血脈を守る者-1-
人を殺したことがありますか。
「ある」
その問いに、彼は静かにうなずいた。
では、人を救ったことは。
この問いには、答えるまでに間があった。
「……まだ、ないね」
◇◇◇
カーマは『紅蓮の魔神』に血を分け与えられし民である。
いつか蘇る神祖のため、この魔と血を繋ぐことを誓おう。
復活こそが悲願であり、彼に膝を折ることは誉れである。
カーマの民よ、神祖を崇めよ。
我ら魔神の血に祝福あれ。
◇◇◇
新しい年が明けて数日。肌を刺すように寒い冬の日、王都カーマは早朝から緊張感に包まれていた。
黒羆師団、赤狼師団、魔梟師団の三師団の主立った役職者たちが、王都の外れにある広場に集まっていた。市街から離れたこの場所は、建国当時に断首刑を行っていた忌まわしき場所だ。カーマ王国の極刑は死刑だが、断首は廃止されていたはずだ。それがいま、復活しようとしている。
厳重警備の中、一台の馬車が騎兵に警護されながら広場へと駆けていく。騎兵のまとう軍服は黒で、国防を担う黒羆師団の軍人たちが罪人の護衛についていた。その腕には喪章が巻かれている。
ただの罪人を護送するだけなら、警察組織である赤狼師団の職務だ。管轄外の職務にしゃしゃり出てくるなと、師団間で一悶着がある。だが、そんな身内争いができない相手から命をくだされていた。
この馬車に囚われているのは、カーマ正統王家、カルマヴィアの名を冠する王子だ。
王位継承権二位、レグナヴィーダ・オヴェディタ・カイレーク・ルクレヴァウス=カルマヴィア。現国王の甥に当たる者だった。
レグナヴィーダ王子の存在は、そのほとんどが秘匿されていた。心身に問題があり、話すことも歩くこともできないと言われていた。王子の出生より、母であるサヴィトリーニ王女が亡くなったことの方が衝撃を持ってカーマ国民を打ちのめした。サヴィトリーニ王女は、国民の誰もが慕う素晴らしい王女だった。公式行事にも顔を出さず、あらゆる式典でも名が出ることのない王子は、新たな継承権を持つ別の王女が誕生したことで存在すらも曖昧になってしまった。
昨日は故サヴィトリーニ王女の二十五回目の命日だったが、レグナヴィーダ王子の誕生を祝う話題は新聞にすら載らなかった。静謐に過ぎるかと思われたその夜、事件が起きた。
明けて翌日、レグナヴィーダ王子の処刑を決行する旨の書状が、各師団に届けられた。国璽の押印された公文書に逆らえる者はおらず、各師団が一日がかりで処刑の場を用意させられた。
護送任務をあてがわれたひとりであるカーシュラード・クセルクスは、手綱を握る手の震えを、何度も必死に抑えこんだ。吐息が白く凍って背後にたなびく。幾重にも結界を張られているにもかかわらず、一瞬でも気を抜けば飲み込まれてしまいそうな魔力が、馬車の中から漏れ出ていた。
今このカーマ王国において、一番魔神の血が濃いといわしめた継承第一位ヴァマカーラ王女より、はるか上回る魔の気配だ。彼が馬車に乗り込む姿を見て、護送兵の誰もが絶句した。囚人の危険性から、カーシュラードを筆頭に実力のある者ばかりが集められている。身体の芯が震え、血が沸き立ち、悦びをともなった畏怖を感じたはずだ。
カーシュラードは脳裏にこびりついた王子の姿を反芻した。忘れようとしたって、忘れられるはずがない。
日に当たることのなかった青白い肌。膝裏まで伸びた朱殷色の髪と瞳。魔族のように縦に裂けた漆黒の瞳孔を囲み、かすかな金が散っている。高い襟でも隠せない首筋の霊印は指先にまで宿っていた。ローブでほとんど肌を覆っていても、きっと全身を彩っているに違いない。カーマ人特有の尖った耳と、その上部から生えた異形の――双角。
それは、古文書に残る『紅蓮の魔神』を顕現だ。
ついに神祖が復活したのだ。カーシュラードはひと目見て膝を折りそうになった。己に流れるカーマとダークエルフの血が騒ぐ。彼こそが、我がカーマが崇拝すべき王だ。
なぜ、これほどまでの人物の存在を秘匿していたのか。少なくとも噂されていたような心身の虚弱さなど感じられない。どうして今になって彼を処刑しようなどと愚を犯すのか。護送官たちの胸裏に不信感が募っていた。
レグナヴィーダ王子の罪状は殺人だ。乳母と家庭教師のふたりを殺したのだという。秘密法廷すら開かれず、それはあまりにも突然の決定だった。
処刑命令の発行者は内務大臣だ。第一王家ネディエール公ニーガスは、現カーマ国王の親友にして、故サヴィトリーニ王女の夫であった人だ。レグナヴィーダの実父だった。
ニーガスとサヴィトリーニが大恋愛の末に結ばれたことは、今でも懐かしさをもって語られることがある。悲劇として幕を閉じたからこそ、人々の記憶に残っているのかもしれない。
喪が明けてからのニーガスはまるで人が変わったように政の世界に進出し、息子のことなどひと言も語ることはなく、そうして二十五年経って息子を処刑する命令を下した。一体何があったのか、軍人には語られない。与えられた命令をただ実行することだけを求められる。
カーシュラードは歯を食いしばり、護送馬車へ視界を向けた。それから、ずっと先で馬を走らせるヴァリアンテのことを想った。
指南役であるヴァリアンテは、高官たちの乗った馬車の護衛任務に就いている。本来、軍人ではない彼に護衛は求められないはずだが、金剛位持ちの魔剣士として剣聖から要請されてしまえば、断ることもできない。その剣聖には、おそらく国王陛下がそれとなく打診したのだろう。
そもそも、今回の件について、名誉元帥である剣聖イラーブルブ・ゼフォンは師団を動かすことを拒否していた。だが、いくら剣聖でも国璽を持ち出されてしまえば飲まざるを得ない。
一体この国で何が起ころうとしているのだろう。
彼を処刑してしまって、本当にいいのだろうか。
何度目かもわからない自問に、カーシュラードは懊悩していた。きっとヴァリアンテも同じことを思っているだろう。
この一大事にダークエルフがひとりも姿を見せないことが不思議だった。彼らは『紅蓮の魔神』のしもべだ。魔神の眷属だ。だからこそ、魔神の血を引くカーマ人を助け、必要ならその命すら投げ出すことを厭わない。それも全て、遠い未来に復活を果たす魔神のためだ。魔神に対する信心はただのカーマ人より強い。
そしてその血を、カーシュラードもヴァリアンテも身のうちに半分抱えている。彼を殺すなと血が喚く。レグナヴィーダに忠誠を誓えと本能が爪を立てる。
黒羆師団の軍服が、カーシュラードの両肩に重くのしかかっていた。
◇◇◇
魔力値の高い者を極刑に処するさい、その魔力を一度封じ込めなければ首を落とせない。
魔力値の高い者は総じて外界からの刺激に強くできていて、一般的な人間なら致命傷になる傷でも生きながらえてしまう。高等魔術や魔導を扱うには、生まれながらそれに耐えうる肉体を保持しているのだ。命を失わないよう、生命力が尽きても魔力が肉体を生かす。
だからその魔力を一時的に封印しなければ、首を落とすこともできなかった。皮膚に触れた瞬間、当たった刃が死刑囚の魔力に反発して砕けてしまわないように。
平たく研磨された石の祭壇とギロチンの前で、レグナヴィーダは膝を突いていた。灰色の長衣は、死に装束とも罪人の証ともとれる。王族に灰を纏わせるなど、本来ならばあり得ないことだ。
首と胴に棘のある闇の円環が浮かんだ。魔梟師団の魔導師たちが十一人がかりで封印術をかけ終わり、重い足を引きずって後方へ下がる。魔導師をあそこまで疲弊させる王子の魔力がおそろしい。
処刑場には王都で勤務中の黒羆師団兵たちのほとんどが集められていた。祭壇を中心にして円上に整列させられている。まるで王子が国家の敵であるかのような扱いに、動員された大半の者は不平を抱いていた。
だが、中止しろと進言できる権力を持つものは、誰もいない。そもそも、当の黒羆師団長が内務大臣を率先して護衛しているような状態だった。
力を磨くばかりで政治と王族の社交から遠ざかっていたカーシュラードは、この事態になって初めて、自国の歪さを知った。血と魔が国を作るのではないらしい。
「カーシュ……」
指南役の正装に喪章をつけたヴァリアンテが、カーシュラードのそばまで近寄ってきた。封印術が完了したことで、高官たちから下がれと命じられたのだろう。軍属ではない彼が任を解かれたところで行き場がない。消えぬ警戒心が、一番の味方である同胞の元へ引き寄せる。
「大丈夫ですか」
「あ、ああ……。パイモンがしきりに啼くんだ。何か悪い予感がする」
「……そう、ですね」
訓練以外で滅多に抜くことがない魔剣の柄へしきりに手をやっているところを見ると、ヴァリアンテも彼に珍しく相当緊張しているらしい。もっとも、それは誰もが同じだろう。
カーシュラードは処刑場の中心に視線を向けた。隊長クラスはのきなみ円の中心近くに配されているが、祭壇からはわずかに遠く距離を置かれている。
刑の執行自体は内務大臣が主導のもと、官僚たちの手で行われる予定だ。赤狼師団に任せない理由は、師団長が役職を賭けてでも拒否したからだと聞いている。一介の部隊長であるカーシュラードには真偽をはかれないが、だとすれは赤狼師団は危ない橋を渡ったのだろう。政治には疎くとも、赤狼師団長が内務大臣を敵に回したことだけは理解できた。
けれど、それが全てでもないのだろう。黒い軍服ばかりのなかに、赤い軍服も点々と混ざっていた。
「怖い、ね……」
「……ええ。そう、……ですね」
空は晴れていても清々しい気持ちにはなれない。肌を刺す寒さは気温のせいだけではないだろう。
内務大臣ネディエール公ニーガスが、高官や黒羆師団長のそばを離れ、息子の元へ足を向けた。強大な魔力を封印され、危険がないと安心しているのだろうか。声は聞こえないが、表情はわかる。
レグナヴィーダ王子はニーガスとは似ていなかった。髪の色が同じというだけで、親子関係を結びつける仕草も何もない。そして何より、ニーガスの目はあまりにも冷酷だった。
憎悪と嫌悪。怨嗟と憤怒。実の息子に対する情など欠片もなく、むしろ、処刑できることを喜んですらいるように見える。立場を優先し、悔恨を隠しながら刑を執行するのではない。あれではまるで、私怨だ。
「何だ……?」
じっと様子を窺っていたヴァリアンテが身構えた。
ニーガスは笑みを、残忍な嘲りを浮かべている。それが遠くからでもはっきりわかった。顔を上げることもなく、虚空を見つめていたレグナヴィーダ王子が、そのとき初めて面を上げた。
ざわり、その長い髪が波打つ。
横顔しか見えないが、王子が実父に何かを語りかけている。近くにいたニーガスの取り巻きたちが、後退った。
パキン。カシャン。パリン。
薄いガラスが割れるような音が、立て続けに聞こえてくる。恐怖と畏怖に総毛立つ。
「カーシュ、刀を――…ッ?」
ヴァリアンテの言葉は途中で途切れた。カーシュラードは反射的に刀を抜いて銘を呼んだ。何かを考えている間も惜しいし、そんな余裕もない。ただ、ヴァリアンテも魔剣を掲げていることだけは、肌を舐める気配で悟った。
「ッ……?」
爆音は音として感知されなかった。
闇が膨れ上がるのが見えた。次の瞬間にはそれが弾け、爆風が一気に駆け抜けて行く。円を描くように地面をえぐり取って、その魔は雲すら蹴散らして爆発した。
カーシュラードが感知できたのはそこまでだった。黒刀は唸りを上げ、主が放った防御魔術の範囲を広げようと啼きに啼いた。処刑場広場を覆うほどの規模の防御など、魔具の補助がなければ正気の沙汰ではない。
それはほとんど、本能的な選別だった。
カーシュラードは確実に生き残れる者を判別して、優先的に防御した。立ち上がって戦えない兵士は必要がない。自分が倒れてしまえば本末転倒なので、最低限戦えるだけの魔力は残して、限界ギリギリのところまで引き出して術を放つ。
防御に漏れた者は、必要犠牲なのだと切り捨てる。その選択は効率的だが、かけらの容赦もない。
だが、生死や倫理観を討論している余裕などないのだ。瞬間的に判断できなければ、諸共消し炭になってしまうだろう。
そうして唐突に、高圧力の魔の放出が止んだ。
耳の痛くなるような静謐と、心地よくすら思える真冬の空気が戻る。
太刀の柄を握り直す手が震えていた。耳が痛い。血管が脈打っている。いっそこのままぶっ倒れてしまいたいが、まだ、戦える。瓦礫の破片か何かで額を切ったのか、血が目の中に入って煩わしい。
「……カーシュ、状況を。見える範囲でいい、から」
細い、声だった。けれど、ヴァリアンテは生きている。そのことだけに安堵して、カーシュラードは振り返ることをしなかった。彼の生死を後回しにしていた自分に気づいたが、感情の分析など後でいい。
瞳は一点、この惨劇を生んだ場所を見据えている。
うめき声と悲鳴が聞こえた。処刑場のギロチンも、到底ひとの力で動かせそうにないと思えた石の祭壇も、跡形がなくなっている。中心地には、黒いもやのようなものが蠢いていた。
「……レグナヴィーダ殿下のお姿は、まだ、確認できません。負傷者は、……数え切れない」
おそらく、死者も少なくない。
「そう……。君は平気?」
「満身創痍ですが、戦えますよ」
半分は虚勢だ。あとの半分は義務感と意地だ。戦えるが、誰と戦えというのだろう。
ふいに、金属が地に刺さる音を耳が拾った。重たい咳の音が続く。
「……ヴァリアンテ?」
様子がおかしい。ここにきてようやく、カーシュラードはヴァリアンテの異変を察知した。
視界の隅に闇色のもやを入れながら、すぐ隣にいたはずの彼を確認する。指南役の葡萄色の装束に、所々赤黒い染みが浮かんでいる。その片手から剱が一本滑り落ちて、地面に刺さっていた。もう一本も指に引っかかっているだけだ。
「彼を恨んではいけない。殿下を守るのは血の定めで、民を守るのもまた、この血の……」
ヴァリアンテの朱殷色の瞳は開いていたが、何も映してはいなかった。小さな咳に朱が混じる。形のいい口端から一筋の紅が滴った。
ぐらりと、その身体がかしぐ。
「ヴァリアンテ……?」
カーシュラードは叫んで、倒れ込んできた身体を抱き留めた。ゆっくりと膝を突く。襲撃があれば反応が遅れるだろうが、考えていられない。
「……あとは……、任せ……」
全て話し終える前に四肢の自由を放棄したヴァリアンテは、胸から腹にかけて引き裂くような傷を負っていた。だくだくと血が流れ出す。押しとどめる魔力は、ひとしずくだって感じることができない。
カーシュラードの心臓は凍りついた。使命感や義務感、戦士としての矜持が音を立てて崩れ去る。
弱まってほとんど感じとれない脈拍。血の気の失せた蒼白な顔。魔剣を握ることさえかなわない、力の失せた細い指。腕の中で、ヴァリアンテの命がこぼれ落ちていた。
「ヴァル! ヴァリアンテ……!」
名を呼べど答えは返らない。救護班などこの場にはおらず、いても優先されないことを知っている。誰もが己を守ることで精一杯か、生死の境を彷徨っている。ここは戦場より酷い場所だ。
カーシュラードは己に残していた魔力を引きずり出して治癒魔術を唱えた。回復術方面は向いていないからと鍛錬を怠っていた自分を殴りつけたい。
「ヴァル、駄目です……っ、目を、あけて」
ヴァリアンテはおそらく、カーシュラード以上の防御結界を敷いたのだ。もとより多い魔力を全てつぎ込んで、生命力さえ魔力に変えた。万が一を考えて、魔の効力を高める護符を身につけていたが、それも全て壊れて砕け散っている。
そんな無茶をすれば肉体がついていかず内部崩壊を起こすのも当然だ。いくらダークエルフの永久代謝細胞があっても、魔力がなければ意味がない。
「――礼を言おう」
深い低音が響き、カーシュラードは弾かれたように顔を上げた。そのまま驚愕に瞳を見開く。
石の祭壇の前で封印術を施され、そして、強大な魔を暴走させたレグナヴィーダ王子がそこにいた。灰色の長衣はすっかり闇色に染まり、裾は舐めるような炎にゆらめいている。
「その者と、そなたのおかげで、私は最小限の命を奪うだけで済んだ。繋ぐ者たちを断ち切るのは、かわいそうだ」
朱殷の中で泳ぐ黒と金。魔の瞳は氷のように冷たい。
「四半世紀、つきあった。断罪はその身にくだした。しかし、私は、非難しよう」
淡々と語る口を、カーシュラードはただ追うことしかできない。
「私はそなたたちを覚えおく。真実を白日へさらすと信じよう。……我が眷属の血を引きしそなたらを、易々死なせはせぬ」
レグナヴィーダ王子はゆっくりと膝を折り、ヴァリアンテの胸に手をかざした。霊印が爪先にまで浸透し、墨を乗せたように黒い。ぼんやりとした闇色の光は暖かく、力強く、どこか泣きたくなるほどの郷愁を感じた。
光が吸収されていくにつれ、ヴァリアンテの脈動に力が増していく。これは回復術ではない。魔そのものを分け与えているのだ。そして、カーシュラードにもその恩恵が与えられた。
彼の魔を味わった。それだけで、充分だ。
カーシュラードは、一点の曇りや欺瞞のかけらすら混じらない純粋な魔の瞳を、射ぬくように見つめた。そして、命を失うことを免れた兄を腕に抱きながら、半身とも呼べる黒刀を地に突き刺して騎士の礼をとった。
「我、カーシュラード・クセルクスは、我が血と剱にかけて、神祖『紅蓮の魔神』よ、あなたに永世の忠誠を誓いましょう」
静かに吠えたカーシュラードは許しを求めるように頭を垂れた。儀礼には何ひとつ則っていないが、形式などどうでもいいのだ。真実の心が届けば、それで成立する。
「私の魔は、すでにそなたへ分け与えた」
レグナヴィーダは応じ、カーシュラードの首を指の背でなでることで忠誠を許した。
王子はゆっくりと立ち上がり、憐憫をこめてぐるりとあたりを見つめ――。
そのまま、姿を消した。




