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『先輩の隣が、私じゃなくても』 〜お似合いなふたりを見て、胸が痛む理由を知らなかった〜  作者: Eternity Beat


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第1話:コートサイドの特等席と、ざわめきの予兆

初夏の鋭い日差しが、硬式テニス部のクレーコートを容赦なく照りつけている。

乾いた赤茶色の土は白っぽく砂煙を上げ、鼻腔をくすぐるのは熱を帯びたグラウンドの土埃と、かすかな防球ネットの錆びた匂い。

パコン、パコンと規則正しく響く打球音と、シューズの裏がコートを擦るキュッという鋭いスキール音。


「ほら歩乃果、また右の手首が寝てる。ラケットヘッドが落ちてるから、打球がネットにかかるんだよ」


背後から掛けられた低い声のトーンに、思わず背筋がピンと伸びた。

振り返る暇もなく、頭上からふわりと落ちてきたのは、洗い立ての柔軟剤と、かすかに混ざる男の子特有の爽やかな汗の匂い。


「あっ、一ノ瀬先輩……!」


私が口を開きかけた瞬間、キュッと影が落ち、私の右腕全体が大きな体温にすっぽりと包み込まれた。


一ノ瀬 漣先輩。

高校2年生。黒髪のショートヘアは前髪が少し目にかかるくらいの長さで、練習中にかいた汗で額に束になって張り付いている。切れ長の少し涼しげな目元と、すっと通った高い鼻梁。テニス部の練習着であるシンプルなネイビーのポロシャツを着崩すこともなく、引き締まった細身ながらもしっかりとした肩幅が、背後から私を完全に覆い隠していた。


(……ち、近すぎるっ……!)


先輩は私の背後にぴたりと回り込み、私の右手に、自分のごつごつとした大きな手のひらを上から重ねてきた。

日焼けした長い指先が、私の不恰好に白く握られた指を包み込み、ゆっくりと正しいイースタングリップへと握り直させる。

先輩のポロシャツの左袖が、私の着ている白い練習用半袖シャツの裾とカサカサと擦れ合う。

吐息が私の右耳のすぐ後ろにかかり、首筋の産毛が逆立つのが分かった。


「手首は固定。ラケットの面は地面と垂直だ。……ほら、テイクバックの時、肘が体から離れすぎないようにここ。な、わかるか?」


先輩の左手が、私の左腰のあたりに軽く添えられる。

骨張った指の感触が薄いユニフォーム越しにじんわりと熱を帯びて伝わってきて、息が止まりそうになる。

先輩は真剣そのものの表情で、私の手元と打点をじっと見つめている。琥珀色に透き通る切れ長の瞳には、ただ「後輩を上達させたい」という純粋な熱意しかない。


それなのに、私の胸の奥は、鐘を連打されたみたいにドクン、ドクンと暴走していた。

首筋から耳たぶ、頬にかけて、一気に沸騰したような熱が駆け上がっていく。


「――っ、は、はいっ! わかりましたっ!」


心臓の音をかき消したくて、私は裏返りそうな大声を張り上げた。

すると漣先輩は、私の過剰な反応にきょとんと目を丸くしたあと、ふっと意地悪そうに片方の口角を上げた。


「声デカい。力入りすぎなんだよ、お前はいつも」


先輩は右手を離すと、そのまま私の頭の上に左手をポンと乗せた。

そして、くしゃりと少し乱暴に私の黒髪を揺らす。

頭頂部に残る手のひらの重みと温もりに、私は両手でラケットを胸の前に抱きしめ、うつむいて赤くなった顔を必死に隠した。


――ダメだ、落ち着け、私。

先輩はただ、不器用で初心者の私に親切に教えてくれているだけ。

手を取られたのも、頭を撫でられたのも、全部ただの部活の日常的なスキンシップ。

心臓がこんなにうるさいのは、日差しが暑くて、練習で体温が上がっているせい。

恋とか、そういう浮ついたものじゃない。私はただ、頼りになる先輩に憧れているだけなんだから。


「よし、今の感覚を忘れないうちに球出しするぞ。ベースラインに入れ」

「はいっ!」


先輩が軽やかな足取りで反対側のサービスラインへと小走りで向かう。

ボールカゴから取り出された蛍光イエローのテニスボールが、先輩の左手からポンと軽く弾み、ラケットでふわりとこちらへ打ち出された。


黄色いフェルトが回転しながら宙を描き、私の目の前のクレーコートに落ちて、小さく土煙を上げる。

私は先輩に教えられた通り、右手を引き、ラケット面をボールへ――。


その瞬間だった。


「漣、コート交代の時間だよ!」


コートサイドの金網越しに、よく通る澄んだ高音の声が響き渡った。


振り抜こうとした私のラケットがピタリと止まる。

反射的に視線を向けた先、防球フェンスの扉の前に立っていたのは、2年生の逢坂 莉央奈先輩だった。


さらさらとした艶のある黒髪を、高い位置で揺れるポニーテールにまとめている。

白とネイビーを基調とした細身のスコートからは、すらりと伸びた無駄のない長い脚が露わになっていた。額にうっすらと浮かぶ汗さえも清潔感に満ちていて、長い睫毛に縁取られた大きな瞳は、夕方の光を浴びてキラキラと輝いている。

学園の誰もが振り返るアイドル的存在にして、テニス部の押しも押されもせぬ女子エース。


「あ、逢坂。もうそんな時間か」


漣先輩はボールを打つ手を止め、莉央奈先輩に向かって、ぱっと白い歯を見せて笑った。

その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥がキュッと縮こまった。


さっき私に向けていた「からかい半分のお兄ちゃんのような顔」とは、全然違う。

同じコートで戦う者同士、同じ学年として対等に並び立つ相手だけに見せる、どこか大人びていて、気を許しきった自然体の笑顔。


莉央奈先輩はカチャリと金属音を立ててフェンスの扉を開け、軽快なステップでコートに入ってきた。

すれ違いざま、彼女が纏う清潔なシャンプーの甘い香りが、砂埃の匂いを一瞬で塗り替えていく。


「監督から聞いた? 来週の地区予選、漣と私のペアでミックスダブルスに出るんだって」

「マジで? 監督、本気だな。莉央奈の足を引っ張らないように調整しとかないとな」

「ふふ、何言ってるの。漣のワイドへのサーブがあれば、私、安心して前衛でポーチに出られるんだから。頼りにしてるよ、パートナー」


莉央奈先輩はいたずらっぽく小首をかしげると、自分のラケットのフレームを、漣先輩のラケットのフレームと『カツン』と軽くぶつけ合わせた。

コンビネーションの良さを確かめ合うような、息の合ったハイタッチならぬラケットタッチ。


オレンジ色に傾き始めた西日が、ふたりの背中を長くコートに伸ばしている。

身長差、立ち姿のバランス、何気なく交わされるアイコンタクトと、心地よさそうに重なる笑い声。

ふたりが並んでベンチへと歩いていく後ろ姿は、まるでスポーツウェアのポスターか、少女マンガのカラー見開きからそのまま抜け出してきたかのように完璧だった。


「……すごいなぁ」


私の唇から、ぽつりと声がこぼれ落ちた。


誰が見ても納得のふたりだ。

テニスが上手くて、華があって、同じ2年生で、お互いを信頼し合っていて。

私みたいな、ラケットの握り方すら教わらなきゃいけない平凡な1年生が入り込める隙間なんて、初めから1ミリも存在しない。


――すごく、お似合いだ。

――ふたりが付き合ったら、きっと部内のみんなも応援するだろうな。


頭では、素直にそう思っていた。

心からふたりを応援するのが「可愛い後輩」としての正解なんだと分かっていた。


それなのに。


ギュッ、と握りしめたラケットのグリップテープに、指の関節が白くなるほど力がこもる。

喉の奥が急にカラカラに渇いて、息がうまく吸えなくなった。

胸の真ん中、一番深いところが、鋭いガラスの破片でチクチクと削られているみたいに、ズキズキと痛む。


どうして?

お似合いだと思ったのに。邪魔をしちゃいけないから、早くコートを空けてボール拾いをしなきゃいけないのに。

足の裏が地面に縫い付けられたみたいに、一歩も動かない。


「歩乃果ー! 何ぼーっとしてんの! カゴ持ってボール拾い行くよ!」


コートの端から、同期の女子部員が大きな声で私を呼んだ。


「――っ! あ、うん! すぐ行く!」


ハッと我に返った私は、無理やり笑顔を作って駆け出した。

走りながら、無意識に左手で胸元の白いシャツをぎゅっと握りしめる。


夕暮れの茜色に染まり始めたクレーコートの真ん中で、まだ名前の分からないチクチクとした痛みが、私の胸の奥深くに小さな棘を残していた。

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