第二十三話 見極めと、断たれたもの
蓮くんが消えた。
いや、正確には違う。体はまだそこにある。
でも、私が知っている蓮くんは、もうそこにはいなかった。
近い。
そう思った瞬間、自分の喉がひどく乾いていることに気づいた。
右腕が肘を越えて肩まで黒く染まっている。鱗が浮き上がり、指先の爪は伸び切っていた。可視化されるほど濃い魔力が、傷口もない皮膚の下から滲み出るみたいに揺らめいている。足元の石畳には、立っているだけで細い亀裂が広がっていた。
右腕が動くたび、周囲の空気が重くなる。
でも、首はまだ人のままだ。
胴も、左腕も変わっていない。
変化の中心は右腕だけだ。そこだけが、別の何かに変わっていた。
私は一瞬だけ息を呑んだ。
飲み込んだ。
観察する。今はそれだけを考える。
迷うのも、決めるのも、そのあとだ。
目が合った。
焦点はない。
でも、濁ってはいなかった。黒に塗り潰されてもいない。人の色の残滓が、まだそこに残っている。
なら、まだ首ではない。
そう判断する。
けれど、次の一瞬まで同じだとは限らなかった。
そう思った瞬間、別の自分が静かに囁く。
――もし首まで行っていたなら、斬る。
覚悟はもう、できている。
あの夜の時点で。向こう側へ行きそうなら引き戻すと口にした、その時から。
引き戻せないなら、自分の手で終わらせるところまで含めて、私はもう決めていた。
だから、迷いはしない。
蓮くんが咆哮した。
もう人の喉から出た音には聞こえなかった。
暴走した右腕が横薙ぎに振られる。
「王子、左!」
ダリルの声が飛んだ。
王子が龍腕を構えて踏み込む。止めるつもりだ。
蓮くんの右腕と、王子の龍腕が真正面からぶつかった。
光と黒が噛み合ったみたいな閃光が走る。
本来なら一瞬のはずだった。
けれど、その瞬間だけは永遠みたいに長く感じられた。
来る。
衝撃が来るのがわかった。
普通の衝撃じゃない。観客席まで届く。守らないと。けれど、そのために踏み出す一拍さえ、もう残されていなかった。
衝撃が来た。
演習場の石畳が砕ける音がした。
反射的に防御壁を展開する。
間に合わない。
そう思ったこと自体が、遅すぎた。
私は腕で顔を庇いながら後ろへ跳んだ。足元の感覚が消える。次の瞬間、背中が壁に叩きつけられた。
「っ……!」
息が詰まる。
目を開けた。
観客席が、光の膜に覆われていた。
薄い。
けれど、薄いだけで終わらない、整いすぎた結界だった。衝撃波がその膜に触れ、波紋みたいに広がって、そこで砕けていく。膜の向こうから悲鳴は聞こえる。けれど、押し潰されるような二次被害は起きていなかった。
観客席を見渡す。
結界の端に、イルヴァン寮長が立っていた。
両手を広げ、空間そのものを縫い合わせるように膜を維持している。いつもの気だるげな表情は消えていた。だが、焦りより先に、わずかな驚きが見えた気がした。
その上の観覧席に、学園長がいた。
動かない。ただ見ている。その沈黙だけが、かえって不気味だった。
その横で、使い魔がひどく震えていた。浮かび続けるのがやっとというように小刻みに揺れ、学園長の肩口にしがみついている。
ただ怯えているのではない。
忘れていたはずの何かを、無理やり思い出させられた時の震えに見えた。
早すぎる。
あの衝撃で、観客席が無傷。整いすぎている。
まるで最初から、こうなる可能性まで織り込んでいたみたいに。
学園長は、何を知っているのか。
問いが喉まで浮かんだが、すぐに捨てた。
今それを考えている暇はない。
「エヴリン、立てるか」
ノアが側に来た。
「無事だったのですね」
「ああ、なんとかな」
声は平静だったが、呼吸は浅い。盾を砕かれた直後の疲労は隠しきれていない。
「クララとテオは下がらせた。カイルは避難誘導に回っている。教職員も封鎖を始めた」
「王子班は」
「向こうも早い。ダリルとセリーヌは観客誘導、ルカは封鎖補助だ」
ノアが前を向く。
「残っているのは、王子だけだ」
演習場の中心で、王子が立っていた。
衝突の衝撃を受けながらも退いていない。
距離を測り、暴走した蓮くんの次の動きだけを見ている。真正面に立ち続けているのに、無駄な力みがない。
「俺は避難誘導へ行く。エヴリン」
ノアが私を見る。
「君はどうする」
周囲を見渡す。
観客席はまだ完全に空ではない。悲鳴と足音が交錯している。
演習場の中央には、暴走した龍――星宮蓮。
そして、それを正面から抑えられるだけの余力を持つ者は、もう多くない。
「戦わせてください」
私は答えた。
「それが、私の役目ですから」
エバーナイトの娘として。
そして、あの夜の約束を口にした者として。
ノアは一瞬だけ目を細め、それ以上は何も言わなかった。
「……わかった。ここは任せる」
そう言って、避難誘導の列へ走っていく。
その途中で、避難誘導をしているカイルが一瞬だけ蓮くんを見た。
あの目の意味を読もうとして、やめる。今は拾うべきものが多すぎる。
「エヴリン君」
王子の声だった。こちらを向かないまま言う。視線は蓮くんから離さない。
「心強いな。エバーナイトの目は、こういう時にこそ頼れる」
短い言葉だった。
でも中身はわかった。判断を委ねている。実行も、こちらへ渡している。
「……お任せください」
私は剣を抜いた。
「まだ、首ではありません」
王子は一拍だけ黙った。
その沈黙は迷いではなく、確認だった。
「なら、場を作ろう」
それだけだった。
蓮くんが動く。
爪が石畳を削りながらこちらへ迫る。歩き方がもう人のものじゃない。重心そのものが変わっている。右腕の重さに身体を引きずられるように、それでも異様な速さで距離を詰めてくる。
王子が右へ回り込んだ。
「こちらだ」
光の筋が走った。
壁ではない。
誘導だ。
右腕の周囲の空気が薄く光り始める。蓮くんの暴走した腕が自然に左へ流れるよう、軌道だけをわずかに歪めている。押さえ込んでいるのではない。ただ、暴れ方を狭めている。私が読むための道だけを、無理やり残している。
蓮くんの右腕が、わずかに左へ向いた。
その一瞬に、私は右へ回る。
背後に近い位置から、変化の進行を確認する。
背中、変化なし。
左肩、変化なし。
首の付け根、まだ人の肌だ。
右肩から右腕へかけてだけが、黒く染まり続けている。
核はそこだ。
蓮くんが振り返った。
爪が空を切る。受け止め切れない。
後ろへ跳んで距離を取る。
「下がれ」
王子が前へ出た。
今度は足元の石畳へ、薄く光を走らせる。
蓮くんが走る。爪を振り上げたまま。
光を踏んだ瞬間、石畳から光の槍が突き出した。
蓮くんの足が止まる。本能的に察したのだろう。踏んではならないと。
「止まってくれたか」
王子が低く呟く。
「ですが、長くは持ちません」
「わかっている」
私は答えた。
「……迷いはありません」
王子は何も返さなかった。
ただ一歩、前へ出た。それだけで十分だった。
視線が、一瞬だけ首筋へ落ちる。
私は踏み込む。
右腕の動きを見る。爪の向き、肩の開き、次の一振りの軌道。
まだ違う。
振ってきた。
横に跳んで避ける。爪が頬のそばを通った。風圧が髪を揺らす。
近い。
着地と同時に踏み込んだ。剣の柄で右腕の根元を叩く。
蓮くんがよろめく。だが止まらない。すぐに体勢を立て直し、こちらを向く。
「彼の動きを、一瞬だけでも止められますか」
「一瞬で構わないか」
「ええ」
短い沈黙が落ちる。
王子が正面に立った。
今度は光を、自身の龍腕へ集める。
攻撃ではない。存在感として。圧として。
蓮くんの暴走した右腕が、その白金の光へ引き寄せられるように前へ伸びた。
蓮くんが踏み込む。
その瞬間、王子の背後から光の矢が放たれた。
一瞬前まで存在していなかったものが、瞬時に形を持って撃ち出される。
光の矢が、蓮くんの体を縫い止める。
完全な拘束ではない。
けれど、十分だった。
今だ。
私は左から踏み込んだ。
蓮くんの目が動いた。
こちらを見た。
焦点が、ほんのわずかに戻ったように見えた。
そう見たかっただけかもしれない。
それでも、その一瞬を私は見逃せなかった。
あの夜のことを思い出す。
向こう側へ行きそうなら、引き戻します。
これが、引き戻すということだ。
そうしなければ、もう二度と戻れない。
私は踏み込む。
狙いは、もう決まっている。
取り返しのつかない場所だ。
迷いはなかった。
いや、迷っている時間がなかっただけかもしれない。
それでも、振るうべきだと知っていた。
だから私は、振り抜いた。
剣が閃いた。
何かが断たれる感触が、手に残る。
血の匂いがした。
何かが石畳に落ちる、鈍い音がした。
そのあとで、誰も、すぐには声を出せなかった。
演習場は、そこでようやく静まり返った。




