私だけが悪い
その後もクラリッサは、アルブレヒトの自由に楽しんで良い、という言葉通り行動した。
少なくとも、彼女はそのつもりだった。
夜会が開かれるたび、レオンと逢瀬を重ねた。
エドガーとも、結局「今夜だけ」で済むはずもなかった。
アルブレヒトの態度は変わらず、もし疲れたら遠慮なく先に帰って構いません、と言ってくれている。
自由に楽しんで、先に帰る。
クラリッサは何の問題もないと本気で信じていた。
罪悪感など最初からなかった。
背徳感すらも、回数を重ねるごとに消えていった。
エドガーはクラリッサを、冷淡な婚約者に虐げられた可憐な少女として激しく求め、熱烈な愛を注いでくれた。
彼と過ごす時間は、母が生きていた頃のような甘い温もりと、自分が必要とされている幸福感に満ちていた。
一方のレオンは、決してクラリッサに強制することなく、意思を尊重してくれ、それでいて大人の余裕で甘やかしてくれている。
その時間にはテレーゼの教育で押し殺されてきた自分の存在を、まるごと肯定してもらえる安心感があった。
クラリッサは、自分が愛されていることと、自分を必要としてくれる場所があること。
ただそれだけで、幸福に満ち足りていたのだ。
このときクラリッサは、アルブレヒトと婚約して本当に良かった、とまで感じていた。
そして、ある夜会でのことだった。
破綻は、クラリッサにとってはなんの前触れもなく訪れた。
その夜会は、ヴァレーヌ侯爵家が主催するものであった。
華やかな大広間から離れた静かな区画。
個室でエドガーとの甘く切ない時間を過ごしたクラリッサは、頬を火照らせ、彼の差し出す手を取って部屋から出てきた。
お互いに熱い視線を交わし、また後で、と名残惜しそうに微笑み合った。
そのときだった。
「エドガー様」
静かな、そして低く冷ややかな声が二人の足を止めさせた。
振り返ると、そこには見覚えのない数人の男たちが立っている。
周囲の客に気づかれないよう、さりげなく、けれどしっかりと二人を取り囲んでいる。
まずエドガーの顔色が失われた。
クラリッサにはまだ何が起こっているのか理解できない。
男たちのひとりがエドガーに言った。
「ついてきていただきます。お嬢様がお待ちです」
「い、いや! 違うんだ! 僕は……」
動揺して声を荒げようとするエドガーに対し、男は顔色一つ変えずに粛々と応じた。
「大声を出すのはお控えください。当家の指示により、穏便にお連れするよう言われております。この場で話すなというお嬢様のご配慮を、ご理解いただけますね?」
息を詰まらせたエドガーが、男たちに挟まれるようにして歩き出す。
のろのろとした動きのエドガーの背中を、後ろについた男が手のひらで押す。
呆然と立ち尽くすクラリッサにも男は声をかけた。
「お前もだ、クラリッサ・ド・ベルクマン。騒げばすぐさまその口を塞いでやるから覚悟しておけ」
クラリッサがこれまで経験したことのない、本物の圧を含んだ言葉に、クラリッサの身体は硬直する。
しかし、エドガーと同じように男たちに挟まれ。
エドガーと同じように背中を押され。
同じようにのろのろと歩き出した。
行きついた先は、夜会会場の離れにある応接室だった。
二人が部屋に入ると、重々しい扉がしっかりと閉められ、室内には静寂が満ちる。
案内された室内のソファには、クラリッサの知らない女性が座っていた。
エドガーの顔色からは完全に血色が消えている。
二人はソファに腰掛けることもできずに立ち尽くした。
ソファの女性はエドガーを一瞥すると、クラリッサを睨みつける。しかしそれは短い間だけだった。
見たくもないものを見てしまった、と言わんばかりに目を逸らすと、手を振って二人を連れてきた男に合図を出す。
男は重々しく口を開いた。
「ヴァレーヌ侯爵家は、無用な醜聞を好みません。故に、今日まで表沙汰にならぬよう噂を押さえてまいりましたが、限界でございます」
「う、噂……? 何のことだっ」
がたがたと身体を震わせながら問い返すエドガーに、男は冷ややかな眼差しを向けた。
「お戯れを、エドガー様。あなた方が夜会のたびに人目を盗み、不徳を重ねておられたことは、すべて把握しております。一度や二度ではないこともすべて、でございます」
クラリッサの心臓が大きく跳ね上がった。
血の気が引き、指先が急激に冷えて、痺れていく。
そこに、ノックの音が響いた。
壁際で待機していた男が扉を開く。
そこから入ってきたのは、数人の男に囲まれたレオンだった。
レオンは室内を見渡し、クラリッサとエドガーを認めると。
「なんだ、そういうことか」
とその場に似合わない声音で言った。
そしてソファに座る女性に声をかける。
「ごきげんよう、ヴァレーヌ侯爵令嬢」
その挨拶に、ソファに座っていたヴァレーヌ侯爵令嬢は顔をゆがめた。
「ええ、ごきげんよう。レオン卿」
「なんだか、愉快な雰囲気ではないみたいですね」
「なにを他人事のように。あなたも無関係ではありませんでしょう」
喋りながらレオンは、立ち尽くすクラリッサとエドガーの前を通り抜け、ヴァレーヌ侯爵令嬢の向かいのソファに腰を下ろした。
「それで、ヴァレーヌ侯爵家は私にどのような用件があるのですか?」
ヴァレーヌ侯爵令嬢は諦めたように息をつくと、先ほどと同じように手を振って男を促す。
「とにかく、エドガー様とベルクマン男爵令嬢の関係については、日時から回数に至るまですべて把握しております。今更言い逃れができると思われますな」
その言葉に、エドガーは口をぱくぱくと動くだけで、何の音も発することができなくなった。
男は続ける。
「さらに申し上げるなら、ベルクマン男爵令嬢」
名を呼ばれたクラリッサは、床を見ていた視線を上げる。
「当家が把握しているのはエドガー様との関係だけではございません。レオン・ド・アルノー様との関係を含め、すべて調査済みでございます」
その瞬間、クラリッサの息が止まった。
すべて、知られていた。
都合よく二人だけの世界を堪能していたつもりが、そうではなかったのだ。
そのことを理解してしまったクラリッサに、ようやく恐怖が襲ってくる。
何と言えばいいのか、どうすればいいのか、何も思いつかない。
凍り付いた空気を破って最初に動いたのは、隣に立っていたエドガーだった。
エドガーはクラリッサから距離を取ると、激しく声を荒げた。
「違うんだ!」
そう言ったエドガーの顔には激しい怒りと憎悪が浮かんでいる。
つい先ほどまで真っ白だった顔色も、燃え上がるように真っ赤だった。
「僕はこの女に騙されていたんだ! この女が、虐げられた気の毒な令嬢だと、そう思ったから彼女を助けようとしていたんだ!!」
そんなエドガーの様子をヴァレーヌ侯爵令嬢は冷ややかに見つめ、レオンは楽しそうに笑っている。
エドガーは必死だった。
もう自分の人生は終わりだと、そう思っていたのだ。
だから、これは自分に訪れた最後の挽回のチャンスだと思った。
「この女がそんな汚らわしい女だと知っていたら、こんなことにはならなかったんだ!!」
クラリッサを指さして、もう一度言った。
「僕はこの女に騙されたんだ!!」
激しい罵倒と嫌悪をぶつけられて、クラリッサはその場から一歩後ろに下がった。
信じられないものを見るように、エドガーを見る。
これが、つい先ほどまで情熱的にクラリッサを求めていた男なのか。
なにが起こっているのか、目の前の事実をクラリッサは理解することを拒んだ。
エドガーがこのような言動をすることを信じたくなかった。
けれど、エドガーの憎悪と罵倒は間違いなくクラリッサ自身に向けられたものだ。
そのような状況にあって、クラリッサの心はレオンを求めた。
自分が嫌だと言ったことを強制しなかった男性。
彼ならば、亡きアマーリエがしてくれたように、クラリッサを嫌なことや怖いものから守ってくれるはずだ。
クラリッサは縋るような視線をレオンに向けた。
レオンは軽薄な笑みを浮かべたまま、肩をすくめてみせた。
エドガーはあまりの勢いで罵倒を繰り返した結果、肩で息をしている。
ようやく静かになると、ヴァレーヌ侯爵令嬢がレオンに問いかける。
「レオン卿は本当にこの女と関係を持たれましたの?」
その言葉にクラリッサは安堵を覚えた。
レオンなら、こんな状況からでも魔法のようにクラリッサを助け出してくれるはずだ。
しかし、レオンはそんなクラリッサの期待と願いを砕いた。
「まあ、関係は持ったよ。でも、私の方はただの遊びさ。私には婚約者もいないし、ヴァレーヌ侯爵家と言えど咎められるような覚えはないね」
クラリッサは衝撃を受けたようによろめいた。
自分を決して裏切らない、認めてくれている、守ってくれる。
そう心から信じていた人の口から出た言葉だと思えなかった。
レオンはクラリッサに視線を向けると、さらに言葉を続けた。
「いやしかしやるねえ、君。私が初めてだったように思ったけど、あっという間に二股とは。いや婚約者もいるから三股か。私でもそこまで節操なしじゃないよ」
クラリッサは二歩、三歩とよろめいてそのまま耐えられないように床へ崩れ落ちた。
なにも言葉が出てこない。
どうしてこんなことになったんだろう、という言葉が頭の中で繰り返された。
もうクラリッサの目には何も映っていなかった。
「とにかく、そこの汚らわしい女が原因だということはわかりましたわ。お父様は夜会が終わるまで動けませんから、お父様がお戻りになってからその女の処分を決めましょう」
言葉とともに、ヴァレーヌ侯爵令嬢が立ち上がり、部屋から出ていく。
エドガーはその後ろをついていきながら、違うんだ、そんなつもりはなかったんだ、と繰り返している。
「他に部屋は準備してあるのかい?」
「はい、ご移動なさいますか?」
「そうしようかな、私も彼女と同じ部屋にはいたくない。せっかくだ、どんな処分になるか見物させてもらうよ」
レオンもそんなことを言いながら部屋から出て行った。
「お前はそこで待っていろ。窓はすべて固めてある。逃げられると思うなよ」
床にへたり込んだまま一言も発しないクラリッサを残して、男たちも部屋から出て行った。
そして部屋にはクラリッサひとりが残される。
クラリッサは、部屋を見渡した。
逃げ込めるような丸テーブルはどこにもなかった。
応接用のソファの間に、四角く重そうなテーブルがある。
クラリッサは無意識にテーブルに向かって歩こうとした。
足に力が入らず、床に身体が投げ出された。
それでも這うようにしながら進み、テーブルの下に隠れようとしたが、そのテーブルの下の空間は狭く、クラリッサの身体はどうねじ込もうとしても入らなかった。
身体を床に投げ出したまま、どうしてこんなことになったんだろう、ともう一度考えた。
エドガーは自分に騙されたと言った。
レオンはクラリッサとは遊びだったと言った。
ヴァレーヌ侯爵令嬢は最後まで名を呼ぶことなく、汚らわしい女と言った。
クラリッサには、処分が下される、らしい。
渾身の力を込めて身体を起こして、もう一度部屋を見渡す。
やはりどこを探しても下にもぐれるような丸テーブルはなかった。
ふたつの目から涙が溢れた。
どうして、こんなことに。
そう思ったとき、ノックもなしに部屋のドアが開いた。
そちらに視線を向けると、入ってきたのはクラリッサの婚約者。アルブレヒト・ド・ケルナー男爵だった。
彼は床に座り込んでいるクラリッサを見ると、ソファに座るように促した。
クラリッサは何とか立ち上がり、ソファに座った。
背もたれにすべての体重をゆだねる。
アルブレヒトは向かいのソファに座ると、いつもの冷淡な声で告げた。
「私は、クラリッサ嬢が不貞を犯し、複数の男性と関係を持ったと聞かされてここに来ました」
そこで一旦言葉を切り、続ける。
「事実ですか」
そうしてアルブレヒトの視線が真っ直ぐにクラリッサに向けられる。
エドガーのような激しい怒りも、レオンのようなあざけるような色も、ヴァレーヌ侯爵令嬢のような軽蔑も含まれない、けれど言い訳を許さない強い意志が込められた視線。
「…………はい」
長い沈黙の後、クラリッサが答える。
アルブレヒトはクラリッサから視線を動かさなかった。
「無理やりだとか、脅されて仕方なくといった理由ではないのですか」
その問いに、クラリッサは答えられなかった。
アルブレヒトはしばらく待ったが、クラリッサが答えないと判断すると、続けて言う。
「答えてください、大切なことです。クラリッサ嬢が複数の男性と関係を持ったのは、あなたの意思を無視して強いられたからですか」
それでもクラリッサの言葉は音にならず、しかし首を横に振ることで、その問いに答えた。
アルブレヒトはようやくクラリッサから視線を外すと、大きなため息をついた。
「なにをやっているんですか、あなたは」
非難と失望を含んだその言葉が、限界だったクラリッサの心に最後の一撃を加えた。
クラリッサは、自分だけが悪いわけじゃないのだと思いたかったのだ。
どうして誰もかれも、自分だけを責めるのだ。
その思いがクラリッサの口を開かせた。
「だって! アルブレヒト様だって、自由に楽しんで良いと仰ったではありませんか!」
アルブレヒトは顔をしかめてクラリッサを見る。
「私なんて、いてもいなくても良いと思っておられたのでしょう!? どうして今になってそんなふうに私ばかり責めるの!!」
エドガーにも、レオンにも言えなかった。
ヴァレーヌ侯爵令嬢には言えるはずもなかった。
だから、アルブレヒトにぶつけた。
感情に任せてぶちまけたものの、それ以上は言葉が続かなかった。
クラリッサはアルブレヒトから視線をそらし、手のひらで涙をぬぐった。
「……なるほど」
アルブレヒトは一度姿勢を正した。
「なるほど、確かに私はあなたに、自由に楽しんでください、と言いました」
そして、少し身を乗り出す。
「あなたはそれを、婚約者以外の男と関係を持つことまで含めて自由だと解釈したのですか。本気で?」
その通りだった。
アルブレヒトの言葉は、クラリッサの考えそのままだった。
けれど、クラリッサはそれを肯定できない。
少しでも考えればわかる。アルブレヒトに言葉にされると、もっとわかる。
そんなものが、「自由に楽しんでください」という言葉の中に含まれるはずがなかった。
だから、クラリッサはその問いに答えることができなかった。
今度はアルブレヒトも重ねて問うことはしない。
結局、夜会が終わり、ヴァレーヌ侯爵家の者が呼びに来るまでの数時間、二人は一言も喋らず部屋でじっとしていた。
クラリッサは思う。
エドガーに怒られ、レオンに嗤われ、ヴァレーヌ侯爵令嬢には軽蔑された。
そして、婚約者のアルブレヒトには呆れられた。
どうしてこうなったかはわからない。
でも、こうなったのは。
私だけが、悪い。




