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第二十二話 残り一回と、禁じられた一手

残り一回。


その数字だけが、頭の中でずっと鳴っていた。


王子の右手が振り抜かれる。光が走る。ノアの大盾に叩きつけられるたびに、亀裂が深くなっていく。一撃ごとに、削れ方が速くなっていた。


「ノアっ!」


「まだだ」


まだ、と言いながら、ノアの足が三歩下がった。

今までは二歩だったものが、三歩に変わった。たった一歩の差なのに、今の状況を何より正確に語っていた。


エヴリンが防御壁を重ねる。

重なった瞬間、王子の光によって壁は焼かれていく。十分な数を重ねられない。エヴリンが展開できる壁の枚数が、少しずつ減っていく。


「クララ、エヴリンの補助だ」


「もう……やってる」


クララの声が初めてかすれた。

魔術式を展開しっぱなしだ。補修して、壊されて、また展開する。その繰り返しが、確実にクララに疲労を溜めていた。


俺は右手を握った。


許された数は、一回。


使えば何かが変わるかもしれない。

でも、何が変わるのかがわからない。フィンを落とした時は支援として使った。けれど今、俺は何を支援すれば流れが変わる。ノアの盾を補修する力はない。エヴリンの壁を増やせる力もない。俺の風は、ただの風だ。


王子が前に出る。


さっきまでと何も変わらない動きのはずなのに、右手の鱗が光るたび、その一歩の重さだけが増していく。戦えていると思っていた。その一歩ごとに、俺たちと王子の距離はどんどん離されていく気がした。


「ダリル、左だ」


「わかっています」


短いやり取りが向こうから届く。

ダリルが槍を構え直す。ノアへの攻めが重なる。その瞬間、後衛への守りが薄くなった。


セリーヌの魔術が飛んでくる。


狙いはクララだった。


「クララ、来る」


「わかってる」


クララが魔導書を開く。

三回目の打ち消しに挑む。


セリーヌとクララ、両者の魔術が空中でぶつかり、霧散した。


「っ!?」


クララの目の前に矢が飛んでいた。

ルカだ。セリーヌの魔術を隠れ蓑にして、そのすぐ後ろを通していた。


クララの反応が遅れた。

矢が命中する。一枚、二枚とクララの防御壁を削っていく。


動こうとした時には、もう遅かった。

クララの防御魔術が砕け、石畳の上に体が打ちつけられる音がした。起き上がろうとして、膝をつく。


「戦闘不能、クララ・ハートレイ」


審判の声が響いた。


観客席がまた盛り上がった。


「クララ」


テオが声を上げた。

その声には、もう今までみたいな笑いはない。


クララが演習場の外に出る前に、こちらを向いた。

目が、俺を見ていた。


口が動く。声は届かなかった。

でも読めた。


三発目を使って。


クララが出ていった。


安定が、一気に崩れた。


支援がなくなった。

補修ができなくなった。

エヴリンの壁が補強されなくなった。

ノアの大盾が削れても、重ねる手がなくなった。


「後ろが空く」


カイルの低い声が飛んだ。

その一言で、クララが落ちた穴の大きさが嫌でもわかった。


「テオ、下がれ。壁際まで」


「わかった」


テオが後退する。大将を守るために。

でも、そのテオの防御も、もう誰も補修できない。


俺は後衛に立っていた。


何もできないまま、立っていた。


残り一回。


使っても、立て直せる未来が見えない。

クララが落ちた。支援がない。ノアの盾は削れ続けている。エヴリンの防御壁にも限界が見えてきている。


このまま負ける。


頭の中で、その言葉が鳴り始めていた。


王子の光が飛んだ。


エヴリンが防御壁を張る。壁が焼ける。エヴリンが一歩退く。

その背中が、俺の目に入った。


一歩退いた。

また退いた。


一度も後退しなかったエヴリンが、今日だけで何歩退いたのか、もう数えていない。


「蓮」


ノアの声が来た。


「今の状況はわかるか」


「……わかる」


「必ず蓮の魔術を使う時が来る。だから、今はまだ待て」


ノアの判断は正しかった。


ずっと正しかった。


でも。


エヴリンが押し込まれる。

ノアの大盾に亀裂が増える。

テオが壁際で回復をしようとしている。


何もしないまま終わりたくなかった。


いや、違う。


何もしないまま、みんなが崩れていくのを後ろで見ていたくなかった。


右手が、ポケットに触れていた。


気づいた時には、もう触れていた。


出どころがわからない。ノアに却下された。使うなと言われた。


でも三発目じゃ足りない。

クララが落ちた。

このままじゃ負ける。


何が起きるかはわからない。

でも何かが起きることだけはわかっている。


もう一度、強くポケットを握る。服越しに、中に入っている魔道具の形がはっきりと掴めた。


大きな音がした。

金属が崩れるような音だ。


顔を上げる。


ノアの盾が崩れ、膝をついていた。

ついに耐えきれなくなったのだ。


相手はその隙を逃さない。

ルカが矢を番えている。


カイルが横から踏み込もうとするのが見えた。

でも王子の光が、その進路ごと押し返していた。


頭で考えている時間はなかった。


ノアが落ちた瞬間、終わる。

そう思った。考えるより先に、体が動いていた。


風で体を加速させる。今日一番の出来だった。


倒れているノアを抱えながら滑り込む。体が矢を掠ったが、致命傷ではない。


「蓮!? 待てと言ったはずだ」


「でも、ノアは駄目だ。俺たちが勝てなくなる」


ノアを落とさせるわけにはいかなかった。

理屈じゃない。あそこでノアが倒れたら終わる。それだけは、はっきりわかった。


「……すまない。ありがとう」


ノアの言葉が、今の俺にはうまく届かなかった。

すでに頭の中を巡っていたのは、三発目を使ってしまった事実だけだった。


残りはゼロ。

ここから先の俺は、ただの置き物だ。


流れは変わっていない。

ノアのピンチを救えただけだ。


「蓮。お前の頑張りを無駄にはしない。後は任せてくれ」


そう言って、ノアは再び前線に向かっていった。


三回全部使った。


もう俺には、あの前線に差し込める手がない。

それなのに、戦いだけは止まってくれなかった。


王子班が再び動き始める。


じりじりと、また押し込まれていく。


ポケットの中に手を入れた。


わかっている。出どころもわからない。これは危険なものだ。


でも。


エヴリンが押し込まれる。

ノアの大盾に、再び亀裂が増える。


「最後までちゃんとやらないとな」


回復を済ませたテオが俺の横を通り過ぎた。

ただ前だけを見ていた。自分を奮い立たせるための独り言だとわかる。わかるのに、今の俺にはそれが自分に向けられた言葉みたいに聞こえた。その背中が、とても遠くに見えた。


俺はポケットから手を出した。

手のひらに石みたいな感触が広がる。刻まれた紋様に指がかかる。


「蓮」


ノアの声だった。


見られていたらしい。


「やめろ」


「ノア」


「やめろ! 蓮」


それでも、手を止められなかった。


「……ごめん」


魔道具が強く発光した。


何も起きない。


次の瞬間、右腕の奥から何かが走った。


魔力じゃない。

もっと深いところから来ている。血の中から、骨の中から、何かが引き出されていく。


「……?」


一瞬だけ、戦況が変わった気がした。


王子班の動きが止まった。

ただ止まったというより、視線が一斉に俺へ集まった。

王子が見ていたのは、俺の右腕だった。

セリーヌがわずかに間合いを外す。ルカも矢をつがえたまま、射るのをやめていた。


何かが起きている。


「……違う」

カイルの声が、すぐ近くで落ちた。


魔道具が効いたのか。そう思った。そう思いたかった。

止まった。本当に、一瞬だけ。今なら押し返せるかもしれないと、そう思ってしまった。


「みんな! 今のうちに――」


そう前を指した俺の腕に、一瞬、違和感が走る。


「えっ……」


右腕が変わっていた。


見覚えはある。

なのに、前とは比べものにならない。


森で見たあれが、もっと深く、もっと大きくなったみたいだった。


燃えた。


熱じゃない。

燃えているのは熱じゃない。

でも、そうとしか言えない感覚だった。


右腕の内側で、何かが逆流している。引き出されていた何かが、今度は押し込まれてくる。


爪が伸びていた。

いつもより速く、いつもより深く。

手首まで、肘まで。鱗が浮き上がる。


でも今日の鱗は違う。

色が違う。黒だけじゃない。何か別の色が混じっている。


止めようとした。


でも右腕だけ、もう俺の声を聞いていなかった。


魔道具はまだ光り続けている。


「蓮くん!」


エヴリンの声が聞こえた。


「ノア、蓮がヤバい」


「わかっている、下がれ!」


ノアの声が遠い。


右腕が、別のものになっていく。

爪だけじゃない。肘まで、肩まで。黒い何かが這い上がってくる。皮膚の下で、骨が変わっていく音がした気がした。


俺が俺じゃなくなっていく。


「止まれ、蓮!」


ノアの声。


「蓮!」


テオの声。


「蓮くん」


エヴリンの声。


全部、遠い。


王子が前に出てくるのが見えた。

龍腕を構えている。向かってくる。止めに来るのか、それとも――。


観客席から悲鳴が聞こえた。


視界が揺れた。


演習場の石畳が、遠くなっていく。


「なんで……」


右腕が、完全に別のものになっていく。


思考が溶ける。


さっきまで考えていたことが、遠のいていく。

ノアの「やめろ」という声が遠のいていく。

クララの「三発目を使って」という口の動きが遠のいていく。


最後に残ったのは、エヴリンの声だけだった。


名前を呼んでいた。


その声は、もう届かなかった。


次の瞬間、視界はそこで暗く落ちた。


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