第二十六話 仕事と、引っかかり
あれから数日が経った。
朝の検査が終わると、エヴリンが来る。書類を持って椅子に座る。
それが今の一日の始まりだった。
左手だけでもできることは、少しずつ増えてきた。ページをめくれるようになった。着替えにかかる時間も短くなった。字も、前よりはましになった。
慣れた、とは思わなかった。
右腕がないことを前提に、動き方を変えているだけだった。
昨日、書類に署名を求められた。
左手で書いたが、文字が歪んだ。何度か書き直して、なんとか形にした。
エヴリンは何も言わなかった。ただ、次からは署名じゃなくて押印にできないか確認してみると、後から言った。そういうことを、黙って考えている人だった。
それを慣れたと呼んでいいのかは、まだわからない。
今日は、エヴリンがいつもの時間より少し遅れて来た。
何も言わなかった。
俺もわざわざ聞かなかった。
俺はまた、エヴリンと一緒に“外”へ出ていた。
といっても特別棟の中にある、小さな部屋みたいな空間だ。庭と呼ぶには狭く、牢よりはまし、という程度の場所。
「そろそろ、街とか学校とかにも行きたいんだけど……」
「まだです。しばらくの間は我慢してください」
その“しばらく”が、いつまで続くのかは誰も言わない。
特別棟の窓からは、中庭を挟んで向こう側の棟が見える。普段は人通りの少ない場所だ。
その日は違った。
人がいた。
学園の制服ではない、事務的な格好をした大人が数人、中庭を横切っていた。
目が止まったのは、その中に見知った顔があったからだ。
アイリスだった。
見たことのない紋章の入った上着を着ていた。学園の制服じゃない。手には書類を持ち、隣の大人と何かを話している。
表情は平坦だった。
いや、いつもよりずっと硬かった。
ただそこにいるだけじゃない。
何かを処理している顔だった。
相手が頷く。
アイリスが書類に何かを書き込む。
また短く言葉を返す。
また相手が頷く。
淡々としている。
でも、ただの伝達じゃなかった。あの場で何かを決める側の空気だった。
同じ顔なのに、学園で見るアイリスとは違って見えた。
「見ない方がいいです」
エヴリンの声がした。
いつのまにか隣に立っていたらしい。
エヴリンも窓の外を見たが、それは本当に一瞬だった。すぐに俺の方へ向き直る。
「アイリスは、何をしてるんだ」
「ただの仕事です」
「なんのだよ。学生だろ」
「家の仕事です」
それだけだった。
「エヴリン」
「今日の検査結果を確認しなくてはならないので」
聞く気がないわけじゃない。
これ以上答える気がないのだと、その言い方でわかった。
アイリスはまだ中庭にいた。
さっきと同じ顔で、さっきと同じように仕事をしていた。その横顔が、妙に遠かった。
窓から離れ、椅子に座る。
アイリスが何をしていたのか、わからないままだった。
エヴリンもはっきりとは答えない。それが、今は妙に引っかかった。
しばらくして、アイリス本人がやってきた。
さっき中庭で着ていた上着はもう脱いでいて、いつもの制服姿だった。手には書類を持っている。
俺が見ていたことに気づいているのかどうか、表情からはわからなかった。
椅子に座り、書類を開き、何かを書き始める。
ペンを持った手が、一瞬だけ止まった。ほんの一瞬だったが、確かに止まった。それからすぐに動き始める。止まったことを、なかったことにするみたいに。
聞こうと思った。
でも聞けなかった。
横顔を見てしまったからだ。
いつもと同じ顔をしている。感情を落とした平坦な顔。
なのに今日だけは、その奥に何かが閉じられている気がした。
扉が閉まっているみたいな顔だった。ノックしていいのかどうか、わからない扉だった。
「何か用ですか?」
「……いや、なんでもない」
三人でしばらく黙っていた。
書類のページをめくる音だけが、部屋にあった。
昼を少し過ぎた頃。
「少し席を外します。何かあれば、アイリスにお願いします」
エヴリンが席を立った。
アイリスと二人きりになる。
アイリスはずっと書類を読んでいた。
俺は本を開いていたが、内容はほとんど頭に入っていなかった。
午前中のことが、ずっと引っかかっていた。
聞くなら今しかない。
「アイリス」
「なんですか」
「さっき、外で何をしてたんだ」
アイリスの手が、一瞬だけ止まった。
「ただの仕事です」
「どんな仕事」
「家の仕事です」
姉と同じ答えだった。声の温度まで、似ていた。
「それは」
「学園の外の話です」
「今の俺には、関係ないってことか」
「そういうわけではありません」
アイリスがペンを置き、まっすぐ俺を見た。
「今は話せないというだけです」
今は。
その言葉だけが残った。
今は話せない。
いつかは話せるということなのか。
それとも、ただそう言って閉じているだけなのか。
「わかった」
これ以上は話してくれないだろう。
そう思って、引いた。
アイリスは少し待ってから、またペンを握った。
夕方、エヴリンが戻ってきた。
アイリスと短く何かを話し、アイリスが先に上がる。廊下へ出る前に、一度だけ俺の方を見た。何か言いかけた顔をした。でも結局言わなかった。
ドアが閉まる。
エヴリンも荷物をまとめた。立ち上がって、ドアに向かう。
取っ手に手をかけて、一度だけ止まった。振り返った。何も言わなかった。
でも何か言おうとした顔だった。結局、そのまま出ていった。
エヴリンが振り返って俺を見る。
「聞きましたか」
「何を」
「気になっているのでしょう」
「……教えてくれなかったよ」
「そうでしたか」
「エヴリンも教えてはくれないよな」
エヴリンは少しだけ間を置いた。
「今は」
「今は、か」
「はい」
俺はしばらく天井を見ていた。
今は。
アイリスも同じ言い方をした。
姉妹で同じ言葉を使うのか、それとも家でそういう答え方をするように教えられているのか。
「いつか教えてもらえるのか」
エヴリンが俺を見る。
「そうなった時に」
「それ、いつだよ」
「必ず、教えますから」
その声は、少しだけ優しかった。
エヴリンは窓の外へ視線を向けた。
外はもう暗くなり始めている。
「ただ、今の私には、これ以上言えることがありません」
言い訳じゃなかった。
本当に、それが全部なのだという言い方だった。
俺もそれ以上は聞かなかった。
夜、一人になった。
夜は石造りの牢が、昼よりずっと冷たく感じられる。
「家の仕事、か」
昼の言葉だけが、頭に残っていた。
アイリスがまとっていたあの空気。平坦な表情の奥に閉じられていたもの。エヴリンがすぐに視線を戻したこと。
何かがあった。
でも、何かがあったということしかわからない。
俺はまだ、この国のことを何も知らないのかもしれない、と思った。
学園に来て、班に入って、それなりにわかったつもりでいた。
でも特別棟に入って、この立場になって、初めて見えてくるものもある気がした。
あのポスター。
竜禍の警鐘が書かれた、ギルドに貼ってあったあれ。
あれの向こう側に何があるのか、俺はまだ何も知らない。
火種が、静かに脈打った。
消えない。
右腕がなくても、これだけはまだここにある。
それが今の俺にとって何なのか、まだわからなかった。
ただ、脈打つたびに、もう少しだけ知りたいと思った。
この国のことを。
エヴリンとアイリスが、何を背負っているのかを。




