第二十四話 右腕と、火種
天井が、知らない色をしていた。
最初に目に入ったのはそこだった。
石造りの天井。白くもなく、灰色でもなく、ただ古い石の色。光は小さな明かり取りの窓からだけ差し込んでいて、それが朝なのか夜なのかもわからない。
起きあがろうとして、音がした。
金属の、低い音。
左手が引かれる。わずかな動きなのに、それだけでここがどこなのかを先に思い知らされた。
視線を下ろすと、左手首に細い金具が巻かれていた。錆びた鎖ではない。けれど、壁に繋がれている。
鎖というより、拘束具だった。
医療用のそれだとわかる形をしているのが、かえって気味が悪かった。
一瞬、意味がわからなかった。
でも次の瞬間には理解していた。
俺は拘束されている。
理由がわからないわけじゃない。
わかりたくないだけだった。
記憶の戻らない、あの時間。魔道具を使ったあとに何かが起きたことだけは、もう疑いようがなかった。
ベッドの上に起きあがろうとして、体が思うように動かなかった。力が入らない。体の中のエネルギーというエネルギーが、根こそぎ使い果たされたみたいだった。空っぽに近い。
それでも、なんとか体に力を込める。
右側が、軽かった。
変な感覚だった。
腕があれば、布団をめくる時に重さがある。それがない。
俺は何度か、右側に視線を向けるのをやめようとした。
見てはいけない。
見たら、俺は気づいてしまう。
でも、止められなかった。
布団をめくった。
包帯が見えた。
その先を探して、そこで初めて、何もないことに気づいた。
右肩から先が、なかった。
長い間、俺はその事実を見ていた。
叫ぶとか、何かを言うとか、そういうことができなかった。
ただ見ていた。
肩の少し下から包帯が巻かれていて、清潔に処置されている。痛みはなかった。それが逆に、どこか遠い話みたいだった。
右腕が、ない。
俺の右腕が、ない。
ドアが開いたのは、しばらく後だった。
「おや、目覚めたね」
セシリア先生だった。
医療用の白い上着を着て、小さな木箱を持っている。俺が起きているのを確認した時、その顔がわずかに動いた。安堵、とは少し違う。何かを覚悟していた顔が、それでもよかったと思った顔に変わる、そういう微妙な動きだった。
「包帯の交換と、経過確認させてね」
「はい」
自分の声が思ったより落ち着いていて、少し驚いた。
先生は俺の右肩に近づいて、手際よく包帯を外し始めた。
その間、俺はずっと天井を見ていた。
「ここはどこなんですか」
「学園の特別棟。竜禍の緊急対応が必要な場合に使う場所よ」
淡々とした声だった。
軽い言い方だからこそ、今の俺の頭にはすんなり入ってきた。
「慣れているんですか」
「うん、慣れてる。時々いるんだよね。キミみたいなのは」
この部屋も、この拘束具も、この国では珍しいものじゃないのだと、その一言でわかった。
少しだけ言葉を選ぶ間があった。
「……まあ、あそこまで暴れたのはキミが初めてかな」
珍しくない。
街で見た竜禍のポスター。
この国にとってそれがどれだけ身近で、制度の中に組み込まれているのかがわかった。
「俺は……」
と言いかけて、止まる。
何を聞きたいのか、自分でもよくわからなかった。
先生は手を止めなかった。
「キミ、自分が暴走したところまでは覚えてる?」
「あまり……覚えていないです」
本当だった。
今の俺には記憶がない。覚えているのは、俺の右腕がどす黒い何かに変わっていたところまでだ。
「完全な第四段階じゃなかったの」
セシリア先生は静かに言った。
「だから、首じゃなくて、別の緊急処置が選ばれた」
その言い方で十分だった。
あの場には、首を落とすという選択肢も本当にあったのだとわかった。
「その結果が、キミの右腕ね。安心して。処置そのものは適切に行われているから」
切断が“選ばれた”。
誰によって。
「誰が決めたんですか」
先生はすぐには答えなかった。
「その場で、最も適切な判断を下せる立場の者が」
答えは言わなかった。
でも、俺にはわかった。なんとなく、わかってしまった。
「俺は、誰かを傷つけましたか」
先生の手が、一秒だけ止まった。
「軽傷者が数名。学園側の迅速な対応のおかげで、死者も重傷者も出ていないわ」
俺は目を閉じた。
数名。軽傷。生命に関わる怪我はない。
それでも充分だった。
全部、俺のせいだ。
自分が魔道具を手に取ったせいで。止められなかったせいで。
先生が包帯を巻き直す間、何も言えなかった。
ドアがもう一度開いたのは、処置が終わって少し後だった。
エヴリンだった。
後ろにはアイリスが続いていた。
エヴリンの顔は、俺が知っているエヴリンの顔だった。整った表情。落ち着いた目。
でも何かが違った。
いつもならもっと近くまで来るはずなのに、今日は一定の距離を越えてこなかった。
それだけで、今の俺たちの間にあるものが嫌でもわかった。
セシリア先生はエヴリン達と入れ替わるように部屋の外へ出ていった。
「目が覚めましたか」
「ああ」
「回復の具合は」
「問題ない……と思う」
俺たちはしばらく、そういう会話をしていた。
意味のある言葉を、意味のない順番で並べるみたいな会話だった。
エヴリンは何かを言おうとして、言っていなかった。
それは俺にもわかった。
「エヴリン」
俺から踏み込んだ。
「俺の右腕。エヴリンだろ」
静かになった。
アイリスが小さく息を呑む音がした。
エヴリンは目を逸らさなかった。
「はい」
それだけだった。
俺は何も言えなかった。
怒りはない。少なくとも、今すぐぶつけられる形のものはなかった。
あの時のことを、断片的に覚えていた。
火が見えた。自分の腕が見えた。人の声が聞こえた。
でも、何を言っていたか、誰の声だったかはぼんやりしていた。
ひとつだけ、はっきり残っていたものがある。
女の人の声が、俺の名前を呼んでいた。
たぶん、エヴリンの声だった。
「私が斬りました」
エヴリンは静かに言った。
「……」
アイリスが口を開いた。
「姉さんが斬らなければ、もっと多くを失っていました」
声は冷静だった。
でも、その一言だけは、説明ではなく庇いに近かった。
「あの時、そうするしかありませんでした」
その声には震えがなかった。
でも、平気なわけじゃないことは、逆にはっきりわかった。
「今も、その判断が誤りだったとは思っていません」
「エヴリン」
自分でも驚くくらい、少しだけ声が荒くなった。
「わかってる。ただ……」
言葉がうまく続かなかった。
エヴリンは何も言わなかった。
言い訳もしなかったし、謝罪で流そうともしなかった。
その沈黙が、逆に重かった。
しばらくして、アイリスが一歩前に出た。
「姉さんに代わって、私が説明します」
声は平坦だった。感情を落とした声。
でも、その目は少しも揺れていなかった。
優しさがないわけじゃない。ただ今は、それより先に測っているのだとわかる。
俺が危険なのか。どこまで制御できるのか。そういう問いを、隠そうともしていない目だった。
「あなたは現在、イレギュラーな竜禍事例として、学園の特別管理下に置かれています」
アイリスは一度だけ、俺の右肩を見た。すぐに目を戻した。
「単独行動は禁止。魔術の使用も当面認められません。学園内での移動にも許可が必要です」
「許可って、誰の」
「私か、姉さんの」
少し間があった。アイリスが何かを飲み込んだような、その間だった。
「今後は私たちが監視役になります。常にどちらかが同行します」
「なんで、アイリス達なんだ」
「それが、私たちの役目だからです」
言い切った。でも言い切った後、アイリスは一度だけ視線を床に落とした。ほんの一瞬。エヴリンの方は見なかった。
「外部との連絡は記録されます。定期的な魔力測定も必要です」
また説明に戻る。さっきの一瞬が何だったか、アイリス自身が蓋をするみたいに。
「これは罰ではありません。管理です」
ひとつひとつは淡々としていた。
でも、その全部が、俺をもう普通の生徒として扱っていないことを示していた。
これが竜禍なんだ、と思った。
これまではポスターの向こう側にあったものだ。
今は違う。俺自身が、その制度の内側に入れられている。
もう、ただの生徒ではいられない。
「何か質問は」
「……ないです」
アイリスが少しだけ黙った。
俺が怒ると思っていたのかもしれない。暴れるか、反論するか、何か言うと。
でも俺には何もなかった。
怒る体力もなかったし、反論できる根拠もなかった。暴走したのは事実で、人を傷つけたのも事実で、右腕はない。
「……一つだけ」
気づいたら、言葉が出ていた。
「なんですか」
「班のみんなは、無事なんだろ」
アイリスが、ほんのわずかに表情を変えた。
初めて、制度の側の顔ではなく、年相応の迷いが見えた気がした。
「ノアさんたちは、すでに生活に戻っています。詳細は――」
「アイリス」
エヴリンが一言だけ言った。
アイリスの言葉が止まった。
言うべきか、伏せるべきか。その一瞬だけ、彼女は迷ったように見えた。
その一拍だけで、俺に聞かせたくない何かがあるのだとわかった。
「詳細については、まだ整理中です」
エヴリンが引き取った。
「みなさんのことは、また後日お伝えします」
「テオは」
「元気にしています」
それだけ聞ければよかった。
二人はそれ以上何も言わず、部屋を出た。
アイリスが最後にドアを閉める時、一度だけ振り返った。何かを言いかけた顔をした。でも、結局言わなかった。
扉が閉まった。
部屋が静かになった。
俺は右側を見た。
腕がない。包帯だけがある。
なのに。
なのに、右腕の感覚があった。
いや、正確には腕そのものじゃない。
あの熱の感覚。あれだけが、まだ燻っていた。
火種みたいな、細くて、けれど消えていない何か。
錯覚かもしれない。
右腕はもうない。
なくなったなら、一緒に消えてくれればよかった。
それなのに、それだけはまだ俺の中で脈を打っていた。




