今夜だけ
あの夜会から二日が経っていた。
クラリッサは自室の窓辺で、冷めた紅茶のカップを手に、ぼんやりと外を眺めていた。
個室でレオンと過ごした短い時間は、クラリッサに甘い熱と密やかな背徳感を残していた。
いま、クラリッサの胸を満たしていたのは、自分という人間を認めてもらい、尊重されたという充足感だった。
(アルブレヒト様は怒っておられるかしら)
あの日、クラリッサは酒が回ったので先に帰る、と給仕に伝言を残し、婚約者であるアルブレヒトを置いて一人で屋敷に戻った。
普通ならば、先に帰った婚約者の身勝手を咎められてもおかしくはない。
けれど、クラリッサの心のどこかには、どうせあの人は気にも留めていないはずだ、という諦めにも似た冷めた気持ちが居座っていた。
そこへ、侍女がノックとともに訪れ、訪問者の到来を告げた。
ケルナー男爵アルブレヒトが見舞いに訪れたのだという。
応接間に向かうと、そこにはいつもと変わらぬ穏やかで整った佇まいのアルブレヒトが待っていた。
「クラリッサ嬢。体調は回復なさいましたか?」
「はい。お見舞いに来てくださったのですか、アルブレヒト様」
「当然です。先日はお酒が回って先に帰られたと聞き、無理をさせてしまったのではないかと心配しておりました」
アルブレヒトの声には、咎めるような響きは一切なかった。
それどころか果物の籠を用意し、本気で十七歳の婚約者の体調を案じる温もりがあった。
「あの……お声をかけずに先に失礼してしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ、謝る必要などありませんよ。私の商談が長引いてしまい、あなたを退屈させてしまったのが原因なのですから、お気になさらず。ただ、お体のためにもあまり無理にお酒は召し上がらないようにしてくださいね」
柔らかく微笑みながらアルブレヒトは注意を促した。
そして彼は言葉を継いだ。
「今後も、私の仕事の挨拶が長引くことは多いでしょう。もし退屈されたりお疲れになったときは、気兼ねなく伝言を残して先に帰られて構いませんからね。私たちが行く夜会には、先に帰るパートナーのために主催が馬車を用意していますから、それを使っていただければ私も安心です」
「……」
二人の視線が絡まった。
「夜会はいかがですか。私がお連れする夜会は、クラリッサ嬢のお好みに合いましたか?」
「え、ええ。もちろんです、アルブレヒト様。今までは会うこともなかった方たちと知り合うこともできましたし、友人も増えました。とても楽しいですわ」
その言葉にアルブレヒトは満足そうに頷いた。
「でしたら、今後も変わらず夜会にはお誘いしたいと思います」
「ありがとうございます」
少し前までのクラリッサであれば、アルブレヒトの言葉がクラリッサに配慮したものであると気づけたはずだ。
しかしいま、クラリッサの心にはレオンの言葉が居場所を確保している。
放置している酷い婚約者。
客観的に見ればそれが事実なのだ。
クラリッサは胸の奥が冷えていくのを感じた。
(やっぱりこの人は、私が隣にいようがいまいが、どうでもいいのだわ)
彼は自分を引き留めようとしてくれない。
クラリッサに傍にいて欲しいとも思っていない。
婚約者を虐げるようなことはしていなくとも、雑に扱ってはいるのだ。
きっと彼も、クラリッサがこの婚約を断れないことを知っているのだ。
「お気遣い、ありがとうございます。アルブレヒト様」
クラリッサはもう一度礼を述べて、テレーゼに訓練された美しく冷たい微笑みを返した。
罪悪感など、どこにも生まれなかった。
アルブレヒト自身が言ったではないか。
好きに楽しめ、気兼ねなく先に帰っていい、と。
それならば、婚約者の言うとおりにすればいい。
誰とどのように過ごしたとしても、それはクラリッサの好きにしていいと言った男が悪いのだ。
クラリッサのそのような内心にまったく気づくことなく、アルブレヒトは次の夜会の予定をクラリッサに伝えて、ベルクマン男爵家を辞した。
数日後の夜会。
アルブレヒトがいつものように、自由に楽しんでほしいと言い残して仕事に向かったあと、壁際に佇んでいたクラリッサのもとへ、慌てたように駆け寄ってきた人物がいた。
「クラリッサ嬢! ご無事でしたか!」
エドガー・ド・ハルデンだった。
普段の整った立ち振る舞いからは考えられないほど余裕をなくした表情で、瞳は不安と安堵で揺れていた。
「エドガー様?」
クラリッサはエドガーの態度に虚を突かれたように首を傾げた。
「先日の夜会、お酒に酔って体調を崩されたと伺いました。お声をかけようにも、すでにお帰りになったあとで……。この数日、ずっと胸が押しつぶされそうだったのです」
エドガーは周りの目も気にせずクラリッサの手を取った。
彼の目には、クラリッサしか映っていない。
「……ありがとうございます。でももう大丈夫です。本当に少しお酒が回っただけでしたわ」
エドガーは安心したように頷いた。
「本当に良かった。お見舞いに伺おうとは思ったのですが……私は自分のことすら自分で自由にできないのです」
エドガーは本当に悲しそうな表情で、クラリッサの手を握る力を強めた。
エドガーが悲しんでいる。そのことが、クラリッサには悲しかった。
彼とは通じ合っている、そんなふうに思うのだ。
「お見舞いは、アルブレヒト様が来てくださいました」
その言葉はエドガーの悲しみを消した。
代わりに生まれたのは怒りである。
「先日の夜会では、お一人で帰られたと聞きました。本当なのですか? 体調を崩した婚約者を放っておくなど、あまりにも酷い話ではありませんか」
エドガーの言葉には、クラリッサの婚約者である男爵への隠しきれない棘が含まれていた。
家督を継ぐべき長男として、常に格上の婚約者に気を遣い、息を殺して生きてきたエドガー。
そんな自分と同じように家の都合に縛られ、十六歳も年上の冷淡な男に放置されている可憐な少女。
彼の中で、抑え込まれていた若い感情と、クラリッサを救い出してあげたいという強い正義感が、一気に燃え上がっていた。
「アルブレヒト様は……お忙しい方ですから」
クラリッサは伏し目がちに、儚げな溜息を吐く。
「今日も、一人で帰って良い、と言われておりますの。きっと、私がどこで何をしていようと、どうでもよいとお考えなのです……」
「そんなっ!」
クラリッサの呟きがエドガーの胸を鋭く貫く。
なんと酷い男なのだ。クラリッサのように可憐で繊細な女性を、飾り物のように放置して傷つけるなんて。
アルブレヒトの配慮など、エドガーの耳には冷酷な放置としか聞こえない。
そして、自分を強く求めてくれない婚約者に傷つくクラリッサの姿が、彼の目には今にも壊れてしまいそうなほど脆く見えた。
「許せない……。君をそんな目に遭わせるなんて、僕には到底耐えられない」
エドガーはクラリッサの手を、両手で強く握りしめた。そして真っ直ぐにクラリッサの瞳を見つめる。
「僕なら、君を絶対に一人になんてしないのに。君を悲しませるような真似は、決してしない!」
「エドガー様……」
熱い眼差しと熱のこもった言葉で真っ直ぐにクラリッサを求めてくるエドガー。
アルブレヒトからは決して得られなかったその熱は、クラリッサに求められる喜びを教える。
しかし、クラリッサは悲しげに目を伏せてエドガーの手を振り払い、首を横に振った。
「いけません、エドガー様。エドガー様は次期伯爵となられるお方。私などのために、お手を煩わせたくはないのです」
エドガーの身体は雷に打たれたかのように硬直した。
どこまでも奥ゆかしく、気の毒なクラリッサ。
いま、目の前の令嬢を救えるのは自分しかいないのだ。
ここでクラリッサを救わずして、なにが次期伯爵だ。なにが正義なのだ。
エドガーはクラリッサの手を、もう一度握って言った。
「クラリッサ嬢、良いんだ。僕にできることがあれば、言ってほしい。君を助けたいんだ」
「それでも、エドガー様にご迷惑をおかけするわけにはいきません。私のことは」
「クラリッサ」
エドガーはクラリッサの言葉を遮った。
「言うんだ。僕を信じて」
クラリッサは思う。
エドガーに迷惑をかけたくはない。
しかし、もう限界だった。
エドガーは自分を求めてくれている。
自分を求めてくれないアルブレヒトは自由にしていいと言った。
ならば、心の赴くままに行動して何が悪いというのか。
「今夜だけ……」
クラリッサは震える声で言う。エドガーは黙って続きを待つ。
「エドガー様と結ばれたい、などと言うつもりはないのです。立場も身分も違います。けれど、エドガー様が私を求めてくださるのでしたら、今夜だけでも……」
潤んだ瞳で見上げてくるクラリッサ。エドガーの胸に強烈な愛しさが湧き上がってくる。
エドガーは力強く頷く。
「ああ……! ああ、もちろんだ、クラリッサ。僕たちはお互いに自由になれない。でも、今夜だけ、今夜だけは自分の心に正直であろう」
それ以上の言葉は必要なかった。
二人は手を取り合ったまま、休憩用に整えられている個室に消えていった。
二人はお互いに、相手しか見えていなかった。
この場は夜会であり、人目のある場所だということに、まったく気づいていなかった。




