第5話:夕暮れのコートと、告白前夜
涙を拭い、誰もいなくなったクレーコートの整備を終えた頃には、空の茜色は深い紫紺のグラデーションへと溶け始めていた。
冷たい水道水で何度も顔を洗い、腫れぼったい目元をタオルで冷やす。
部室の前に道具を片付け、スクールバッグを肩に掛けて昇降口へと向かおうとした時――。
「……あ」
ベンチの端に、自分のラケットケースを置き忘れてきたことに気がついた。
深くため息をつき、薄暗くなりかけたコートへ足音を忍ばせて引き返す。
キシリ、と防球フェンスの扉を押してコートの中へ足を踏み入れた瞬間だった。
「――遅ぇよ」
低く、けれど柔らかな声が、静まり返った夕暮れの空気に溶け出した。
心臓が跳ね上がり、呼吸が止まる。
息を呑んで顔を上げると、オレンジと紫の残光を背負うようにして、防球フェンスに背を預けた人影が立っていた。
一ノ瀬漣先輩だった。
部活用のポロシャツから着替えた白の制服カッターシャツ。
第1ボタンを外し、ネクタイを緩めた胸元に、夕暮れの冷え始めた風が吹き抜けてシャツの生地をパタパタと揺らしている。
肩に無造作に掛けた黒いスポーツバッグ。
乱れた前髪の隙間から覗く琥珀色の瞳が、まっすぐに私を捉えて離さない。
「一ノ瀬、先輩……? どうして……逢坂先輩と、帰ったんじゃ……」
動揺で声が震える。
先輩はフェンスからゆっくりと背筋を伸ばし、クレーコートの土をギュッ、ギュッと踏みしめながら、私の方へと歩いてきた。
西日の長い影が、先輩の足元から伸びて、私の足先に重なる。
「莉央奈なら、とっくに電車で帰ったよ」
「え……?」
「『明日の作戦会議』なんて、あいつが俺たちを気遣って作った口実だ。莉央奈に言われたよ。『漣、あの子のこと放っておいていいの? 早く行ってあげなよ』ってな」
先輩は私の目の前、あと一歩踏み出せば触れ合ってしまうほどの距離で足を止めた。
近すぎる。
先輩の纏う柔軟剤のシトラスの香りと、夕方の冷たい風の匂いが混ざり合って、鼻腔をくすぐる。
逆光の中で見下ろしてくる先輩の瞳は、昼間のどんな時よりも真剣で、どこか切なそうに揺れていた。
「お前が言ったんだろ。『逢坂先輩と練習した方がお似合いだ』って」
「……っ」
二日前の自分の言葉を突きつけられ、喉の奥がきゅっと縮んだ。
恥ずかしさと申し訳なさで、私は思わず俯いて目を逸らそうとする。
だけど――。
「目を逸らすな」
すっと伸びてきた先輩の長い指先が、私の顎に触れた。
ひやりと冷たい風の中で、先輩の指の温度だけが熱いほどに肌へ染み込んでくる。
抵抗する間もなく、私の顔はゆっくりと上を向かされた。
琥珀色の瞳が、至近距離で私を映し出している。
「莉央奈は、ただの幼馴染で、ダブルスのパートナーだ。それ以上でもそれ以下でもねえよ。……俺が練習中ずっと目で追ってたのも、上達してほしくて必死に教えてたのも、全部お前だけだ」
「先輩……」
「お前が俺を避けてる間、ずっと考えてた。俺、何か嫌われるようなことしたかなって。……すげぇ苦しかった。お前に『邪魔になりたくない』なんて他人のような顔で言われた時、胸が張り裂けそうだったんだよ」
吐露された先輩の本音。
いつも飄々としていて、頼もしくて、大人の余裕を見せていた先輩が、まるで迷子の子どものように眉を下げて、痛切な声で私に訴えかけている。
その表情を見た瞬間、私の胸の奥に澱んでいた最後の迷いが、パチンと弾け飛んだ。
――私は、この人が好きだ。
誰と並んでいようと、どれだけ自分が不器用で釣り合わなかろうと。
私の頭をくしゃっと撫でてくれたこの手が、私の名前を呼んでくれるこの声が、どうしようもないくらい愛しくて、大切で、手放したくない。
もう、逃げない。
『お似合い』なんて都合のいい言葉で自分に嘘をついて、誰かに譲るような真似は、絶対にしない。
私はぎゅっと両手を握りしめ、制服のスカートの布地を強く掴んだ。
顎に添えられていた先輩の指先が、私の決意に満ちた眼差しに気づいたのか、名残惜しそうに離れていく。
すうっと、夕暮れの冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
夕闇が迫る空の下一面を、街灯の淡いオレンジ色の光が照らし始めている。
フェンスの向こうで揺れる木の葉のざわめきも、遠くを走る電車の音も、すべてが遠くへ消え去っていく。
世界にふたりきりになったような静寂のなかで、私はまっすぐに一ノ瀬先輩の瞳を見つめ返した。
潤んだ瞳から溢れそうになる熱いものをぐっと堪え、震える唇を開く。
「一ノ瀬先輩、私――」




