第39話 挫折
十層クリア後三十日が経った、百五十日目――
目を覚ますと、パンが焼ける香ばしい匂いと、コーヒーのほろ苦い香りが鼻腔をくすぐる。
ベッドから体を起こすと、キッチンからは規則正しく刻まれる包丁の音が聞こえてきた。
布団を抜け出し、匂いにつられるように向かうと、そこにはエプロン姿のアリサがいた。
白いTシャツにベージュのショートパンツを合わせ、スープの味見をしている。
「おはよう、アリサ」
声をかけると、キャラメルブラウンの絹のような髪を耳にかけながら、アリサはふわりと笑った。
「うん。おはよう。今日はパンだけどいい?」
「もちろん」
そう言いながら朝の支度をすませ、アリサと小さなダイニングテーブルで向かい合う。
まるで恋人――いや、新婚のような、穏やかで幸せな時間。
そんな朝を過ごしてから、俺たちは迷宮へと向かった。
そして、そこで突きつけられたのは――どうしようもない現実だった。
――ベリグランド迷宮 十二層クリア――
ハーティ名【サジタリウス】
パーティリーダー名【Ronry】
「やっぱり、Ronryのところだったか」
ため息交じりに吐き出した俺の言葉に、隣でアリサが小さく頷く。
「そうね……【カタミ村】に戻って十三層のことを聞きに行きましょう」
彼女の声は冷静だったが、その瞳には、複雑な感情が垣間見えた。
「そうだな。さすがにここは俺たちには分が悪すぎる。キョウヤに十三層のことを聞いて、もし状況が同じなら、一旦攻略を諦めるしかないだろう」
シルバの判断に、アリサと俺は無言で同意の意を示す。
今回初回踏破した【サジタリウス】――リーダーこそRonryだが、実際指揮を執っているのはキョウヤだ。
キョウヤはいち早く優秀な人材やジョブをキャリーし、キャリーした人が、さらにキャリーをすることによって五十人規模の集団をつくった。
そこには、セントラルシティの道具屋を買収し、支援の要となっているヌコも含まれている。
彼らの攻略スタイルは効率的でありながら緻密だ。
五人のパーティをいくつも編成し、その階層のボスに最適な組み合わせで挑む――その戦略が成功している理由の一つは、十一層以降でユニークモンスターが落とすようになった【転移結晶】の存在だ。
【転移結晶】は、一度きりではあるが、ボス部屋から退出できる貴重なアイテム。
偵察パーティを先に送り込み、ボスの行動パターンや弱点を調べさせることで、挑戦する際のリスクを大幅に軽減している。このシステムにより、ボス部屋自体の難易度は実質的に下がったと言えるだろう。
十層に存広がる集落――カタミ村。
その名は、シルバがつけたものだった。
ナインによって混乱に陥れられ、サルタの手によって散ったプレイヤー――その名が「カタミ」だったことに由来する。
十層以降から、転移できるのはこのカタミ村だけ。
つまり、最前線を攻略するプレイヤーたちがセントラルシティやレイクタウンへ転移しようとすれば、必ずここを経由しなければならない。
さらに、カタミ村への転移も、カタミ村からの転移も、どちらも一律1,000G。
そのため、最前線を攻略するプレイヤーの多くがここを拠点としている。
たかが1,000Gだが、毎日……いや、ポーションやマジックポーションの補給を考えれば、出費は積み重なる。結果的に、拠点を移さざるをえない者も少なくなかった。
――だが、俺たち――俺は違う。
高い金を払ってでも、セントラルシティに戻る理由がある。
言わずもがな、アリサとの至福のひと時だ。
十層――カタミ村に戻ると、キョウヤが大勢のプレイヤーに囲まれていた。
彼は冷静に対応しつつも、時折困惑した表情を浮かべている。
そんな中、俺たちを見つけたキョウヤが軽く手を上げる。
短い挨拶を交わすと同時に、十二層ボスのデータ、そして十三層のフロア情報が即座に送られてきた。
送られてきた情報を確認するやいなや、俺の胸には重い現実がのしかかる。肩を落とし、二人に向き直った。
「ダメだ……十三層も湿地帯フィールドだ」
俺の言葉に、アリサとシルバの表情が曇る。その場の空気が一気に沈み込むのがわかる。
「またか……」と、シルバが小声でつぶやく。
この湿地帯フィールドが、俺たち【雷光】にとってどれほど厄介か。それを理解しているからこそ、二人の落胆も大きい。フィールド全体が俺たちを拒むかのような設計だった。
敏捷値が半減――ジョブによっては四分の一にまで落とされる。
一方で、敏捷値半減の影響を受けない【盗賊】や【軽業師】などのジョブを擁するパーティは、次々と攻略を進めていく。湿地帯に適応できる編成を持つ彼らは、俺たちの目の前でどんどん先へ進んでいくのだ。
ちなみに【盗賊】をマスターすれば、別のジョブに就いてもデバフは受けないようだ。キョウヤがそう言っていたから間違いない。
「すまないな。【騎士】の俺がいるばかりに……」
シルバがいつものように申し訳なさそうに頭を下げた。その瞳には深い自責の念が宿っている。
「そんなことないですよ。いつか【騎士】が輝くマップも必ず来ますから」
アリサの明るい声には優しさがこめられていたが、俺たち全員が感じている現状の厳しさは覆い隠せない。
【騎士】というジョブ――その特性が、湿地帯フィールドでは容赦なく足を引っ張ってしまう。敏捷値が四分の一にまで低下するこの環境では、盾を構えるタイミングが遅れがちになる。動きが鈍くなったシルバの盾では、攻撃を受け止めきれない場面も増える一方だ。
『魂の監獄』における防具システムは、一般的なMMORPGとは少し異なっている。通常であれば鎧が防御の要とされるが、ここでは盾の防御力が最も高く設定されている。ただし、その防御力を発揮するには、文字通り盾で攻撃を受け止める必要があるのだ。
対して鎧の防御力は、たとえ装備が完全に体を覆っていなくても、一定の値が常に反映される。シルバの装備する大盾は非常に高い防御力を誇るものの、正面からの攻撃に特化しているため、横や後方からの攻撃には対応しきれない場面がある。しかも、この湿地帯では移動そのものが遅れるため、盾を持っての位置調整すら困難を極める。
魔物たちを倒した後、次の部屋に進むどころか、回復のために膨大な時間を費やす俺たち。戦闘のたびにHPもMPも消耗し、街に戻ってポーションやマジックポーションを補充する機会が増える一方だ。その結果、攻略の進行は遅々として進まない。
あまりにも効率が悪いため、【初心者の書】を使い、シルバが《ヒール》を会得するまでに。
《ヒール》
【MP】10
【CT】60
【威力】-
【詳細】対象のHPを50+(魔力/3)回復
《ヒール》について「俺が覚えた方がいいのでは?」と考えたこともあった。しかし、それをしなかった理由がある。
シルバは将来的に【神聖魔法使い】へのジョブチェンジを予定している。【騎士】の防御力と回復魔法を併せ持つ三次職を視野に入れているからだ。
ただ、現実問題として、この迷宮に潜り続けるのは効率が悪すぎる。この湿地帯のデバフ環境で戦いを繰り返すより、別の選択肢を模索するべきだと感じていた。
そのため、別の場所で経験値を稼ぎ、一気に攻略を目指すという計画を立てた。
そして、この選択肢を選ぶ理由がある。
十層を攻略した翌日、冒険者ギルドに数多くの新しいクエストが追加されていたのだ。サブクエストや地域限定のクエストなど、多様な内容が揃っていた中で、特に俺たちの目を引いたものが二つあった。
一つ目は、ベリグランド大陸南東の廃村に巣食う盗賊団の討伐クエストだ。盗賊団はNPCで構成されており、推奨レベルは35~40以上。南東の魔物はかなりの強敵と聞く。そこに盗賊団も一緒に相手するとなると、かなりの難易度だろう。
そして二つ目が、俺たちが狙っているクエスト――レイクタウン北に位置するベリグランド湖で突如として現れた『建造物』を攻略するクエストだ。このクエストも推奨レベルは35~40以上だが、選んだ理由は単純な経験値稼ぎだけではない。
それは、このクエストに記された一文が、俺たちの心を揺さぶったからだ。
『二二〇日までにクエスト完了できない場合、レイクタウンが滅びます』
レイクタウンは初心者冒険者たちの重要な拠点だ。特に、八層や九層で必要となる松明の需要はまだまだある。その街が滅びれば、初心者たちの冒険は著しく困難になるだろう。
これまでにも数多くのパーティが攻略を目指して出発したが、帰還した者たちから聞こえてくるのは芳しくない報告ばかり。
だからこそ、湿地帯フィールドで活躍の場を失った俺たちが、その『建造物』の攻略に挑もうという算段だ。
推奨レベルが35~40以上なのに、30前後の俺たちが挑むのは無謀だと思うかもしれない。しかし、俺たちの構成だからこそ生まれる勝機がある。
というのも、湿地帯ではお荷物だった【騎士】が、この場では頼もしい戦力となるのだ。
湖の周囲の地形は比較的平坦で、【騎士】の真価が発揮される。馬に乗った【騎士】の移動速度は圧倒的であり、パッシブスキル《馬心伝心》のおかげでステータスが下らない。これを活かして魔物に接近し、おびき寄せることができるのだ。
実際、十二層を初攻略したキョウヤたちも、この戦術で魔物をおびき寄せることには成功していた。ただし、彼らの最大の問題は、火力不足で仕留めきれなかったという点だった。
彼から聞いた魔物のステータスを元に検討した結果、俺たちならやり方次第で突破できる可能性があると判断した。
もっとも、失敗したらすぐに逃げる。それだけは徹底するつもりだ。深追いして無駄な犠牲を出す気は毛頭ない。
俺たちはひとまず作戦の確認を終え、解散して明日に備えようとしていた。
そんなとき、本日の主役とも言えるキョウヤが顔を出した。
彼とはもう蜜月な関係と言っても過言ではない。
というのも、俺が雷魔法を使えるという情報を、【光魔導士】のユッカから報告を受けているだろうと思い、俺から先にジョブのことを打ち明けたのが始まりだった。
そこから、徐々に打ち解けていった。
しかし、キョウヤは日本での話は絶対にしたがらない。だからこそ、俺とアリサの関係についても深くは訊いてこない。自分がされて嫌なことや困ることを、他人にも強要しない。
彼は、そういう最低限の礼儀をわきまえている男だった。
「キョウヤ、俺たちは明日セントラルシティを発つ」
俺の言葉に、キョウヤはすぐに察した様子で頷く。
「ベリグランド湖か?」
「ああ。この辺りでは俺たちのやれることが限られてるからな」
「賢明だな。一応、偽名ショップの前には見張りをつけている。ナインたちが名前を変えようとする動きがあれば分かるようにはしておいた。ただ、油断はするなよ。あいつらはこの街からでている可能性が高い。フィールドでばったり会うということもありえるからな」
「分かってる。でも、それを言うならお前のほうがよっぽど危険じゃないか。五十人もなんて……」
俺がそう指摘すると、キョウヤは軽く目を細め、俺の言葉を途中で遮った。
「皆まで言うな。それなりに対策はしているつもりだ。お前らは気にするな、自分たちのことに集中しろ……最後に一つ頼みがある。また【審判の書】を貸してくれないか?」
「もちろん。取ってくるからここで待っててくれ」
何より、この【審判の書】――それが視せる情報こそが、俺たちを『オイルリグ』へと逸らせるのだった。




