クラリッサの世界
そこはクラリッサの世界だった。
お茶会用の小さな丸テーブル。
母のアマーリエが魔法をかけるのだ。
「さあ、クララ。いらっしゃい」
アマーリエがそう言って、小さな丸テーブルには大きすぎる白いレースのテーブルクロスをかける。
クラリッサはテーブルの下に潜り込む。
少しだけ開けたテーブルクロスの隙間から見える位置にアマーリエが座る。
そうして、二人だけの秘密のお茶会が始まるのだ。
「クララ、難しい顔をしてどうしたの?」
アマーリエが優しく聞く。
「あのね、お母さま。先生が意地悪なの」
「そうなの?」
「そうなの! あのね、ちょっと間違えただけなの! それなのに先生ったら、私を注意するのよ」
「それは悲しかったわね。でもね、可愛いクララ。あなたにはそんな顔は似合わないわ。さあ、美味しいクッキーを食べて機嫌を直してちょうだい」
そう言ってアマーリエが一つ摘まんで口元に差し出したクッキーを、クラリッサはぱくりと食べる。
さくりと口の中で砕けて甘い味が広がった。
「美味しい!」
クラリッサの笑顔を見て、アマーリエが優しく微笑む。
「ねえ、お母さま! 私もっと欲しいわ!」
「ええ、もちろん」
そう言って、アマーリエは今度はクッキーを半分に割った。
「ねえ、クララ。お母様にも半分くれる?」
「うん! いいよ、美味しいクッキー、半分お母さまにあげる!」
「ありがとう、クララは本当に優しい子ね」
半分に割ったクッキーを食べる。
大きさが半分になったクッキーが、クラリッサにはさっき食べたものよりも美味しく感じられた。
母の手から伝わる温もり。
クッキーの甘さ。
それらが、テーブルクロス一枚を隔てた向こう側のすべての嫌なものからクラリッサを守ってくれたのだ。
激しい嵐が街を襲ったある夜のことだった。
窓ガラスをたたく雨音。
雷鳴が轟くたびに、暗い寝室の天井に白い光が一瞬だけ差し込む。
十二歳のクラリッサは、毛布を頭から被って震えていた。
耳をふさいでも、鳴り響く不気味な轟音は消えてくれない。
怖くて、恐ろしかった。
心の中で助けを求めた、そのとき。
「クララ、大丈夫?」
かすかな衣擦れの音とともに、クラリッサの部屋の空気が揺れた。
毛布をそっと持ち上げたのは、ランプの明かりを背に負ったアマーリエだった。
「お母さま……!」
クラリッサが飛びつくようにしがみつくと、アマーリエは愛おしそうにその小さな身体を抱きとめた。
母がつけていた甘い香水のにおいと、ぬくもり。
それだけで、あれほど恐ろしかった雷鳴と雨音が、ふっと遠のいていくようだった。
「大丈夫よ、クララ。何も怖がることはないわ。お母様が守ってあげますからね」
アマーリエはそう言ってクラリッサの背中を優しく撫でて、耳元でそっと囁いたのだ。
クラリッサは何よりも安心した。
暗闇の中で、母の胸の中だけが、世界で一番安全で温かい場所だった。
どんな嫌なことも、恐ろしいことも、母がすべて遠ざけてくれる。
クラリッサは母の腕の中で、安らかな眠りにつくのだった。
けれど。
母とクラリッサがどんなに願っても遠ざけられないものがあった。
季節がひとつ巡った頃、アマーリエは病に倒れたのだ。
クラリッサを抱きしめてくれた温かな腕は日に日に細くなり、白いシーツと同化していくかのように青白くなっていく。
「お母さま……?」
不安に押し潰されそうになりながら、クラリッサはベッドの脇で母の細くなった手を握りしめた。
意地悪な家庭教師に注意されたときよりもずっと嫌で、雷におびえた夜よりもずっと不安で、胸が張り裂けそうなほど恐ろしかった。
クラリッサは縋るような目で母を見つめた。
「お母さま、大丈夫だよね……?」
大人とはいえ、病魔に侵され、アマーリエ自身も不安に苛まれていた。
それでも彼女は母親だった。
弱々しく、けれどどこまでも愛おしそうに目を細めて微笑むと、クラリッサの手を握り返した。
「そんな顔をしないで、クララ。……大丈夫よ」
しかしその声はどうしようもなく掠れていた。
クラリッサは母の手を握りしめたまま、泣いた。
そして、アマーリエは初めてクラリッサのやることを禁止した。
自身の病が快方に向かうまでは、クラリッサが会いに来ても部屋に入れてはならないと、使用人たちに指示を出したのだ。
本当のことなど教えなくていい。ただ、クラリッサの不安を取り除いてあげたい、笑っていてほしい。
アマーリエの瞳に宿っていたのは、純粋な愛情だけだった。
しかし、その愛情が正しく報われることはなかった。
冷たくなった母の頬。
黒い衣装を纏った大人たちが交わす、重苦しい囁き声。
葬儀の日に飾られた大量の白い花は、テーブルに被せられた白いレースのテーブルクロスに少し似ていた。
けれど、もうテーブルの下に潜り込んでも、母が魔法をかけてくれることはない。
クッキーを分け合うことも、笑いあうこともない。
クラリッサはただ茫然と、世界の崩壊を見ていた。
(お母さま……守ってくれるって、言ったのに……)
守ってくれると言った母は、クラリッサを置いて行ってしまった。
世界で一番安全だった場所が、跡形もなく崩れ去ってゆく。
クラリッサの世界から光と温かさが永遠に消え失せ、クラリッサだけが冷たい暗闇に取り残された。
十二歳の少女の心は、そう感じていた。
そして。
すべてを失い、途方に暮れていたクラリッサの前に、その女性は現れるのだ。
完結まで予約投稿済みです。
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