私の婚約者
ヴァレーヌ侯爵家の者に連れられて移動している途中、クラリッサはアルブレヒトに一言だけ言われた。
「先ほどのように激発するのは避けてください」
一瞬、何を言われたのか理解できなかったが、少し考えてその意味にたどり着く。
クラリッサがアルブレヒトを責めたことを言っているのだ。
もうクラリッサには何も言うつもりなどなかったが、アルブレヒトがこれ以上恥をかかせるなと言うのであれば、従うしかない。
黙って頷いて、歩いた。
案内された場所は、先ほどいた応接室に似た雰囲気の部屋だった。
この部屋にはソファはなく、椅子が数脚置かれていて、テーブルのようなものは見当たらなかった。
アルブレヒトはそこが重要な商談や話し合いに使われる部屋であることを知っていた。テーブルは運び出したのだろう。
座っているのは、一見してアルブレヒトよりも年長の男だけだった。
ヴァレーヌ侯爵だ。
アルブレヒトとクラリッサが部屋に入った時点で、ヴァレーヌ侯爵、侯爵令嬢、エドガーとレオンまで既に揃っていた。
ヴァレーヌ侯爵とアルブレヒトの視線が一瞬重なる。
本来であれば、今日の夜会で侯爵との商談を行う予定だった。
人脈を使い、機会を待ち、ようやくつかんだ好機だった。
ところがいまは、予定とはまったく違う形で侯爵と対面することになってしまった。
「さて、全員揃ったようだな。先に言っておくが、ここで話した内容は他言無用だ。それを破った者は、ヴァレーヌ侯爵家に対して敵対の意思があるものとみなし、対処するから、そのつもりでいるように」
その言葉に場の空気は張り詰める。
「私の娘の婚約者、エドガーがそこのベルクマン男爵令嬢と不貞を働いたとの報告を受けている」
ヴァレーヌ侯爵はそこで一度言葉を切った。
そして、娘の婚約者であるエドガー・ド・ハルデンに対して厳しい視線を向けた。
クラリッサには、続く言葉がわかるような気がした。
「事実か」
「違うのです!」
エドガーは間髪入れずに、侯爵に対して悲鳴のような叫び声をあげた。
そして数時間前、応接室での主張と同じことを繰り返した。
「僕は、この女に騙されていたのです! この女が、自分は婚約者に虐げられている気の毒な令嬢なのだと、そう僕に吹き込んだのです! 僕は、騙されて彼女を助けようとしてしまったのです!!」
エドガーの必死の訴えにも、ヴァレーヌ侯爵はさして心を動かされた様子がない。
そんな父に、侯爵令嬢が言った。
「お父様。この汚らわしい女に原因があることは明らかです。この害虫のような女に、次の縁談があるとも思えませんし、私はこの女が視界に入るのすら不快ですわ。その辺りをお考えいただいた上で処分を決めていただきたく存じます」
ヴァレーヌ侯爵はひとつ頷くと、今度はレオンに言葉をかける。
「ベルクマン男爵令嬢は、レオン卿とも親しい仲であったと報告があったが、それも事実なのか?」
問われたレオンは、大きく頷いた。
「事実です、ヴァレーヌ侯爵閣下。しかし、私も彼女も遊びだと十分理解して楽しんでおりました」
「ほう」
「加えて言えば、どうやら彼女は年上の婚約者に大きな不満があるようだ。彼女が婚約者を失ったことに関しては、多少は私にも責任があるかもしれませんが、それほど大きな責任とは考えておりません」
言外に、ヴァレーヌ侯爵家とハルデン伯爵家の縁談に対する責任はないと匂わせながら、レオンは軽やかに答えた。
ヴァレーヌ侯爵はひとつ頷くと、今度はアルブレヒトに聞いた。
「ケルナー男爵。婚約者が不貞を働いていたことに関して、男爵はまったく気づかなかったか?」
クラリッサはちらりとアルブレヒトを見る。
アルブレヒトはヴァレーヌ侯爵に丁重に一礼している。
「申し訳ございません、ヴァレーヌ侯爵閣下。まったく気づきませんでした。婚約者の不貞を止めていただいたこと、心より感謝申し上げます」
「そうか。まあ、こちらも噂が広がらぬよう手を打っていた。伝聞で気づくことは難しかったであろうな」
「恐れ入ります。それと……」
アルブレヒトは一度隣に立つクラリッサを見た。
クラリッサはうなだれて、視線を床に固定している。
「何やら皆様、私が彼女との婚約を破棄する前提でお話を進めておいでですが」
「うむ、そのようだな」
「いまのところ、私には婚約を破棄する予定はございませんので、その点は訂正をお願いいたします」
エドガー、レオン、ヴァレーヌ侯爵令嬢、そしてクラリッサの視線がアルブレヒトに注がれる。
最初に声をあげたのはヴァレーヌ侯爵令嬢だった。
「男爵!? あなた、何を考えておられますの? その女は、複数の男性と関係を持った汚らわしい女ですのよ!?」
激発する侯爵令嬢を前にしても、アルブレヒトに動揺の色はない。
「そのようですね。しかし私は高位貴族の方々ほど、純潔を絶対視しておりませんので」
ヴァレーヌ侯爵令嬢は口を半開きにしてそれ以上言葉が続かない。
代わりに声を上げたのは、レオンだった。
「子供ができているかもしれないよ」
「その場合は彼女と話し合います。まず産むのか、産まないのか。産むのであれば、生まれた子を我々の子として育てるのか、他に養子に出すのか」
アルブレヒトの鋭い視線がレオンに向けられた。
「もしくは、父親と思われる男性に責任を取っていただくか。どちらにせよ、それは彼女の妊娠がわかった後の話です。いまこの場で話さずともいいでしょう」
それで、レオンも黙った。
アルブレヒトはヴァレーヌ侯爵に真っ直ぐに向き直った。
「侯爵閣下、私にもいくつか確認したいことがございます。他の方に質問をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
ヴァレーヌ侯爵が頷くのを確認すると、アルブレヒトはエドガーに向き直った。
「エドガー卿。あなたは先ほど、私の婚約者に騙されたのだ、と仰いましたね?」
「そ、そうだ! 僕はその女に騙されたんだ!」
「では、どのように騙された結果、関係を持つことになったのか、教えていただけますか?」
「……は?」
クラリッサはただ茫然と、アルブレヒトが喋るのを見ていた。
誰もがクラリッサを責め、クラリッサを処分しようとしているこの場で。
いきなり婚約破棄の意思がないことを主張したかと思えば、クラリッサを責めた人間に問いを向けている。
「逆ならばまだわかるのです。男が女に力ずくで関係を迫った、高位貴族が権力を使って身分の低い者と関係を持った、という話は聞いたことがございます。しかし今回は、クラリッサ嬢の方が女性で、しかも爵位も低い」
「い、いや、それは……」
アルブレヒトの舌鋒はまったく容赦がなかった。
「加えて、エドガー卿は先ほど私の婚約者を救おうとしたのだと主張なさった」
「そ、そうだ! 僕は彼女を助けようと……」
「それがどうして関係を持つことに繋がるのです」
「……」
「私との婚約を解消させるよう働きかけるのならわかります。ベルクマン男爵家からさらうことも彼女を助けることに繋がるかもしれません。しかし、関係を持つことがどうして助けることに繋がるのです」
怒りで血色の良かったエドガーの顔から、血の気が引いている。
ただがたがたと震えて、立ち尽くすだけだ。
それ以上の言葉はなかった。
そんなエドガーの様子を確認すると、アルブレヒトはエドガーに固定していた視線を動かした。
「ヴァレーヌ侯爵令嬢」
「はっ、はいっ?」
不意に声をかけられ、驚いたように返事をする。
「私はここに来る前に、婚約者に確認を取りました」
「……何をですか」
「私以外の男性と関係を持ったのは事実なのか。そして、それは自分の意思によらず強制されたことなのか、という点です」
「それで、彼女はどのようにお答えになったのですか」
「関係を持ったことは事実であり、それが彼女の意思に反して強制されたことではないと、確認が取れています」
「……」
「私が思うに、不貞を働いたのは私の婚約者だけではなく、侯爵令嬢の婚約者も同様ではないでしょうか」
ヴァレーヌ侯爵令嬢は、いまだ顔色を失い、がたがたと震えているエドガーを見て、返事をした。
「そのよう……ですわね」
「侯爵令嬢のお怒りはごもっともではございますが、私の婚約者ひとりに責任を押し付けるのは、いささか無理のある状況のようですね」
ヴァレーヌ侯爵令嬢は、手を握りしめ、クラリッサに憎しみのこもった視線を向けるが、それでもアルブレヒトの言葉に頷いた。
アルブレヒトはそれを確認すると、再度ヴァレーヌ侯爵に向き直った。
「ヴァレーヌ侯爵閣下、私といたしましては、若者たちの失敗を必要以上に罰することはないのではないかと考えますが」
ヴァレーヌ侯爵は面白そうに口の端を上げる。
「そうか、そうかもしれないな。では、ケルナー男爵であればどのような罰が相応しいと考えるか?」
「数か月程度の謹慎でしょうか。婚約に関しては、継続するにせよ解消するにせよ、その補償まで含めて家同士で話すべきことでしょう」
アルブレヒトの言葉に、ヴァレーヌ侯爵は大きく頷いた。
「そうだな、そのようなところだろうと私も考えている。ベルクマン男爵家からはどのような賠償にも応じると、既に連絡が入っているが、それについてはこちらの話がついてからにしよう」
クラリッサは不意に侯爵の口からもれた自分の家名に、弾かれたように身体を震わせた。
当たり前だった。
これだけのことをやって、家に連絡がいかないはずがない。
「そうですか。それがよい、と私も思います。とにかくこの場で決めすぎないことです」
「驚かないのだな」
「何がですか?」
「私は少々意外に思ったが。このような状況だ、子を切り捨てて処分をこちらにすべて任せ、家を守る決断をしてくるかとも考えていたのでな」
クラリッサは身体の震えが大きくなるのを自覚した。
そうだ、それだけのことなのだ。
男爵家が侯爵家に睨まれてしまえばどうなってしまうのか。
クラリッサにも、ただでは済まないことが理解できる。
「ベルクマン男爵ご夫妻は、クラリッサ嬢を大変に愛しておいでですから、当然の対応かと」
クラリッサは顔を完全にアルブレヒトに向け、その言葉の意味を理解した。
身体の震えは一向におさまらない。
ヴァレーヌ侯爵の顔からは、最初の厳しい表情が完全に消えている。
「なるほどな。ケルナー男爵も同様というわけか」
アルブレヒトは否定しなかった。
アルブレヒトがクラリッサに目を向け、二人の視線が合う。
今度は一瞬ではなく数瞬のあいだクラリッサを見つめたあと、アルブレヒトはもう一度ヴァレーヌ侯爵に向き直った。
「この度は、私の婚約者が大変なご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした」
そして深々と頭を下げる。
クラリッサも慌てて、アルブレヒトに合わせて頭を下げた。
「なに、こちらこそ娘の婚約者が迷惑をかけた。ケルナー男爵とはこのような場ではなく、また商談の場で会いたいものだな」
「恐れ入ります」
それで、クラリッサの処分を決める場は終わった。
結局クラリッサは、断罪の場に入ってから。
一言も発することなく、いくつかの発見をしただけで、断罪の場から退出したのだった。




