのです。クーヴェルト陛下が『紅蓮の魔神』に膝を折ってくださるのが一番の近道だったんですが……」
「私が王都へ下ることはない」
静かな、囁きに似た低音は、しかしはっきりとした意思が表れていた。カーマ人にとって残念なことだ。魔神はもう二度と彼の地を支配しない。
ヴァリアンテは瞠目し、奥歯を噛んだ。これほどのひとを、カーマは見捨てさせたのだ。我らの始祖を、我らの根源を、我らの礎を。その一端を担っただろうニーガス・ネディエールが憎かった。
「……わかっています。私はあなたの望むように働ければ僥倖です。そこでひとつ提案があります」
密談の終わりに思い浮かんで胸に秘めていた。もし彼が査問会に顔を見せてくれたのならば、不要だった案だ。
「我が『紅蓮の魔神』、いいえ、レグナヴィーダ殿下。どうか、カーマ王家を捨ててください」
静かな声は、室内に響いて溶けた。M3が眉をひそめ、ヴァマカーラ姫は細い指で口元を覆う。魔神とヴァリアンテだけが、無表情に見つめ合っていた。
自分の発言がどう吟味されているか、わずかな時間で見極めようと足掻くけれど、レグナヴィーダの赤闇の瞳は凪いでいた。
「元より興味はない」
「あなたにそう言わせてしまうことが国家として最大の損失ですが、あなたが望まれるのであればその痛嘆は喜んで受け入れましょう」
ヴァリアンテはゆっくりと息を吸った。
「王位、すなわち、カルマヴィア第二位継承権と、ルクレヴァウス公殿下の返上をお願い申し上げる。付随するすべての資産を国庫へ返上し、それをもって全ての慰謝料とすることをお認めください」
「……そんな」
ヴァマカーラの悲痛な囁きは、彼女もまた王位継承権者だからだ。カーマを継ぐ王族にとって王位を奪われることは、己の血を否定されることに等しい。純血であるがゆえの統治権を、誰より理解しているのは彼らだ。
血がそうさせるのだと思ってきた。カーマのいう『血』は、種そのものに根付いている。人間が人間を差別するのではない。血と魔は差別ではなく区別されるものであり、決して平等にはなれない。人間か非人間か、それほどの隔たりがある。
けれど、王族という制度は血を受け継いだ後にできたものだ。規範や誇りはあるが、血に根付いたものではないに違いない。
なぜならヴァリアンテも王族の血を継いでいるが、王位返上に対して何の感慨もないからだ。あのM3ですら神妙な表情を浮かべているというのに。
「私に殺された者は、私より弱い者だった。圧倒的に、とても、弱かった。だから殺してはいけなかったのだ。断罪は死者にしか行えないが、私が捨てる物で人が納得を得るのであれば、望むだけ与えよう」
魔神の言葉にM3が片眉を跳ね上げる。何を感じたのかヴァリアンテのは想像もつかない。
「王族がその王位を捨てて、己の財産を全て慰謝料と国庫へ回す。カーマ史上そんなことを行った王族はいないだろうな。今のカーマ人がいくら国王に肩入れしているとはいえ、そもそも敬うべきである魔神の血統からの王位返上は慈悲と取るだろう。世論はおそらくそれで黙る」
極論ではあるが、魔神がもし己の復活を大々的に宣言し、顕現のための犠牲は仕方のないものだから認めろと求めても、カーマ人は異を唱えられない。ついにその日がきたのだと、死者を生贄として喜ぶことすらするだろう。
だが、そうなれば、今のカーマは別の国になる。
「慈悲か。人の世はやはり面白い」
レグナヴィーダは楽しげに声を響かせた。かすかな笑みが、けれど、嘲笑に変わる。
「犠牲となった民には慈悲をかけよう。だが、決して、ニーガス・ネディエールだけは赦さぬ。あの男を、私は、殺したいから殺したのだ」
囁く声音に籠もる魔が、ヴァリアンテの肌をざわめかせた。背筋が寒くなる。
金剛位の剣士であり指南役として、人を斬り殺したことはある。カーマ人を護るよう血に刻まれていても、守るべきではない者もいるのだ。私怨ではなかったが、命を奪ったことには変わらない。相手に罪があったとしても、ヴァリアンテは罪悪を感じた。
だが、レグナヴィーダにはそれがない。憐れみはある。巻き込まれて亡くなった者へ、可哀想だと同情を寄せる感情も持っている。だが、それはきっと、愛玩動物へ寄せる想いと似たものだ。
絶対的強者にとって弱者とは、守ってやらなければ死んでしまうか弱い存在なのだろう。それは創造主としての高みの視点かもしれない。
だが、ニーガス・ネディエールは、レグナヴィーダがその手で殺すべき相手だと認めたのだ。明確な殺意を持って戦うべき対象となったのだ。
「……これでも法治国家だからな。あんたに元々かけられていた嫌疑が冤罪でも、ネディエール殺しに関しちゃ、殺人罪が適用されるぞ。報復行為は情状酌量があっても有罪だ。正当防衛ってことで手を打たないか?」
「私を国家の法で縛ろうとは笑止なことを言う」
友人に語りかけるような気安さをみせるM3の態度に咎め立てたいが、レグナヴィーダ本人は不敬など気にしていない。そうなると、外野は従うしかない。ヴァリアンテはこめかみが引き攣りそうになりながら耐えた。
「いや、まあ、そうなんだがな。あんたが嫌になればカーマそのものを更地にする権利を持ってる。国家より法より上位にいる相手に、殺人罪もクソもない。それは、わかるんだが……」
M3の下品な言い回しに、ヴァマカーラが露骨な嫌悪を浮かべた。賛同したかったが、ヴァリアンテはその微妙な隙を利用することにした。
「我が君よ、ネディエール公ニーガスは、いったいあなたに何をされたのですか?」
魔神のやることだから仕方がない、と納得するにしても、強制されるのと同情で認めるのでは雲泥の差だ。できれば国民感情を同情へ寄せたい。正当防衛だと思われることを拒否しても、同情を利用することは許してほしい。
レグナヴィーダはヴァリアンテを見つめていた。今度こそ真意を探られているのだとわかった。何も隠す気はない。もし心が読めるのなら、いっそ全てを暴いてほしとさえ思う。
やがて魔神は、小さく息をはいた。
「母体であるサヴィトリーニを殺した私を、いかなるときも恨み続けた。あの男ひとりの力では赤子の私すら殺すことはできず、幽閉が関の山だった。私には乳母が与えられ、乳母の嘆願で家庭教師がついた。私の知る人間は、彼女たちとあの男だけだ。二十五年はいい節目だろう。あの男の寿命が尽きるまで付き合う気などない。監獄を出ようとした私を罵った男は乳母と家庭教師を斬り殺した」
「……その時点で逃げてもよかったんじゃないか?」
茶々を入れるな。M3を睨みつけるが、厚顔無恥な男にとっては何の牽制にもならない。
「愛に狂った男の成れの果てがどこへ行き着くのか、興味がわいた。あれは真実、狂っていた。私が何者か知っていただろうに、認めはしなかった。子孫が私に逆らうのだ。なんという甘美な娯楽だろう」
語るレグナヴィーダの魔が重厚なものへと変化していく。呼吸すら奪われ、ヴァリアンテは喘いだ。彼は魔の王。人の姿を持っていても、決して人ではない。
だが、慈悲の心は持っている。
じわじわと浸食するように濃度を強めていた魔が、ふいに消えた。レグナヴィーダは顔色ひとつ変えていない。けれど彼がその気になれば、きっと国どころか世界を滅ぼすだけの力ある存在だと、いまさらながら実感した。気まぐれに、人間のように振る舞っているだけだ。
「あれは私を、『愛を知らぬ者』だと嘲った。だから、殺したのだ」
金の星が散る朱殷の瞳が愛おしげに細められる。
「私が血を分けてカーマを永続させたのは、私の愛したカルマヴィアを取り戻すため」
それは、建国史にも語られない真実だった。誰に語ったところで、信じてはもらえないような真実だ。
ヴァリアンテは二の句が継げなくなった。愛、だと。そんな理由で、とは口が裂けても言えない。蔑むつもりはない。ただ、あまりにもありふれた理由だったので、どう判断していいのかもわからなかった。M3も絶句していたことだけが唯一の救いだった。
静まりかえり、張り詰めた空気を壊したのは、鈴を振るような笑い声だ。
この場で笑えるなど、ダークエルフでもあり得ない。殺されてしまうのではないかと恐れるヴァリアンテをよそに、肩を震わせて笑うのはヴァマカーラだった。
レグナヴィーダはその笑いを咎めなかった。彼女は許されているのだ。
「ねぇ、ヴァリアンテ。わたくしが査問会に出るのでは駄目かしら?」
「姫様?」
「もちろん、城に戻るわけじゃないわ。査問会でレグノ様が『紅蓮の魔神』の顕現であると宣言をする。私は魔神の代弁者として振る舞いましょう。必要なら涙ながらに訴えることもできるわ」
慈愛の姫と名高いヴァマカーラは、まるで女王のような鮮烈なオーラを放っていた。控えめで大人しく己の意見を主張することもない、そんな姿はどこにもない。初めて知る主の強さに、ヴァリアンテは瞳を丸くする。
だが、未来の主人の変わりように驚いている場合ではない。レグナヴィーダが国に関わることを拒絶するいま、国王派をねじ伏せることができるのは、次期女王であるヴァマカーラ姫くらいなものだ。その彼女が魔神の代弁をするのなら、耳を傾けざるを得ない。
「査問会が終わったら、わたくしをここに戻してくれるかしら」
ヴァマカーラの琥珀の瞳は自信に満ちていた。そして、ヴァリアンテに対する信頼も。正式に決まっていなくても、彼女は命を賭して護るべきひとだ。
「もちろんです。私はヴァマカーラ殿下の騎士ですよ。親衛隊章はなくとも、あなたをお護りいたします。何者を敵に回そうと、姫を魔神の元へ送り届けましょう」
許されるのならこの瞬間から彼女の騎士として隣に立ちたいけれど、それが許されないことを知っている。だが、忠誠を誓うなら今をおいてない。
剣帯からふた振りのコリシュマルドを外し、片膝をついて頭を垂れる。
「我、ヴァリアンテ・ゼフォンは、我が血とギュスタロッサに授けられし剱にかけて、マルシュヴァリーリ公ヴァマカーラ殿下と、神祖『紅蓮の魔神』へ、永世の忠誠を誓います」
本来ならひとりへ捧げる忠誠だが、どちらの主へ捧げても不敬にはならないだろう。忠誠といえど種類は違うし、競合するものではない。
「あなたの忠誠を許します」
立ち上がったヴァマカーラが、ヴァリアンテの肩にふれた。指先が首をなでる。必要ならば騎士の首をはねることを厭わない、転じて、命を賭けられた責任を負うという宣言だ。そして騎士は主に、急所に許すことで誓いが完成する。
ヴァリアンテは誇らしげに顔を上げた。輝かんばかりのヴァマカーラの笑みを見るだけで、己が無敵にでもなったように誇らしい。
そして『紅蓮の魔神』は目礼でもってヴァリアンテに応えた。処刑場で魔力を分け与えたこと、そこに全てがこもっている。ヴァリアンテは魔神を見つめ、力強くうなずいた。
◇◇◇
自分の部屋に戻ったのは何日ぶりだろう。
囁きの谷からの帰りは早かった。M3が魔梟師団と転送門を繋げたので、王都への道は一瞬で済んだ。戻ってきたのはヴァリアンテだけだ。M3は魔神を質問攻めにする気らしく、谷に残った。査問会までには戻るだろう。
魔梟師団は王都の端だ。王城に近い剣聖の邸宅へ戻る途中に、自分の家に寄ることができる。病室へは戻らなくてもいいだろう。
やることは山積みだが、今は何より時間が惜しい。回せる手は全て回しておきたい。
深夜もとっくに過ぎた月のない夜だった。早朝と呼ぶには遠く、けれど夜中というには深すぎる。自宅の周囲は住宅街に近いので寝静まっていた。けれど、王都全体がどこかピリピリとした雰囲気が漂っている。
部屋の鍵は誰かに解錠された痕跡があった。金属の鍵もあるけれど、ヴァリアンテは魔術鍵を使っている。そして、解錠コードを教えている相手は限られていた。
「おかえりなさい。きっと寄るだろうと思いました」
「カーシュラード」
長い足がソファからはみ出していた。どうせ眠るならベッドを使えばいいのに。
「首尾は?」
「悪くないよ。魔神から話を聞けたし、査問会には彼のかわりにヴァマカーラ殿下が顔を出すことになった。レグナヴィーダ殿下は……、王位を返上し、王族ではなくなる」
ヴァリアンテがソファに近づくと、腕を引かれて抱き留められた。森を思わせるハーブの香りは、カーシュラードが愛飲している煙草の残り香だ。
「疲れた顔をしてます。仮眠をとる時間くらい、あるでしょう?」
「そうだね」
頬をなでられる心地よさに瞼を閉じると、唇を塞がれた。何度も啄まれているうちに、触れるだけでは我慢ができなくなる。
「っ、ふ……」
舌を絡めるいやらしい音が狭い部屋に響いていた。気持ちがいい。止められない。飢えていたのだと、肉体が欲を突きつけてくる。
腰を引き寄せられ、カーシュラードを跨ぐような態勢になった。衣類越しでも密着した身体が熱を帯びていくのがわかる。大きな手の平が背中をなで、尻を揉まれた。途端に腹の奥が疼き、抱かれる快楽を思い出した。
「……だめ、だよ」
「わかってます。あなたに無理はさせたくない」
抵抗にもならない抵抗なのに、カーシュラードは耐えている。なで回す動きは止めないけれど、それだけだ。官能を高めるほど過激なことはしない。
「朝まで一緒にいてください。それだけでいい」
無理矢理に欲をそぎ落とした声だ。それがなんだか、たまらなく切なかった。
「愛してますよ、兄さん」
カーシュラードのすがるような囁きに、ヴァリアンテはくちづけで応えた。




