第3話:すれ違いのラリー
週が明けても、私の胸の奥に刺さった棘は抜けるどころか、日を追うごとに深く根を張っていった。
放課後のテニスコート。
初夏の風は心地いいはずなのに、私の呼吸はどこか浅く、ラケットを握る手のひらには嫌な汗が滲んでいる。
「小日向、次のメニュー入るよー!」
「はいっ、すぐ行きます!」
私は努めて明るい声を張り上げ、先輩たちと目を合わせないように足早に駆け出す。
特に、あの一角――コートサイドのベンチ付近には、絶対に近づかないようにしていた。
そこにはいつも、一ノ瀬漣先輩と逢坂莉央奈先輩の姿がある。
大会のエントリーシートを確認し合うふたりの距離は、相変わらず誰が見ても完璧なバランスで、並び立つだけで一枚の絵画のようだった。
私のような平凡な1年生が入り込む隙間なんて、1ミリも存在しない。
(……これでいいんだ。邪魔しちゃいけないんだから)
自分に何度も言い聞かせる。
私はただの初心者の後輩。これ以上、漣先輩の親切に甘えて時間を奪うわけにはいかない。
そう心に決めて、この数日間、私は先輩からの視線を徹底的に避けていた。
声をかけられそうになればボール拾いを理由に遠ざかり、アドバイスを受けそうになれば「大丈夫です、自分でやってみます」と距離を置いた。
それが「正しい後輩の態度」だと信じ込んで。
「……はぁ」
全体の練習メニューが終わり、休憩のアナウンスが入る。
私は部室棟の裏手にある水飲み場へ向かい、蛇口をひねって冷たい水で顔を洗った。
滴る水滴をタオルで拭い、ふうと息を吐き出した瞬間――。
カツン、と背後でアスファルトを踏む乾いた足音が響いた。
「おい、歩乃果」
低く、どこか固いトーンの声。
心臓が跳ね上がり、反射的に肩がすくむ。
ゆっくりと振り返ると、部室の壁を背にして一ノ瀬先輩が立っていた。
ラケットを持たない先輩の右手は、所在なげにポロシャツのポケットに突っ込まれている。
前髪の隙間から覗く切れ長の瞳は、いつものからかい混じりの柔らかさなど微塵もなく、まっすぐに私を射抜いていた。
西日の影が深く落ち、先輩の端正な顔立ちを険しく際立たせている。
「あ、一ノ瀬先輩……お疲れ様です。あの、私、コートの整備が――」
逃げ出そうと横をすり抜けかけた私の手首を、先輩の長く硬い指先が、ぎゅっと掴んだ。
「――っ!」
肌と肌が触れ合った瞬間、パチリと静電気が走ったような衝撃が全身を駆け抜ける。
骨張った指の力は思いのほか強く、振り払うことすらできない。
「逃げるな。話がある」
至近距離から見下ろされる琥珀色の瞳。
その奥に揺れているのは、明らかな苛立ちと、それ以上に深い困惑だった。
「お前、今週ずっと俺のこと避けてるだろ。声かけても目を合わさねえし、アドバイスも聞かねえで逃げるし。……俺、お前に何か気に障ることしたか?」
低い声が、静かな部室裏の空気を震わせる。
痛いくらいにまっすぐな視線。
先輩は本気で悩んでいたのだと、その表情を見て初めて気づいた。
私が子どもじみた態度で距離を置いたせいで、先輩を傷つけていた。
(ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんです)
そう言えばいい。
全部私の勘違いで、ただ勝手に気まずくなって逃げていただけだって、素直に謝ればいい。
それなのに――掴まれた手首から伝わる先輩の体温が熱すぎて、私の心の中で別の感情が爆発しそうに膨れ上がった。
(どうしてそんなに真剣な顔をするの?)
(どうして、ただの後輩の私なんかに構うの?)
(先輩の隣には、逢坂先輩っていう完璧な人がいるのに……!)
胸の奥に渦巻いていたチクチクとした痛みが、どす黒い嫉妬と惨めさに形を変えて、喉元までせり上がってくる。
「……離してください」
震える声でそう告げると、先輩の眉がピクリと跳ねた。
「理由を聞くまでは離さねえよ。俺たち、ちゃんと話せてただろ」
「話すことなんて、何もありません!」
私は掴まれていない左手で、先輩の腕を力任せに押し返した。
手首の拘束がふっと緩む。
一歩後退り、荒くなった息のまま、私は堰を切ったように言葉を吐き出してしまった。
「私みたいな初心者に構ってる時間があったら、逢坂先輩と練習してください!」
「……は? 莉央奈? なんでそこで莉央奈が出てくるんだよ」
心底わけが分からない、というように先輩の目が丸くなる。
その無垢な反応が、かえって私の心を残酷に切り裂いた。
「ふたりでミックスダブルスに出るんですよね!? 逢坂先輩と練習した方がずっと有意義だし、ふたりで並んでる方が……ずっとお似合いです!」
言いたくもない言葉が、トゲのついたナイフになって口から飛び出していく。
自分でも何を言っているのか分からない。
ただ、これ以上先輩の近くにいたら、胸が張り裂けて泣き出してしまいそうだった。
「私なんかに優しくしないでください。……邪魔になりたくないんです」
唇を噛み締め、最後は絞り出すような声になった。
先輩の琥珀色の瞳が、驚愕と、見たこともないほどのショックに揺れる。
口を開きかけた先輩の言葉を待たずに、私はくるりと踵を返した。
「歩乃果――っ!」
背中に響く呼び声を振り切るように、私は夕暮れの通路を夢中で駆け抜けた。
手首に残る先輩の指の感触が、いつまでも焼き付くように熱かった。




