はじめての婚約
時代は変わりつつあった。
貴族が働くことを恥とする価値観は、すでに前時代の遺物と化して久しい。
いまは貴族が当たり前に事業を興し、繁栄と衰退とを繰り返している。
そんな中で、ケルナー男爵家は非常に勢いのある商家を運営する貴族として名声を得ていた。
当主のアルブレヒトは三十三歳。
働き手として脂がのり、しかしまだまだこれからといった年齢である。
父はアルブレヒトがまだ若い頃に没した。
男爵位を継いだアルブレヒトは商家を見事に運営し、父の頃よりも何倍も大きくした。
母はアルブレヒトが稼いだ金を使って悠々自適の生活を送っている。
いまは若い愛人を伴って国外の長期旅行に出ている。数年は帰ってこないかもしれない。
案外、帰って来たときには弟か妹を連れていたりするかもしれない、などとアルブレヒトは一度ならず思っていたが、今のところそういった知らせは届いていない。
アルブレヒトを最近悩ませているのは、自身の後継者問題である。
いまのところ健康そのもののアルブレヒトではあったが、早死にした父の例もある。
親戚の誰かから養子をとることも考えはしたが、いまひとつこれだという人間はいなかった。
そうなると、自身の子を考える必要があった。
若くして成功者として名を知られていたアルブレヒトの元には、これまで何度も縁談が持ち込まれていたし、今でも夜会に出れば女性たちに囲まれ秋波を送られることも少なくない。
ただ、これまで特定の恋人を作ったことはなかった。
女性嫌いでもなければ、結婚に忌避感があるなどということはない。
なんとなく面倒だ、というのが一番の理由だった。
自分の時間の使い道は自分で決めてきていた。
仕事は好きだったが、仕事にしか興味がないわけでもない。
休日は頻繁に劇場に足を運び、観劇や音楽鑑賞を楽しんでいた。
しかしそこに女性を伴って行こう、という気はまったく起こらなかったのだ。
せいぜい、たまに母を伴うくらいのもので、一人の方が気が楽に感じていた。
そうして気づけば婚期を逃した、と言われても仕方がない三十三歳という年齢である。
それでもアルブレヒトは自分から積極的に結婚相手を探そう、とは思っていなかった。
まあ、次に縁があったらこれまでとは違って検討してみよう、と考えていただけである。
その次の縁談が持ち込まれたのは、同じ商売仲間で、同じ男爵位であるベルクマン男爵家からであった。
「そろそろうちの娘にも婚約者を、と考えているのだがね」
商談を終え、アルブレヒトの商会の応接室でお茶を飲みながら雑談をしていると、ゲオルク・ド・ベルクマンがそのように切り出した。
「ほう」
ゲオルク・ド・ベルクマンはアルブレヒトよりも十歳程度年長だっただろうか。商売の先達であり、堅実な経営手腕で知られていた。
アルブレヒトもこれまで何度も取引をしたことがあり、有能かつ誠実な人物としてアルブレヒトの記憶に席を確保していた。
娘がいることは聞いていたが、その人柄までは知らない。
数年前には妻を亡くし、現在は再婚しているはずだ。
再婚相手は、テレーゼ・ド・ヴァルデック。
こちらは再婚時に多少話題になったのでアルブレヒトも覚えていた。
ヴァルデック子爵家へ嫁入りしていたテレーゼだったが、夫を早くに亡くし子もいない状態となってしまった。
しかしテレーゼは慌てることなく、親戚筋から養子を取ると、見事に子爵位を継がせてみせたのだ。
寡婦の鑑として、一時期大いに話題になった。
そのテレーゼは新しいヴァルデック子爵が誕生すると、自分の役割は終わったとばかりにさっさと働きに出た。
それが、ベルクマン男爵家だったはずだ。
再婚時には、才媛を射止めた男としてもベルクマン男爵は話題になった。
「お嬢様は、お幾つでしたか」
アルブレヒトが尋ねると、ゲオルクは微笑んで答える。
「うん、いま十七で、もうすぐ十八になる」
その答えを、アルブレヒトは意外に思った。
婚期を逃した女性や、テレーゼのような寡婦との縁談が持ち込まれると思っていたのだ。
しかし年齢的にどちらも考えづらい。
ベルクマン男爵であれば、問題のある娘を押し付けようと考えるような性格でもないはずだ。
疑問をそのまま伝える。
「ずいぶんお若いですね。なにも三十過ぎの男を選ばずとも、他に良いお相手がいるのではないですか?」
ゲオルクはちょっと照れたように笑って言った。
「それも考えたのだがね。娘は少しわがままなところがあって、妻とも相談したのだが、同年代の若者よりも、年上で落ち着いた男性の方が合っているように思うのだよ」
「わがまま、ですか」
「ああ、いや、もちろん度が過ぎたわがままではないんだ。妻の教育もあって最近は落ち着いているよ」
「そうですか」
「親のひいき目かもしれないが、可愛い娘だよ。数年経てばもっと美人にもなりそうだ。どうだろう、ケルナー男爵」
アルブレヒトは考える。
これまで持ち込まれた縁談は大して考えることなく断ってきた。
そして次は考えてみようと思っていたところに持ち込まれた縁談。
年齢差は気になる所だが、後継者を考えていたのだから子が望める年齢の女性との縁談は歓迎だ。
しかも、ベルクマン男爵令嬢である。
面識こそないが、有能で誠実なベルクマン男爵の娘で、才媛と名高いテレーゼの教育を受けた娘だ。
これまで持ち込まれた縁談の中でも、特に良縁であるように思えた。
「ええ、ぜひ前向きに検討したいと思います。顔合わせの場を作っていただけますか、ベルクマン男爵」
「そうか! 受けてくれるか。もちろん、早速場を作ろう。また連絡を入れるから、待っていてくれ」
ゲオルクはそう言って、残っていたお茶を飲み干して立ち上がり、アルブレヒトと握手を交わすとその場を辞した。
ゲオルクがいなくなってから、アルブレヒトはもう一度ソファに腰を下ろした。
結婚か。
人生の大きな転機である。
その大きな転機を、僅かな会話で決めてしまった。
商談であれば、即答せずに吟味したであろう。
部下からの相談であったなら、やはり即答を避けさせて相手をしっかり調べるように助言したに違いない。
常になく即答してしまった自分に思わず苦笑をもらす。
人生の転機というものは、案外こういうものかもしれないな。
そんな風に考えながら、まだ見ぬ未来の妻に思いをはせる。
妻、か。
今後の人生を共有していくことになる相手。
良い関係を築ければいい。
そう考える。後継者目当てであっても、冷え切った関係よりはよほど良いに違いなかった。
そこまで考えて。
けれど、十七歳か。
自分は三十三歳である。
その娘との年齢差より、父であるゲオルクとの年齢差の方が小さい。
案外、娘の方から断られることもあるかもしれないな。
断られても驚かないようにしよう。
そんなことまで考えてしまうアルブレヒトだった。
◇
アルブレヒト・ド・ケルナー男爵は正装を身につけ、クラリッサの前に座っていた。
やや緊張しているように見える十七歳の令嬢を観察する。
この日身につけていたのは薄い青色のドレスだった。
容姿に関してはどうやら親のひいき目ではないようだ。
十分に可愛らしく、数年後本格的に開花した際の美しさも感じられる。
「はじめまして、アルブレヒト・ド・ケルナーと申します」
「はじめまして、クラリッサ・ド・ベルクマンと申します」
そんな個性の欠片もない挨拶から始まった顔合わせは、その後もなんの個性を発揮することもなくすすんだ。
定型通りの挨拶、定型通りの質問。
アルブレヒトとしては、特に問題のない顔合わせだった。
わがままなところがあると聞いていたが、実際に顔合わせしてみると、そういった部分は感じられない。
むしろテレーゼに仕込まれたのであろう所作を美しく感じた。
教師も良かったのであろうが、本人も努力している。
アルブレヒトには、そこがまず好ましく思えた。
「クラリッサ嬢は、所作も美しいですね」
「……ありがとうございます。テレーゼさんのご指導のおかげですわ」
クラリッサの返答に少しだけ引っかかりを覚える。
テレーゼは後妻だ。年齢からいっても、クラリッサは前妻の娘だろう。
継母との関係には、複雑な思いもあるのかもしれない。
その後アルブレヒトはテレーゼの話題は避け、もっぱら父ゲオルクとの商売上の付き合いについて語った。
「夜会はお好きですか」
その話題を振った際が一番反応が強かった。
「はい、好きです。ダンスも、お喋りも、家にいるよりもずっと好きですわ」
「社交的な方なのですね」
「そう、でしょうか? 自分ではよくわかりません」
「私は仕事で夜会に出ることも多い。よろしければ、今度お連れしましょうか」
クラリッサは目を輝かせて、身を乗り出さんばかりの勢いで返事をした。
「はい、ぜひ!」
その反応を見て、アルブレヒトは誘ってみて良かったと思った。
これほど喜んでくれるなら、婚約が成立したら夜会への出席を少し増やしてもいいかもしれない。
顔合わせを終え、クラリッサに特に問題があると思わなかったアルブレヒトは、婚姻の話を進めたいとベルクマン男爵家へ返事をした。
ベルクマン男爵家からも、ぜひにとの返事があり、アルブレヒトとクラリッサの婚約は成立した。
十七歳のクラリッサにとってはもちろん、三十三歳のアルブレヒトにとっても、はじめての婚約である。




