扉の先
息苦しさは、抱えていた。
エドガー・ド・ハルデン、十八歳。ハルデン伯爵家の長男で、次期ハルデン伯爵である。
婚約者はヴァレーヌ侯爵令嬢で、政略的な理由で結ばれた婚約であった。
嬉しいときも、悲しいときも、感情を抑えて生きてきた。
怒りの感情など、軽々しく出せるはずがなかった。
伯爵家の後継として相応しい行動を、と常に考えて生きてきた。
婚約者にそれほど不満があるわけではない。
家の今後を考えれば、格上の侯爵家との縁談が良いものであることはエドガーにも理解できる。
ただ、自分で選んだ婚約者ではなかった。
しかも、格上の侯爵家の令嬢だ。
常に嫌われないように気を遣ってきた。
エドガー自身、婚約者との関係は良好であると思っている。
ただ伯爵家嫡男の役割を果たすだけの人形のようなものだ、と。
エドガーは自分自身のことを、そう思っていた。
エドガーがクラリッサに出会ったのは、ある夜会でのことだった。
見たことがない、可愛らしい少女だった。
所作は美しく、けれど無邪気な笑顔が、なんとなく気になったのだ。
知り合いに聞いてみる。
「彼女は?」
「ああ、ベルクマン男爵令嬢だよ。今日は婚約者について来たんじゃないか?」
「……婚約者がいるのか」
思わずつぶやく。
だが、問題はなかった。
自分にも婚約者がいる。相手にもいる。
その二人が夜会で知り合ったとして、何の問題もないはずだった。
エドガーはその少女がひとりになる機会を見計らって声をかけた。
「失礼、あまりに美しく踊られるものだから、つい声をかけてしまいました」
男爵令嬢はクラリッサ、と名乗った。
その日から。
エドガーの心の片隅に。
明るい笑顔の男爵令嬢が入り込んでいた。
その後何度か夜会で会ううちに、少しずつクラリッサのことがわかってきた。
それまでエドガーが彼女のことを知らなかったのは、単純に高位貴族が出席する夜会にクラリッサが来ていなかっただけだった。
いまは、婚約者に連れられて出席するようになったらしい。
「もっと早く知り合いたかったな」
そんな言葉も、クラリッサといると素直に口にできた。
ずっと感じていた息苦しさが、クラリッサと一緒なら感じられない。
それでも、まだこの時点ではその言葉には何の意味も生じないはずだったのだ。
少しずつ変わっていったのは、クラリッサの事情を知ってからだった。
クラリッサの婚約者は、商売で成功しているとはいえ、十六歳も年上の三十三歳だというのだ。
一度聞いてみたことがある。
「そこまで年の離れた婚約者は、嫌ではなかったのかい?」
「……家が、決めたことですから」
クラリッサは、そう答えた。
エドガーは、どうしてこれほどクラリッサに惹かれるのか、わかったような気がした。
彼女も、同じだったのだ。
自分と同じように、自分で選んだわけではない婚約者をあてがわれて、役割を果たすかのように生きている。
許せない、と思った。
自分のことであれば、まだ我慢ができた。
しかしクラリッサを知った。
こんな酷いことはない、と思った。
なぜ自分の意思を消して息を殺し、死んだように生きなければいけないのか。
クラリッサを助けたい、と思った。
酷い家と、悪辣な婚約者から、救い出してあげたかった。
あるとき、それを口に出してみた。
「僕にもっと力があれば、君を助けてあげられるのに」
クラリッサは困ったように微笑んだ。
その寂しげな微笑みを見て。
エドガーは、やはり彼女も同じなのだ、と確信した。
クラリッサも自由のない婚約と、息苦しい生き方に支配されている。
伯爵家嫡男の身分が恨めしい。
クラリッサと最初から出会えなかった運命が憎らしい。
もっと正しい出会い方ができていれば、きっと結ばれていたに違いないのに。
エドガーは、自分は悲劇の主人公のようだ、と思った。
名残惜しそうな視線をクラリッサに向けながら、エドガーが離れて行った。
それを確認してから、レオン・ド・アルノーがクラリッサの前に歩み寄る。
「こんばんは、今夜もまた、素晴らしい夜ですね。クラリッサ嬢」
相変わらず低く滑らかな、甘さを含んだ声。
クラリッサは視線を上げる。
そこには、微笑みを浮かべたレオンがいた。
以前の夜会でレオンの誘いを断ったことは、クラリッサの記憶に残っている。
拒絶したクラリッサを一言も責めることなく、その意思を尊重してくれたこともだ。
クラリッサは少し胸をざわつかせながら、背筋を伸ばして挨拶を返すと、レオンと視線を絡ませる。
やはり、その視線にクラリッサを責めるような色は感じられない。
誘いを断ったのにもかかわらず、気まずそうなようすもなければ、クラリッサを避けることもなかった。
クラリッサはそれを確かめずにはいられない。
「アルノー様、私に怒っておられないのですか?」
「怒る? どうして?」
「私は以前、アルノー様のお誘いを断りましたわ」
「そうだね、断られた」
クラリッサの問いにレオンは平然と答えた。
本当に彼を拒絶した自分を、何とも思っていないのだろうか。
「ですから、私が嫌だと言ったことに対して、怒っておられないのか、と少し心配になったのです」
レオンは髪を軽くかき上げ、当然とでも言いたげに肩をすくめて笑った。
「もちろん、クラリッサ嬢がお嫌でしたら無理強いはしませんよ。当然ではありませんか」
「……」
その言葉には、偽りも押しつけがましさもなかった。
それがクラリッサにとっては、やっと見つけた光のように感じられてしまった。
テレーゼも、父も、誰ひとりとしてクラリッサの「嫌」を聞き入れてくれなかった世界で。
目の前の紳士だけはクラリッサの拒絶を当たり前のものとして尊重してくれる。
その事実が、恐ろしいほどの安心感を与えていた。
「今日もクラリッサ嬢はおひとりですか?」
黙ってしまったクラリッサにレオンが尋ねる。
「あ、はい」
「そうですか」
レオンは何も言わず、黙って手を差し出した。
クラリッサは自分の手を乗せる。
力強く引かれ、もう片方の手がレオンの胸に添えられた。
二人は踊った。
クラリッサには、演奏されている音が遠くなったような感覚があった。
レオンの視線が真っ直ぐクラリッサの瞳を射抜いていた。
ステップを踏み、身体の位置を入れ替えていく。
曲が終わっても手は離されず、レオンはクラリッサをエスコートしたまま、壁際に移動した。
「なにか飲まれますか?」
「いえ、ダンス前に少し飲みましたので」
「そうですか」
こんな小さなことでも、レオンは自分を尊重してくれている。
温かい気持ちが胸の中にあふれてくる。
クラリッサはこの優しい人に、聞いてみたいことがあった。
優しい人は、きっと自分を守って、そして正しいことを教えてくれるはずだ。
「アルノー様。ひとつお伺いしてもよろしいですか?」
「ええ、なんなりと」
クラリッサは視線を床に落とした。
「……私の婚約者は。アルノー様からご覧になって、やはり、酷い人に見えますか?」
以前、レオンに言われた言葉。
自由に楽しんで良い、と言われている。
配慮されている、と感じることもある。
けれど、本当に?
客観的に見て。そして優しい人から見て。
本当はどうなのだろうか。
間違っているのは、自分ではないのだろうか。
クラリッサはどうしても確かめたかった。
レオンは一瞬目を細めると、慈しむような甘い声で答えた。
「ええ、酷い男ですよ。これほど美しく咲いた花を、人目に晒したまま商談にかまける男など、私から見れば正気とは思えない。……本当に君を大切に思っているなら、どんな仕事よりも君の手を離すはずがありません」
やっぱり、そうなのだろうか。
自分でもどこかで分かっていた。でも、認めるのが怖かったのだ。
誰にも大切にされていないという、恐怖を伴った事実を。
婚約者は冷淡だ。クラリッサと婚約してもちっとも嬉しそうには見えなかった。
それはクラリッサを大切にしていないからなのだ。
その事実がクラリッサの胸の中で冷たく固まっていく。
「クラリッサ嬢、顔色が悪い。よければ、静かな場所でお休みになりませんか?」
そう言って、ダンスのときと同じように手を差し出すレオン。
二人きりになれる個室への扉が視界の端に見える。
以前は、クラリッサが拒絶した誘いだ。
けれど、レオンはそれを強制しなかった。
今回もクラリッサが嫌だと言えば、間違いなくレオンはそれを認めてくれるだろう。
その安心感が。
個室への扉の先に、安心できる場所があるのだと、クラリッサに思わせた。
「……でしたら、少しだけ。休んで、お話しましょうか」
クラリッサがそっと手を重ねると、レオンの唇に満足げな笑みが浮かんだ。
そしてクラリッサは自らの足で、喧騒から離れた個室へと歩みを進めていくのだった。
この日クラリッサは、少し飲み過ぎたと伝言を残し、アルブレヒトの商談が終わるのを待たずに、一人で帰った。




