第二十五話 再会と、熱
朝の検査は、セシリア先生が一人で来た。
魔力測定の器具を左手首に当て、数値を確認する。
何も言わない。書き留めて、また何も言わない。
その沈黙が、今の俺の立場をよく表していた。
「ちゃんと着替えなさいよ」
「この環境じゃ、着替えたってそんなに変わらないですよ」
「ダメよ。そういうのはちゃんとしないと」
セシリア先生は包帯の具合を見ながら、軽い口調で言った。
「そうだ、エヴリンちゃん呼ぼうか」
「いいです」
呼ばれる前に、エヴリンはもう来ていた。
上着のボタンを留めようとして、右側に手がないことをまた確認する。
左手一本ではうまく留まらない。二度やって、三度やって、止まった。
「貸してください」
エヴリンが言った。
「いいよ……」
「貸してください」
同じ声で、同じ言葉をもう一度言った。
俺は黙った。
エヴリンが近づいて、無言でボタンを留め始める。
拒否するタイミングを失った。されるがままになりながら、俺は天井を見ていた。
礼を言う気にもなれなかった。
エヴリンも礼を求めていなかった。
「今日は、外に出てみませんか。私が同行しますので」
エヴリンが言った。
外に出たいわけじゃなかった。
でも、ここに居続けたいわけでもなかった。
向かった先は、特別棟の中にある小さな一画だった。
庭と呼ぶには狭く、部屋と呼ぶには開けている。俺にとっての“外”は、今やその程度の場所になっていた。
椅子に座る。
本を開いてみたが、うまくページがめくれなかった。
数回やって諦め、閉じた。
何かをしていないと、考えすぎる気がした。
手をついて、立ち上がろうとした。うまくいった。歩くのは問題ない。右腕がないことは、歩く分には関係なかった。
ただ、バランスが少しおかしかった。
右側が軽い。それだけのことなのに、一歩踏み出すたびに体が思ったより傾いた。壁に手をついた。すぐに離した。エヴリンが見ていた。見ていないふりをしながら、見ていた。
俺は壁から離れて、もう一度歩いた。
慣れる、と思った。慣れるしかない、とも思った。
それからは、窓の外を見ていた。
遠くに学園の本棟が見える。授業の時間なのだろう。人の動きが、小さく見えた。
ついこの間まで、俺はあそこにいた。
今は、ひどく遠い。
エヴリンは部屋の端の椅子に座って、書類を読んでいた。
こちらを見ない。けれど、俺が少しでも動けば気づいているのはわかった。
昼を少し過ぎた頃、ドアをノックする音がした。
「星宮くん、来客よ」
セシリア先生の声だった。
誰かと思う前に、ドアの向こうから声がした。
「蓮! 起きてる?」
テオだった。
走ってきたのか、少し息が上がっていた。医療棟の廊下には不釣り合いなくらい大きな声で俺の名前を呼んで、セシリア先生に軽く頭を下げてから中に入ってきた。
「よかった、顔色はまあまあだな」
「まあまあって何だよ」
「褒めてるんだよ。あのまま起きないかと思って心配したんだからな〜」
いつものテオだった。
でも、近づくにつれて少しずつ何かがずれていくのがわかった。
俺の右肩を見た。一瞬だけ見て、すぐに目を逸らした。
また顔に戻ってきて、笑う。
作った笑いだった。
「本当はノアさんとクララも来たがってたんだけど、今日は俺だけ許可が出てさ」
「そうか」
「うん。だから俺が代表みたいな感じで」
テオは話し続けた。
班のこと、授業のこと、食堂のこと。言葉が途切れない。明るい。
でも話題を選んでいた。慎重に、俺に引っかからないように選んでいるのがわかった。
右肩を、また一瞬見た。
それからまた逸らした。
「テオ」
「うん?」
「無理しなくていい」
テオが止まった。
しばらく、何も言わなかった。
窓の外を見て、それからまた俺を見た。今度は作っていない顔だった。少し疲れた、本物の顔。
「……うん、わかった」
それだけだった。
でも、そこから少しだけ空気が変わった。
前みたいに戻るわけじゃない。でも、言葉は選びすぎなくなった。
「痛みは」
「ない」
「そっか」
「うん」
「……右腕、か」
「ああ」
テオが小さく息を吐いた。
「俺、あの時その場にいられなかったから」
「見られる方が困る」
「そういう意味じゃない」
「わかってる」
また少し沈黙が落ちた。
エヴリンは端の椅子から動かなかった。聞こえているはずなのに、何も言わなかった。
「ノアさんがさ、またみんなで動けるようになったら鍛えてやるって言ってた」
「右腕ないのに」
「そこは俺も突っ込んだ。でもノアさんは、それなら新しい戦い方を見つけるだけだってさ」
少しだけ笑えた。
テオも笑った。
今度は本物だった。
帰り際、テオが立ち上がってドアの方へ歩いた。
「じゃあな、蓮。体調には気をつけろよ」
振り返らずに言った。
「……まあ、今の俺が言っても説得力ないかもな〜」
軽く笑いながら言う。
その声の途中で、ほんの一瞬だけ咳が混じった。
「どこか悪いのか?」
思わず聞いていた。
テオは肩越しに振り返る。
「うん、ちょっとね。最近頑張りすぎたかな。熱っぽいだけかも」
明るく言った。
でも顔色はよくなかった。
「……そうか」
「大丈夫大丈夫。じゃ、また来るわ」
手を振って出ていった。
俺は、その背中を見ていることしかできなかった。
ドアが閉まった。
エヴリンがこちらを見た。
何も言わなかった。
でも、テオの最後の咳を聞いていなかったわけではないと、その顔でわかった。
俺も何も言わなかった。
しばらくして、エヴリンが立ち上がった。
部屋の隅の棚から何かを取って、俺の前に置いた。小さな木彫りのコップだった。湯気が出ていた。いつの間に用意していたのか、わからなかった。
「飲めますか」
「うん、飲む」
左手で持った。重くはなかった。でも、両手で包むことができなかった。それだけが、少し違った。
エヴリンは何も言わずに椅子に戻った。
俺はコップを見ていた。
テオのことを言おうとした。あの咳のことを。でも言葉が出てこなかった。言ったところで、今の俺には何もできない。それがわかっていたから、言えなかった。
エヴリンも何も言わなかった。
でも、同じものを考えているのは、なんとなくわかった。
夜、一人になった。
テオの最後の一言が、頭の中に残っていた。
熱っぽいだけ。
本人は、たぶん本当にその程度に思っている。風邪か、疲れか、そのくらいに。
でも、俺には引っかかった。
何かが聞こえた気がした。
何かが、そこで鳴った気がした。
魔術は使えない。
右腕はない。
監視下にいる。
テオに何かが起きていたとして、今の俺には何もできない。動けない。確かめることもできない。
その無力さだけが、静かに積もっていった。
右肩を見た。
何もない。包帯だけがある。
でも、その奥で。
火種が、一度だけ強く脈打った。
俺は目を閉じた。
消えない。
右腕がなくなっても、これだけはまだここにある。
それが今の俺には、救いなのか、呪いなのか――
まだ、わからなかった。




