第4話:コート整備の涙と、恋の自覚
あの部室裏での衝突から、二日が過ぎた。
気まずいなんて言葉じゃ足りない。
練習中、一ノ瀬先輩と視線がぶつかりそうになるたび、私は逃げるように目を伏せた。先輩も無理に声をかけてくることはなく、ただ遠くから痛ましそうな、探るような視線を投げかけてくるだけ。
自分からあんな酷い言葉をぶつけて突き放したくせに、先輩が離れていくと、胸にぽっかりと冷たい風穴が空いたみたいに寒かった。
「はい、今日の全体練習はここまで! 明日の地区予選に出るメンバーはしっかり休養を取ること!」
部長の号令で、金曜日の練習が締めくくられる。
夕暮れが近づき、西の空は燃えるような茜色と紫色のグラデーションに染まり始めていた。
「漣、お疲れ様!」
ベンチの方から、弾んだ声が聞こえる。
見ると、逢坂莉央奈先輩が冷えたスポーツドリンクのボトルを二本手に持ち、漣先輩の元へと駆け寄るところだった。
「これ、冷えてるよ。明日の作戦、帰りに少し話さない?」
「あ、ああ……サンキュ」
莉央奈先輩からボトルを受け取る漣先輩。
先輩の横顔は少し疲れているように見えたけれど、莉央奈先輩が屈託のない笑顔で何かを話しかけると、ふっと小さく微笑んで頷いた。
夕日を浴びてキラキラと輝く莉央奈先輩のポニーテール。並んで立つ二人の姿は、相変わらず誰が見ても完璧な一枚の絵だった。
――『逢坂先輩と練習した方が、ずっとお似合いです』
自分がぶつけた最低な言葉が、脳内でフラッシュバックする。
あの時、先輩は傷ついた顔をしていた。
私の我儘で先輩を困らせて、空気を壊して。それなのに莉央奈先輩は、あんなに自然に、まっすぐに漣先輩を支えている。
(私なんて、いなければよかったんだ……)
「歩乃果ちゃん、お先にね! コート整備、お願いしちゃって平気?」
「あ、はい! あとはやっておくので、先輩たちこそ明日に備えて休んでください!」
同期や先輩たちが次々と部室へ引き上げていく中、私はひとり残ってコート整備用の大きな金属ブラシ(トンボ)を両手で握りしめた。
ザッ、ザッ、ザッ。
誰もいなくなったクレーコートに、ブラシが土を均す単調な音だけが響く。
夕日がどんどん落ちて、長い自分の影が赤茶色の地面に伸びていく。
さっきまで部員たちで溢れていたはずの空間が、嘘のように静まり返っていた。
「……っ」
急に、視界がぐにゃりと歪んだ。
瞬きをすると、熱い雫がぽろりと頬を伝い、乾いたクレーの土の上に小さな濃いシミを作った。
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
ボロボロと零れ落ちて、ブラシの柄を握る自分の指先を濡らしていく。
「なんで……なんで泣いてるの、私……」
悔しい? 自分が惨めだから?
違う。
莉央奈先輩に嫉妬したから?
それも、あるかもしれない。
でも、一番苦しい理由は――そこじゃなかった。
頭に浮かぶのは、いつだって漣先輩のことばかりだった。
不器用にラケットを振る私の手を、後ろから包み込んでくれたあの温もり。
「力入りすぎ」って笑いながら、くしゃっと頭を撫でてくれた大きな手のひら。
部室裏で「俺、お前に何かしたか?」って、私のことを本気で心配してくれた、あの真剣な琥珀色の瞳。
先輩の隣に莉央奈先輩がいてほしくない。
先輩の笑顔を、あんなに間近で独占したい。
先輩の大きな手で、もう一度頭を撫でてほしい。
私だけを、見てほしい。
「……好き、なんだ」
夕暮れの静寂の中に、ぽつりとこぼれ落ちた言葉。
それは、ずっと心の一番深い場所に隠して、見ないふりをし続けていた本音だった。
ただの憧れでも、面倒見のいい先輩への感謝でもない。
私は、一ノ瀬漣という男の子に、とっくに恋をしていたんだ。
『お似合い』なんて嘘をついて、自分から突き放しておきながら、心の中では先輩を求めて泣いている。
自分のあまりの身勝手さと、遅すぎた自覚に、胸がぎゅっと締め付けられて息ができなかった。
「好きだったんだよ……っ、先輩……」
私はブラシの柄に額を押し当て、茜色に染まる無人のコートで、声を押し殺して泣き続けた。




