第2話:完璧なミックスダブルスと、無意識の後退
金曜日の放課後。週末の地区予選を控えたテニスコートには、いつも以上の張り詰めた緊張感と熱気が充満していた。
日差しはすでに西へと傾きかけ、防球フェンスの菱形の影が、赤茶色のクレーコートを長く斜めに切り取っている。
バシィッ! と鋭いインパクト音が空気を震わせた。
「ナイスサーブ、漣! センター入ってる!」
「莉央奈、前! ストレート抜かれるぞ!」
「任せて!」
コートの中央で繰り広げられているのは、地区予選に向けた実践形式のダブルス練習。
一ノ瀬漣先輩と逢坂莉央奈先輩のペアが、男子レギュラーのペアを相手に凄まじいラリーを繰り広げていた。
漣先輩が放つ、鋭く沈むスライスサーブ。
相手のリターンが浮いた瞬間、前衛にいた莉央奈先輩がしなやかなバネのように跳躍する。
ポニーテールが空中でふわりと弧を描き、白く細い腕から振り抜かれたラケットが、ネット際で電光石火のボレーを相手の足元へ叩き込んだ。
パアンッ! と乾いた音が響き、ボールはクレーコートの白線を綺麗に削ってバウンドする。
「よしっ! ゲームセット!」
審判役の男子部員がコールを上げた瞬間、コートの周囲を取り囲んでいた部員たちから「うわーっ!」「ナイスプレー!」と一斉に歓声と拍手が沸き起こった。
「やったね、漣!」
「ああ。今の莉央奈のポーチ、マジで完璧だった」
コートの中央でふたりが向き合い、掲げた手のひらをパチンと高く打ち鳴らす。
ハイタッチを交わした瞬間、莉央奈先輩のこぼれるような満面の笑顔が、夕暮れの逆光に照らされて眩しく輝いた。
漣先輩も、珍しく白い歯をのぞかせて満足そうに目を細めている。
汗で額に張り付いた黒髪を手でかき上げる仕草まで、まるで映画のワンシーンのように絵になっていた。
フェンスの脇でスコアボードを持っていた同期の女子部員たちが、憧れと熱を帯びた声を潜ませて囁き合っている。
「……ねえ、やっぱり一ノ瀬先輩と逢坂先輩って、めちゃくちゃお似合いじゃない?」
「わかる! プレーの息もぴったりだし、並んでるだけで雑誌のグラビアみたいだよね」
「絶対付き合えばいいのに。ていうか、もう付き合ってたりして……?」
ひそひそと交わされる会話が、風に乗って私の鼓膜をかすめる。
――お似合い。
――付き合えばいいのに。
その言葉を聞くたびに、胸の奥がきゅっと音を立てて縮むような感覚が走る。
頭では完全に同意していた。
誰もが認めるテニス部のエース同士。華やかで、背が高くて、お互いを高め合える対等な関係。
あんなに眩しいふたりの並びに、異論を挟む余地なんてどこにもない。
(……なのに、どうしてこんなに、喉の奥が苦しいんだろう)
私は自分の胸元をぎゅっと掴みそうになるのを必死に堪え、手元のボールカゴを両手で強く抱え直した。
「ふー、疲れた! 漣、水分補給しよ」
「おう。スポドリ取ってくるわ」
ベンチへと戻ってきたふたりが、タオルで汗を拭いながらこちらへ歩いてくる。
莉央奈先輩が首にかけた白いスポーツタオル越しに、漣先輩に笑いかけている。その距離はごく自然で、近くて、ふたりの間には誰も割り込めない透明な壁が存在しているようだった。
「お、歩乃果」
ベンチの脇に立っていた私に気づき、漣先輩の表情がふっと緩んだ。
タオルで首筋の汗をぬぐいながら、長い足をこちらへと向けてくる。
「さっきの試合、見てたか? 莉央奈のボレーの踏み込み、お前が課題にしてるやつと全く同じだったぞ。イメージ掴めたか?」
いつもの、面倒見のいい先輩の顔。
少し息を切らしながら、私の顔を覗き込むようにして瞳を細めてくる。
額から一筋の汗が頬を伝い、色気のある顎のラインへと滴り落ちていた。
距離にして、ほんの数十センチ。
いつもなら「はい! すごく勉強になりました!」と前のめりに答えていたはずの距離。
なのに――。
「……っ」
漣先輩がもう一歩、私の方へ踏み出そうとした瞬間。
私の足は、まるで危険を察知した小動物のように、無意識にスッと後ろへ半歩引いてしまっていた。
漣先輩の動きがピタリと止まる。
琥珀色の切れ長の瞳が、わずかに見開かれた。
「……歩乃果?」
怪訝そうに眉をひそめる先輩の視線から逃げるように、私は反射的にカゴを胸の前に突き出し、深々と頭を下げてしまった。
「あ、はい! 逢坂先輩のプレー、すごく綺麗で、完璧でした! 私なんかじゃ全然参考にならないくらいハイレベルでしたけど……!」
早口でまくしたて、無理やり作った笑顔を顔に張り付ける。
先輩の目をまっすぐに見ることができない。
見つめてしまったら、自分の胸の中にあるドロドロとした黒い澱のような感情――羨ましさと、惨めさと、言葉にならない焦燥感――が、全部バレてしまいそうだったから。
「私、あっちのコートのボール拾いが残ってるので! 失礼します!」
「おい、待てよ歩乃――」
先輩が伸ばしかけた手を振り切るように、私はくるりと背を向けた。
カゴの中の黄色いボールたちが、私の走る振動でガタガタと頼りない音を立てる。
背中に突き刺さる先輩の視線を感じながら、私は一番遠いAコートの隅っこへと逃げ込んだ。
フェンスの金網を握りしめ、荒くなった息を整える。
(なんで……なんで私、避けちゃったんだろう)
自分でも自分の行動の意味が分からない。
先輩は親切にアドバイスをくれようとしていただけなのに。
ただの可愛い後輩として、「先輩かっこよかったです!」って笑えばよかっただけなのに。
遠くのベンチを見やると、莉央奈先輩が不思議そうに漣先輩の顔を見上げ、何かを話しかけていた。
漣先輩は私の去った方向をじっと見つめたまま、首の後ろに手を当てて、困惑したように立ち尽くしている。
夕暮れの茜色が、ふたりの立つコートを鮮やかに染め上げていく。
その美しい光景の中に、私は絶対に混ざることができない。
胸の奥をチクチクと刺す針のような痛みを誤魔化すように、私は地面に転がったボールを無心で拾い集め始めた。




