冷たい女性
アマーリエが死んでから、ベルクマン男爵家の屋敷からはあらゆる色が消えていた。
かつて部屋を満たしていた甘い香りの香水も、焼きたてのクッキーのにおいも、母と娘の柔らかな笑い声も。
すべてが黒い喪服の生地の中に吸い込まれて消えてしまったかのようだった。
十二歳のクラリッサは、母のいない広い屋敷の中で、ただじっと息をひそめて過ごしていることが多かった。
何かをやる気力もなければ、何かを父にねだるような元気もわいてこない。
嫌なことがあっても、匿ってくれるテーブルクロスはもうどこにもない。
屋敷は冷たく、どこまでも静かだった。
その静寂が破られたのは、アマーリエの死から数か月が経った頃だった。
応接室に呼び出されたクラリッサを迎えたのは、父親のゲオルクだった。
男爵として、また商人としての仕事を抱えながら、一人娘のあまりの落胆ぶりに心を痛めていた父の顔には、濃い疲労の色が滲んでいる。
けれどその瞳には、どこか力強い決意の光が宿っていた。
「体調はどうだい」
「……特に、変わりはないわ」
「そうか。今日はね、お前に紹介したい人がいるんだ」
ゲオルクの声はいつもより少し上擦っているようにクラリッサには感じられた。
しかも父は、どことなくクラリッサと正面から目を合わせようとしない。
その態度に、クラリッサの胸の奥でかすかな警戒が生まれる。
「はい、お父さま……?」
ゲオルクが合図を送ると、応接室の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
装飾の少ない、けれど仕立ての良さはうかがえる深緑色のドレス。こちらも装飾の少ないシンプルな髪形。
そして、定規でも背中に入っているかのような美しく伸びた背筋。
アマーリエが好んでいた華やかなレースやフリルとは正反対の、凛としたたたずまい。
それがクラリッサには冷たく感じられる。
「初めまして、クラリッサ様。テレーゼ・ド・ヴァルデックと申します」
アマーリエの甘く、聞く者を安心させる声とは違う、低く落ち着いた澄んだ声だった。
テレーゼはクラリッサの前に歩み寄ると、お辞儀をした。
その一挙一動には一切の隙がなく、やはりクラリッサは冷たさを感じる。
「テレーゼ殿には、今日からお前の家庭教師としてこの屋敷に滞在していただくことになった」
ゲオルクが言葉を重ねる。
「お前ももうすぐ十三歳だ。ベルクマン男爵家の令嬢として、相応しいマナーや教養を身につけなければいけないよ。お前のためにも、私が信頼できる方にお願いしたのだ。これからは、テレーゼ殿の言うことをよく聞くのだよ」
(……この人が?)
クラリッサは息を飲んだまま、テレーゼを見上げた。
テレーゼの視線が静かにクラリッサに注がれる。
そこには悪意などは感じられなかったが、優しさや温もりも感じられない。
母なら、泣いているクラリッサを見たらすぐに抱きしめてくれた。
母なら、嫌なことからクラリッサを守ってくれた。
けれど目の前に立つこの女性は違う、とクラリッサは思ってしまう。
この人が、母のように自分を守って抱きしめてくれるとは、まったく思えなかったのだ。
(お父さまは、お母さまがいなくなったら、こんな人を連れてくるの……?)
アマーリエとの思い出で満たされていたはずの屋敷に踏み込んで来た侵入者。
クラリッサの胸の中で、冷たい恐怖と拒絶の芽が小さく顔を出していた。
姿勢を正すマナーの指導と、領地の歴史に関する課題。
アマーリエが生きていた頃なら、クラリッサが飽きればすぐに切り上げられていた退屈な時間が、もう一時間以上も続いていた。
「……テレーゼさん。今日はもう、お勉強をやめたいです」
紙の上でペンを止め、クラリッサは小さな抗議の声を上げた。
背筋を伸ばし続けるだけで、身体が痛む。
優しい母を失った胸の穴はぽっかりと開いたままで、文字を追っても、内容はちっとも頭の中には入ってこない。
「クラリッサ様、本日の課題はあと二ページ残っております」
クラリッサが座る机の横に立つテレーゼの声には、感情の起伏がない。
なんと冷たい人間なのだろう。
クラリッサはぐっと唇をかみしめ、じわじわと目に涙をためてテレーゼを見上げた。
「……背中が痛いし、お腹も空いたわ。お母さまなら、こんなとき『今日はもうおしまい』って、すぐにお紅茶とお菓子を用意してくださったわ!」
ぽろぽろと零れ落ちる涙。
アマーリエなら、絶対にこんな状態のクラリッサを放ってはおかなかった。
味方になり、優しく抱きしめ、レースのクロスをかけたテーブルの下に匿ってくれた。
けれどテレーゼは微動だにしなかった。
クラリッサの涙を見ても、少しも動揺しない。
ハンカチを差し出すことすらしない。
「お母様は、クラリッサ様をとても愛しておられたのですね」
「え……?」
予期せぬ言葉に、クラリッサは涙を浮かべたまま瞬きをした。
アマーリエを非難するような響きは、まったく感じられなかった。
「ええ、そうです! お母さまは世界で一番、私を愛してくださっていましたわ!」
しかしテレーゼはひとつ頷いただけで続ける。
「ええ。ですが、クラリッサ様。駄目なものは駄目です」
やはりこの冷徹な人は、クラリッサが泣こうが喚こうが、ひとつも心が痛まないんだ。
クラリッサはテレーゼから視線を外す。
「背中が痛い、お腹が空いた、と途中で投げ出してしまえば、将来困るのはクラリッサ様ご自身なのです。クラリッサ様は、マナーや教養だけではなく、我慢と規律も覚えねばなりません」
テレーゼは静かな動作で、机の上に置かれたペンを拾い上げると、クラリッサの細い手の中に握らせた。
「決められた課題が終わるまで、席を立つことは許しません。さあ、続けましょうか」
泣いても、訴えても、母の名前を出しても、目の前の冷たい人間には響かない。
どんなに懇願しても、決して妥協してくれない。
(この人は……私の味方じゃない。お母さまとは、全然違う……!)
クラリッサは震える手でペンを握り直し、涙で滲む紙に再び文字を書き始めた。
胸の中に、テレーゼへの激しい反発と、二度と戻らない母への切ない恋しさをたぎらせながら。
ペンを握らされ、なんとか命じられた課題を書き終えた瞬間だった。
クラリッサは「終わりました!」と叫ぶなり、椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、部屋を飛び出した。
「クラリッサ様!」
背後でテレーゼが呼びかける声を振り切って、廊下を無我夢中で走る。
涙で視界がぐにゃぐにゃに歪んでいた。
(嫌、嫌よ! あんな冷たい人、大嫌い!!)
向かったのは、アマーリエの侍女だった年配のマリーの元だった。
アマーリエがお茶会を開くとき、いつも一緒になってお菓子を余分に運んできてくれたり、雷雨の夜には明かりを手に、母の後ろからついてきてくれた優しい侍女だ。
「マリー! マリー!」
廊下で洗濯物を抱えていたマリーにしがみつき、クラリッサは声をあげて泣きじゃくった。
「あのテレーゼっていう人、すごく嫌い! お腹が空いたって言ってもお菓子もくれないの! ちっとも優しくないのよ! マリー、お父さまに言ってあの人を追い出してよ!」
アマーリエが生きていた頃なら、マリーはすぐに目じりを下げて慰めてくれた。
そしてポケットからこっそりキャンディを出して、クラリッサに与えてくれたのだ。
けれど、マリーは動かなかった。
抱きついて来るクラリッサの肩に手を置くこともなく、マリーは申し訳なさそうに目を伏せた。
「申し訳ございません、お嬢様。わたくしたちも旦那様から厳しく言い含められておりますので……」
マリーが言葉にしたのはそれだけだった。
そして、マリーの手がそっとクラリッサの身体を押し返す。
拒絶された。あの優しかったマリーに。
クラリッサは弾かれたように後ずさりし、今度は父ゲオルクが仕事をしているはずの部屋を目指して、無我夢中で階段を駆け上がった。
ノックもそこそこに部屋の扉を押し開ける。
デスクで書類を検分していたゲオルクが、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした娘を見て、驚いたように立ち上がった。
「クラリッサ……? どうしたというんだ、そんな顔をして」
「お父さま! あの人を追い出して! テレーゼっていう人!」
クラリッサは必死に訴えかけた。
「私、背中が痛くて、お腹も空いていたのよ! なのにあの人、お茶もさせてくれないの! お母さまなら許してくれたのに、私をいじめるの! お父さまお願い、あんな人もう嫌よ!」
ゲオルクの顔に、一瞬だけ痛ましげな色が走った。
泣き叫ぶ娘を抱きしめてやりたい衝動が猛烈にわきあがってくる。
しかしゲオルクは、その衝動を胸の奥に押し込み、クラリッサの傍らに片膝をついて、頭を撫でた。
「……クラリッサ、厳しくとも、テレーゼ殿はクラリッサのことを思っているんだよ」
「お父さま……?」
「お前も、もうすぐ十三歳だ。いつまでも幼子のように泣いてわがままを言っていれば、恥をかくのはクラリッサ自身なのだ。これからはテレーゼ殿の言うことをよく聞いて、我慢することを覚えなさい」
「や……嫌! お父さままでそんなこと言うなんて嫌よ!」
「いい加減にしなさい!」
ゲオルクの一喝が部屋に響き渡った。
父に本気で怒鳴られたことなど、一度もなかったクラリッサはびくっと肩を跳ね上げて、言葉を失った。
「課題が終わったのなら、部屋に戻りなさい。甘いものばかりを食べていては身体にも悪い。間食は控えて、夕食の時間を待ちなさい」
父の瞳には、母とともにクラリッサを慈しんでくれた優しさはなかった。
あるのは、テレーゼと同じような冷たさだけだと、クラリッサは思った。
どうやって自分の部屋まで戻ったのか、覚えていなかった。
部屋のベッドに突っ伏し、クラリッサは声を殺して泣いた。
マリーも、お父さまも、屋敷の誰もが。
みんな、あの優しかった母とは正反対の冷たい女の手先になってしまったのだ。
(お母さま……お母さま……!)
アマーリエが死んだとたん、世界中の誰も自分の味方ではなくなった。
誰一人として、自分の味方をしてくれない。
ベッドの上で丸くなりながら、十二歳のクラリッサは、冷たく暗い孤独のどん底へと沈んでいったのだった。
季節が一回りする頃には、ベルクマン男爵家から荒んだ雰囲気はそぎ落とされつつあった。
整然と並べられた調度品、定刻通りに運ばれる食事。
そして何より。
洗練されたマナーでナイフとフォークを動かす、十三歳のクラリッサの姿。
泣けば通ると思っていた少女はもういなかった。
誰も助けてはくれない。
そのことを理解したクラリッサは我慢を覚えた。
感情を抑える術も身につけた。
偏食も徐々にだが直り、間食の回数も減った。
マナーと教養も、笑われない程度には上達していた。
けれど。
心の中に空いた穴は、塞がるどころか固く冷たい氷で満たされている。
クラリッサはそんな気持ちを抱いたままだった。
そんなある日の食卓で、父ゲオルクがどこか探るような視線をクラリッサに向けた。
「クラリッサ、テレーゼ殿との生活には、もうすっかり慣れたようだね」
「ええ、お父様。テレーゼさんのご指導のおかげですわ」
平坦な声で答え、クラリッサは淡々とスープを口に運んだ。
野菜が多い。クラリッサが好きな味ではなかった。
しかしそれを訴えたところでどうにもならないことを、この一年でクラリッサは学んでいた。
「……実はね、クラリッサ。私とテレーゼ殿は、近いうちに正式な縁を結ぶことになった」
カチャン、と。
クラリッサの手の中で銀のスプーンが皿の縁とぶつかり小さな音を立てた。
「……再婚、なさるのですか」
「そうだ。テレーゼ殿はベルクマン男爵家の女主人として不足のない、素晴らしい女性だ。これからも、我が家を支えてくれることになったのだよ」
ゲオルクはどこか晴れやかな笑みを浮かべて言った。
「今後はクラリッサにとっても母となる。だから、クラリッサもテレーゼ殿を母と思ってほしいんだ」
……母?
その言葉が耳に届いた瞬間、クラリッサの胸の奥が激しく波立った。
(お母様……? あの冷たい人が……?)
脳裏に蘇るのは、自分を抱きしめ、優しく微笑んでくれたアマーリエの姿だ。
レースのテーブルクロスの下、甘い香水のにおい、雷の夜の温もり。
あんなに温かくて、自分を世界で一番愛してくれた人の席に、あの規律と我慢を強いる冷たい女性が座るというのか。
「……嫌です」
「クラリッサ?」
「嫌ですわ、お父様!」
クラリッサは立ち上がり、絞り出すように叫んだ。
「私のお母様は、亡くなったアマーリエお母様だけです! あんな冷たい人をお母様と呼ぶなんて……絶対に嫌ですわ!」
「クラリッサ! 何という無礼を……」
ゲオルクが立ち上がり、なおも言葉を続けようとしたとき。
「構いませんよ、旦那様」
静かな、澄んだ声が室内を制した。
テレーゼだった。
取り乱しかけたゲオルクを静かな視線で宥める。
「クラリッサ様にとって、お母様はアマーリエ様ただお一人。いきなり別の人間を母と思うなど、難しいことでございます」
そう言って、今度は視線をクラリッサに向ける。
「ですから、私を母と思わなくても構いません。呼び方も、今まで通りで構いません。しかし、男爵家として後妻を迎える、という方針は受け入れなければいけませんよ」
クラリッサは溢れそうになる涙を必死にこらえながら、テレーゼを睨みつけた。
怒って拒んでも、また無理やり言うことをきかされ、母の席まで奪われると思っていたのだ。
ところが、テレーゼはそこには踏み込もうとしなかった。
「……わかりました、テレーゼさん」
クラリッサは背筋を伸ばし、テレーゼに習ったお辞儀をして見せた。
「これからもよろしくお願いいたします」
「ええ。こちらこそ、クラリッサ様」
テレーゼもまた笑顔ひとつ見せず、静かに頷いた。
義母と娘ではない。
家庭教師と生徒の延長線上にある、どこか冷ややかでお互いに踏み込まない関係。
そんな一線が引かれたまま、ベルクマン男爵家の新しい日常が始まろうとしていた。




