選択肢
ベルクマン男爵家には、暗く淀んだ重い空気が充満していた。
先ほどまでヴァレーヌ侯爵家からの使者が滞在していた応接室には、呆然としているゲオルクと、うなだれているテレーゼが並んで座っている。
使者が手を付けなかった茶がそのままテーブルの上に乗っていたが、使用人も片付けようとはしない。
ただ、痛ましげにゲオルクとテレーゼを見ているだけだ。
ヴァレーヌ侯爵家からの突然の使者に驚いた夫妻だったが、ひとまずはもてなして応接室に通した。
そこで聞かされた用件は、あまりにも衝撃的なものだったのだ。
娘のクラリッサが、ヴァレーヌ侯爵令嬢の婚約者であるエドガー・ド・ハルデンと深い関係になったというのだ。
夫妻は最初、何かの間違いでは、と考えた。
クラリッサに限ってそのようなことがあるはずがないとまで思った。
しかし使者は淡々と調査報告を二人の前に提示した。
日時、場所、証言、そして使用後の部屋の状況。
すべてが生々しく、克明に記録されていた。
クラリッサの方から積極的にエドガーに誘いをかけているといった証言まであった。
どれもヴァレーヌ侯爵家による正式な調査で、疑う余地も疑問を挟む余地もないように思われた。
さらに、これは当家には直接の関係はありませんが、と前置きしたうえで、使者は別の調査報告を提示した。
そこにはレオン・ド・アルノーとクラリッサの関係についても、同様の調査結果が記されていた。
使者はまったく容赦がなかった。
ベルクマン男爵家は、ご令嬢に実に立派な教育をなさっておられるようですな。
そう言われてゲオルクは言葉もなかった。
結果、クラリッサはいま、ヴァレーヌ侯爵家に不貞の現場を押さえられたらしい。
保護しております、と言っていたが実質的には拘束されたということだ。
ヴァレーヌ侯爵令嬢が特に激怒しているらしく、こちらで処分を決める、と告げられた。
相談でも交渉でもなかった。
通告だった。
それでも何とかゲオルクは、ヴァレーヌ侯爵にどのような賠償にも応じると伝えてもらうよう使者に懇願した。
使者は用件が済むと、すぐに退出していった。
「もうし、わけ、ございません……。旦那様……」
声は、テレーゼのものだった。
ゲオルクはゆっくりと視線をテレーゼに向けた。
テレーゼが、あのいつも冷静沈着な妻が、ガタガタと震えながら大粒の涙をこぼしていた。
「私が、悪かったのだと、思います」
喉を詰まらせながらも言葉を続ける。
調査の中にはクラリッサの言葉として、家に望まない婚約を押し付けられた、家では嫌なことも嫌と言えない、といったものがあった。
クラリッサがそうやってエドガーの同情を引いて近づいた、というのだ。
「クラリッサ様が、私に、心を開いていないことには、気づいて、おりました」
それでも構わない、とテレーゼは考えていた。
クラリッサにとって母はアマーリエただひとり。
無理に近づくよりも、一定の距離感を保った方が好ましいと、テレーゼは判断していた。
だから、クラリッサとテレーゼの距離感は、家庭教師と生徒のままだった。
それがクラリッサの不満の行き場をなくし、このような結果になってしまった。
後悔してもしきれない。
ぽつぽつと、涙を流しながら自責を続けるテレーゼの肩に、年配の侍女マリーの手が添えられる。
マリーも涙を流しながら、テレーゼの涙を手に持ったハンカチで拭いた。
「いや、そんなことはない。テレーゼ、君がどんなにかクラリッサを心配してくれていたか、私だけではない。屋敷の者皆が知っていることだ」
家庭教師としてベルクマン男爵家にやってきたテレーゼは、十二歳のクラリッサを見て、本気で心配したのだ。
我慢をしない、泣いてすぐに逃げ出す、偏食も激しく、年齢相応のマナーも教養も身についていなかった。
アマーリエの愛は、本物だったと思う。
しかし彼女は、クラリッサから嫌なものをすべて遠ざけることで娘を守ろうとした。最期の瞬間までそれは変わらなかった。
それでも、アマーリエは死んでしまった。
あのときのクラリッサは十二歳。アマーリエの死後、ゲオルクも娘の教育には悩んでいたのだ。
実際、幾人かの家庭教師が手に負えないと職を辞していた。
テレーゼは本当に粘り強くクラリッサに接した。
どれだけ癇癪を起こされても、どれだけ嫌悪を向けられても、クラリッサを諦めなかった。
だから屋敷の使用人たちも、皆がクラリッサのためになると信じてそれまでの接し方を変えたのだ。
「テレーゼひとりの失敗ではない。私たちが決め、私たちがクラリッサにそうやって接してきたのだ。失敗を自分ひとりのものにしてはいけないよ」
ゲオルクの言葉に、ますます涙を溢れさせながらテレーゼが何度も頷いた。
最近のクラリッサは、明るく、楽しそうに見えていた。
ゲオルクや屋敷に古くから仕える者たちは、アマーリエが生きていた頃のような明るさを見せるクラリッサを、喜ばしく思っていたのだ。
夜会に行く前、ケルナー男爵が迎えに来るのを待つ間など、待ちきれないといった様子を隠せていなかった。
すべてが良い方向に向かっているのだと、信じていた。
けれど、大切な何かを見落としてはいたのだ。
その失敗は誰か一人だけのものではないことは間違いなかった。
「処分が決まれば、ヴァレーヌ侯爵家から少なくとももう一度は連絡が来るはずだ」
ゲオルクは自分に言い聞かせるように言った。
「その際にとにかく誠心誠意謝罪して、何とか侯爵に取り次いでいただこう」
ゲオルクはきつく両目を閉じた。
涙が二筋、頬を伝って落ちた。
「そして、どのような条件であっても、せめて、クラリッサを、帰していただけるよう……」
それ以上は言葉にならなかった。
ベルクマン男爵家の応接室には、いくつもの嗚咽の音だけが、消えることなく響き続けていた。
◇
アルブレヒトとクラリッサは、帰りの馬車に乗り込み、向かい合わせに座っていた。
走り出してしばらくすると、アルブレヒトが口を開いた。
「反省していますか?」
断罪の場を退出し、馬車に乗り込んでから、アルブレヒトはずっと無言だった。
その言葉に、クラリッサは弾かれたように視線を上げ、掠れた声で返事をした。
「は……はい」
「いまだけです」
クラリッサは何を言われたのか理解できなかった。
アルブレヒトは静かに、真っ直ぐにクラリッサを見つめている。
「その反省は、いまだけのものです。しばらくすると、あなたは思うはずです。助かった、思ったよりも軽い罰で済んだ」
アルブレヒトはよどみなく続ける。
「あなたには、選択肢があります」
アルブレヒトが何を言いたいのか、クラリッサには理解できない。
黙ったまま聞く。
「そのまま、自分のやったことは大したことではなかった。婚約者は何をやっても許してくれる。そう考え、次はもっと上手くやろう。次はバレないように気を付けよう。そうやって同じことを繰り返す道」
クラリッサは震えた。
そんなことを考えるはずがないではないか、とすら思った。
「ただこの道の先にあなたの人生の幸せがあるとは、私には思えません。他にも選択肢があります」
アルブレヒトは続ける。
「今回のことを心から反省し、考え方と行動を変えるのです。たとえ気に入らない婚約者であっても、歩み寄りを考え、協力して良い関係を築いていくのもひとつの道でしょう」
「……他にも、あるのですか」
「あります」
アルブレヒトはクラリッサの問いに明快に答えた。
「先ほど、私には婚約を破棄する意思はないと言いましたが、あなたが望めば婚約解消には応じます。ご両親を説得する手伝いもしましょう。そうして婚約を解消し、あなたの気に入る結婚相手を探すのもひとつの道です」
クラリッサにはアルブレヒトがわからなかった。
ヴァレーヌ侯爵に、アルブレヒトもクラリッサを愛しているのか、という意味の言葉をかけられていた。
それをアルブレヒトは否定しなかった。
そしてクラリッサとの婚約を破棄する考えはないのだという。
それなのに、クラリッサが婚約を解消したいと言えばそれに応じるらしい。
「……け、けれど私に次の婚約はない、と言われました」
ヴァレーヌ侯爵令嬢の言葉だった。
「そこまでは私の知ったことではありません」
沈黙。
アルブレヒトは少し不機嫌な顔で。
「失礼、少し感情的でした。まあ、あなたのご両親であれば悪いようにはしないでしょう」
「……やっぱり、怒っておられますよね」
問われたアルブレヒトは、元々不機嫌そうな顔を大きくゆがめた。
これほどまでにアルブレヒトの表情が変わることを、クラリッサは初めて知った。
「当たり前でしょう。怒っているに決まっています。婚約者が不貞を犯して怒らない男がいるとしたら、それは最初から婚約者と良い関係を築くつもりがない、好きでもなんでもない、いてもいなくても良いと思っているような男だけです」
その言葉を、クラリッサは知っていた。
私なんていてもいなくても良いと思っているのだろう、と。
あの応接室でクラリッサは感情的にアルブレヒトにぶつけたのだ。
「……ただ、今回の件は、私にも反省すべきところがありました」
「私はあなたが喜ぶと思って夜会にお連れしたのです。あなたがお一人でも楽しめる方だと考えたからお一人にしました。それをあなたが不満に思っていたとは、まったく考えていませんでした」
クラリッサは考える。
そうだったはずなのだ。夜会に行けることをクラリッサは喜んでいた。しっかり夜会を楽しんでいたはずなのだ。
それが、どこからか狂ってしまった。
「しかし、できれば不満があるなら伝えていただきたい」
「え?」
「ひとりになるのが嫌なときは嫌だと伝えていただきたい」
「嫌だと言って……いいのですか?」
「その方がありがたいですね。ただ、すべてあなたの希望を叶える、という意味ではありません。私が夜会に行く目的は商談です。そこをおろそかにはしたくありません。場合によっては、あなたに妥協をお願いすることもあるでしょう」
「……はい」
「それでも、不満を伝えていただけないことにはこちらとしても改善のしようがありません。確かに私は三十三歳で、あなたより長く生きていて、あなたより十六歳も年上だ。しかし……」
アルブレヒトは言いづらそうに。
拗ねたようにも見える表情で、続けた。
「……私にとっても、初めての婚約なのです。女性の扱いに慣れているわけでもない」
クラリッサは頷いた。
いつからか、嫌なことを嫌だと言わなくなった。
言っても意味がない、どうせ強制される、と思っていたのだ。
でも、本当に?
クラリッサは考える。
アルブレヒトとの婚約が持ち上がった際、父もテレーゼも、断っても構わない、と言ってくれていた。
クラリッサはその言葉を信じなかった。
アルブレヒトについても考えてみる。
夜会に連れて行ってくれるのは嫌でないどころか、嬉しかった。
ひとりにされるのだって、嫌ではなかったはずなのだ。
ケルナー男爵家の屋敷を好みに采配していいと任せてくれたことも嬉しかった。
そもそも、アルブレヒトに嫌だと言いたかったのに、言えなかったことなど、一度もなかった。
それなのに、アルブレヒトに嫌だと言っても聞いてもらえないと信じ込んでいた。
なにをやっているんですか、あなたは。
アルブレヒトにかけられた言葉が思い浮かぶ。
本当に、何をやっていたんだ、私は。
クラリッサは、ようやく、自分の行動を振り返り始めた。
馬車がベルクマン男爵家に到着した。
アルブレヒトは先に降りて、クラリッサにエスコートのための手を差し出した。
クラリッサはその手を支えにして、馬車から降りる。
ここに来てわきあがってくるのは、やはり恐怖だった。
怖くてたまらない。
ベルクマン男爵家に大きな迷惑をかけた自覚はある。
父も、テレーゼも、自分に大いに失望したに違いない。
アルブレヒトに手を引かれるようにして、玄関から中に入った。
玄関ホール。
ドタバタと激しい足音が響いた。
転がるようにしてやってきたのは、父のゲオルクだった。
クラリッサの姿をみとめると、ゲオルクはその場に崩れ落ちた。
次いでやって来たのはテレーゼだ。
一目でそれとわかるほど、目を泣き腫らしている。
涙もまだ止まっていない。化粧が完全に崩れている。
いつも凛として、澄ました表情のテレーゼが、ぎこちない動きでクラリッサに歩み寄る。
「ク、クラッ、クラリッサ……様、もうし、申し訳、ありません……」
言葉も礼もガタガタだった。
クラリッサには何がなんだかわからない。
崩れ落ちていたゲオルクも何とか立ち上がった。
「すまなかったっ……クラリッサ、すまなかったっ……!」
ゲオルクまで泣きながら謝り始めた。
「どうして……二人が、謝るの……」
そう言って、視線をアルブレヒトに向ける。
「私に聞かれても知りませんよ」
アルブレヒトはいつもの声音で言った。
本当に知らないのか。
あの断罪の場で、アルブレヒトは。
ヴァレーヌ侯爵の問いには答えていたのではないか。
あの言葉が、本当なのだとしたら。
……本当に、私は、何を、やって。
「ごめん、なさい」
クラリッサの口から、自然に言葉が溢れていた。
「馬鹿なことして……ごめんなさい!」
叫ぶように言って、クラリッサも声を上げて泣き始めた。
マナーも何もない、子供のような泣き叫び方だった。
ゲオルクがよろよろとクラリッサに歩み寄り。
泣き叫ぶクラリッサを抱きしめた。
テレーゼも遠慮がちに、抱き合う二人を包むように腕を回した。
クラリッサは、二人に抱きしめられながら。
泣いた。




