それだけのこと
アルブレヒトはクラリッサとの婚約成立後、夜会への出席を増やしたようだった。
ひとつには、夜会が好きだと言った若い婚約者への配慮もあったのかもしれない。
ただ、出席するからには仕事に有益なものにしたいという欲もまた存在した。
「クラリッサ嬢、今夜も仕事上の挨拶と商談がございますので、私は席を外させていただく予定ですが、問題ありませんか?」
「はい、アルブレヒト様。最初は少し不安でしたが、知人も増えましたし、問題ないかと思います。どうぞお気をつけていってらっしゃいませ」
アルブレヒトはクラリッサの返答に満足そうに頷いた。
「では、そうさせていただきます。今夜も自由に夜会を楽しんでくださいね」
「ありがとうございます」
礼を言って、微笑みでアルブレヒトを見送った。
こうして夜会に出席し、入場と同時に別行動をし、アルブレヒトの用事が終わったら合流して帰る。
それがここ最近の夜会である程度固まった二人の行動だった。
アルブレヒトに社交的な方だ、と評されたときには自覚がなかったクラリッサだが、こうして複数回夜会に出席するとそのとおりかもしれない、と思う。
親しい友人たちとお喋りをするのも楽しいが、あまり親しくない人たちとダンスをしたり、会話をしたりといったことをクラリッサは楽しんでいた。
アルブレヒトが自由に楽しんで良い、と言ってくれているのもあるだろう。
十六歳年上の三十三歳の婚約者ではあるが、楽しいことを自由にやらせてくれる、という点ではこの人でよかったかもしれない、と最近ではクラリッサは考えていた。
「クラリッサ様ではありませんか。今夜もお会いできて本当に嬉しい」
声をかけてきたのは、ハルデン伯爵家長男のエドガーだった。
以前の夜会で知り合ってから、何度か会ううちにすっかり親しくなっていた。
「エドガー様」
「今日の夜会に出席すれば、あなたに会えるのではないかと考えていたのです」
「そのように仰っていただけて嬉しいですわ」
「今夜も、僕と踊っていただけますか?」
熱のこもった視線に射抜かれ、差し出された手を取ったクラリッサは音楽に合わせてステップを踏む。
胸に温かい気持ちがあふれてくる。その熱は、クラリッサにどこか懐かしいものを思い出させていた。
「あなたとこうして踊っていると、ときが経つのを忘れてしまいそうだ」
「まあ……エドガー様ったら、お上手ですね」
頬をほんのりと赤く染めて小さく笑うクラリッサと、彼女を慈しむように見つめ返しながら微笑むエドガー。
一曲が終わり、喉を潤すためにグラスを手にして会話を交わす間も、二人の空気には確かな熱量が含まれている。
誰かに強く求められている、という熱量は。
徐々にクラリッサの中にあった冷たさをとかしていったのかもしれなかった。
エドガーと楽しそうに微笑み合い、熱のこもった視線を交わすクラリッサ。
そんな二人の姿を、会場の壁際に立つ一人の青年が、シャンパングラスを片手に興味深げに見つめていた。
レオン・ド・アルノー。
アルノー伯爵家の次男で、大変な美男子であった。
二十歳になる彼にとって、夜会はゲーム盤に似ている。
婚約者もまだ決まっていないうえ、伯爵家の次男という身軽な立場のレオンは、夜会で女性に囲まれることが多かった。
その中から相手を見繕って、一時の情を交わす。
夜会はそういう遊び場だったのだ。
遊び人として浮名を流そうが、問題なかった。
以前、情を交わした相手が責任を取れと迫ってきたことがあったが、相手が下級貴族だったため、脅し返して黙らせた。
それを悪いことだと、レオンは考えていない。
自分も楽しんだ、相手も楽しんだ。
それで終わりにするべきなのだ。
それ以上を求めてくるから話がおかしくなる。
自分ではなく相手の責任だとレオンは本気で信じていた。
ただ、面倒になるのはレオンにとっても嫌だったので、それ以降は問題になったときに黙らせることのできる相手を選んで遊んでいた。
(あの娘が、ベルクマン男爵令嬢か)
レオンはその美しい少女について多少の情報を持っていた。
彼女の婚約者がケルナー男爵であること、その年齢が三十三歳であることも知っている。
十六歳も年上の男爵は、今夜も若い婚約者を置いたまま、どこかの貴族と商談に没頭しているらしい。
(てっきり、お堅い優等生かと思っていたが……)
クラリッサの義母は、一時期寡婦の鑑として話題になったテレーゼのはずだ。
その教育もあり、クラリッサの所作は男爵令嬢とは思えぬほどに美しい。
容姿には惹かれるものがあったが、真面目な優等生では遊び相手に相応しくないと思っていた。
だが。
ハルデン伯爵家の長男と、双方に婚約者がいるとは思えない程度には近い距離で談笑している。
あの二人は決定的な一線は越えていないだろうが、互いに強く惹かれ合っているのは遠目からでもよく分かった。
(なるほど、放置されている寂しさを、同年代の男で埋めているわけだ。案外、隙だらけかもしれないな)
レオンはそう判断した。
彼の唇に、獲物を見定めた男の笑みが浮かぶ。
話も一段落したのだろう。エドガーが席を外したその絶妙な隙を狙って、レオンは滑らかな足取りでクラリッサの元へ歩み寄った。
「失礼。あまりに可憐な花が、一人で咲いているものだからつい声をかけてしまいました」
低く甘い声。振り返ったクラリッサに、レオンは芝居がかった動作でお辞儀をしてみせた。
「はじめまして、ベルクマン男爵令嬢。レオン・ド・アルノーと申します」
「……はじめまして、アルノー様」
見知らぬ見栄えのする青年の登場に、クラリッサは少し驚きながらも礼儀正しく微笑みを返した。
レオンは周囲を見渡すと、困ったように肩をすくめてみせる。
「ところで、ケルナー男爵のお姿が見えないようですが。まさか、これほど美しい婚約者を置いて、仕事のお話ですか?」
「ええ、アルブレヒト様はお忙しい方ですから。……けれど、自由に楽しんで良いと言ってくださっていますわ」
クラリッサはいつものように素直に答えた。
しかしレオンはあえて大げさに息を吐き、情けなさそうに首を振って見せた。
「自由に楽しんで、ですか。優しい言葉に聞こえますがね、私なら、君のような可憐な婚約者を一人にして仕事になんて行けないな」
「え……?」
「本当に君を大切に思っていたら、こんな華やかな場で一人になんてしませんよ。……酷い婚約者だ、放置されているのと同じではありませんか」
放置。酷い婚約者。
レオンの言葉が、クラリッサの胸の奥に突き刺さった。
そんなふうに考えたことはない。
夜会に連れてきてもらえている。自由に楽しませてくれている。
けれど、冷淡な方だと思ってはいたのだ。
自分とアルブレヒトの関係は、他人から見たときにそのように見えるのだろうか。
アルブレヒトは、婚約者を放置している酷い婚約者なのだろうか。
「酷い男のことは忘れて、私と一曲踊っていただけませんか? 君を退屈させないと誓いますよ」
差し出された手。
クラリッサはまだ少し戸惑いながらも、その手を取った。
ぐい、と力強く手を引かれる。
エドガーの不器用さを含んだものとは違う、女性を扱い慣れたレオンの滑らかなエスコート。
ダンスの最中も、彼は甘い言葉でクラリッサの自尊心をくすぐり続けた。
やがて一曲が終わり、少し呼吸を乱すクラリッサの耳元へ、レオンが顔を近づけて囁いた。
「少し疲れたでしょう? あちらの個室で、二人でゆっくり休まないかい?」
甘い誘い。
クラリッサの鼓動が跳ね上がる。
だが、一瞬テレーゼの冷たい眼差しが脳裏をかすめる。
「……いいえ、せっかくのお誘いですが、申し訳ございません。ご遠慮いたしますわ」
クラリッサは背筋を伸ばし、はっきりと拒絶の言葉を口にした。
緊張の冷や汗が背中を伝う。
これでレオンが不機嫌になったり、強引に腕を掴まれたりするかもしれない。
けれどレオンはそんなクラリッサの想像とは違い、余裕に満ちた微笑みを深めた。
「おや……失礼、少々焦りすぎたようです。あなたの魅力にのぼせてしまったようだ。失礼をお許しください」
レオンは優雅に頭を下げて、あっさりと引き下がって見せた。
「また今度、お話させてくださいね」
そう言い残して去っていくレオンの背中を、クラリッサは見つめていた。
クラリッサは嫌だと言った。
レオンはクラリッサが嫌なことを強制しなかった。
起こったことは、それだけである。
だが、それだけのことが。
レオン・ド・アルノーという人間が。
クラリッサ・ド・ベルクマンという人間を認めてくれたのだと。
そんなふうにクラリッサに思わせた。




