番外編 恋愛初心者ケルナー男爵の奮闘 (三)
クラリッサとの婚約継続を互いに確かめ合い、しばらく経ったある日。
アルブレヒトはいつものように仕事を終えてケルナー男爵家の屋敷に帰って来た。
出迎えた使用人がアルブレヒトに報告をする。
「ヘルミーネ様がお戻りになっています」
ヘルミーネ・ド・ケルナー。
ケルナー元男爵夫人で、アルブレヒトの母である。現在五十二歳だ。
特にしっかりした予定も決めず長期の国外旅行を楽しんでいて、アルブレヒトも一年以上会っていなかった。
アルブレヒトは母のことに関しては特に心配もしていなかった。
飽きるか、気が向いたらふらりと帰ってくる。そういう母だと思っていたし、実際にその通りだった。
そうか、と返事をしたアルブレヒトは特に優先して母に会うようなこともせず、普段通り自室に戻り、普段通り着替えて、普段通りのんびりしてから、普段とは異なり食堂に向かった。
いつもは食事は自室でとることが多い。だが、母が戻ってきているのならば食堂だろうと考えたのだ。
食堂に入ると、すでにヘルミーネが待っていた。
一年以上ぶりに見る母は特に変わっていないように見えた。
五十二歳……そろそろ五十三歳になるのだったか、年齢よりかなり若く見える。
アルブレヒトの姉だ、と知らない人に紹介しても通用する程度には若々しい。
「お久しぶりです、母上。ご旅行はいかがでしたか」
「良かったわよ、今回は音楽の街って言われてるところに長くいたんだけど、毎日のようにあちこちで演奏会があって退屈しなかったわ」
「そうですか、それはなによりです」
それだけで、一年以上の断絶は埋まる。
軽く雑談しながら食事をとったところでヘルミーネが聞いてきた。
「ところで、ずいぶん屋敷が変わったわね」
「そうですか?」
「カーテンの色も、玄関周りの内装も、食堂のテーブルクロスも変わってる。なに、急に趣味でも変わったの? それとも新しい取引先から仕入れたとか?」
「どちらでもありません。婚約者ができたんですよ」
「へえー」
ヘルミーネは特に驚いた様子もなかった。
「もしかして誰かから聞いていましたか?」
「いま初めて聞いたけど」
「そうですか」
「なに、驚いてほしかったの?」
「いえ。そういうわけではありませんが」
「それにしてもずいぶん遅かったわね。三十四歳だっけ?」
「ええ、なってしまいましたね」
「まあ、遅すぎるってこともないでしょう」
「そうですね」
「それで、内装はその婚約者の好みってわけね」
「ええ、屋敷に関しては好きなように采配して構わないと伝えてありますので」
「薄めの、明るい系の色がお好きな方なのね」
「はい?」
「だから、色。カーテンとか、壁紙とか、そうじゃない。同じ青でも落ち着いた濃い紺に近い色ではなくて、淡い青の方が好き。レースは装飾が多めの方を好む。そうじゃないの?」
言われてアルブレヒトはクラリッサを思い浮かべる。
好きな色の話をしたことはなかった。
「そうかもしれませんね」
「そうかもしれませんね、じゃないのよ。自分の婚約者のことでしょう。ちゃんとやってるの?」
「ちゃんとやっている、とは?」
「しっかり仲を深めているのか、よ。どうせあんたのことだから、持ち込まれた縁談を受けただけでしょ。好き合って、付き合って、結婚するんじゃないんだから」
「どうせと言われると心外ですが、まあ確かに持ち込まれた縁談ですよ。ちゃんとやっていますよ、ご心配なく」
「でも好きな色は知らない」
「……好きな色を知らなくとも大きな問題はないでしょう」
「じゃあ、好きな花は? 好きな場所は? 好きな食べ物は? 好きな飲み物は?」
「そう一度に聞かれては困りますよ」
「それなら何が好きなのよ」
「夜会は好きだと言っていました。あと、恋愛劇も」
アルブレヒトの返答に、ヘルミーネはあからさまにため息をついた。
「あんたそれ、どうせ自分の好みを言ったついでに聞いただけでしょうが。夜会も、自分の商談ついでに連れて行ったら喜んでいましたとか、その程度じゃないの?」
「……まあ、否定はしませんが。夜会の方は顔合わせのときに彼女の好みを聞いたのです。好きだと言っていたから、夜会にお連れしていると言った方が自然です」
ヘルミーネはそんな息子の態度に肩をすくめて見せた。
「本当に誰に似たんだか。あんたの父親はね、商売は全然ダメだったけど、その点は情熱的だったわよ」
「そうでしたか」
「ちゃんと愛を囁いているんでしょうね。私にはあなたが必要だとか、あなたなしでは生きていけないんだとか。そういうのが大事なのよ」
「あなたなしでは生きていけない、は正確ではないでしょう。母上だって、父上が亡くなっても生きているではありませんか」
「あーやだやだ! 本当に理屈っぽいったらありゃしない。そこは私は今でも腹を立ててるの! 私を置いてさっさと死んじゃうなんて。いずれ天上で会ったら散々に文句を言ってやるつもりなんだから。そうじゃないの、女はいつだって愛を求めているの」
「それは主語を拡大しすぎでしょう。母上がそうだというのはわかりますが」
「まあ私のことはいいわ。実際どうなの、ちゃんと愛してるって伝えてるの?」
「いや、まあ、そこはまあ言葉では言わなくとも、態度で伝わるものがあるのではないかと」
「伝わってるのね?」
「……恐らく」
「はああああああ? あんたね、結婚は商売じゃないのよ、察してくださいでどうにかなると思ってるの? もしかして、恋人にまで商売相手と同じような対応をしてるんじゃないでしょうね?」
答えられない息子に、ヘルミーネは呆れたような表情になった。
「知らないわよ、浮気されても」
「えっ」
「私だったらあんたみたいな男捨てて、情熱的に口説いてくれる男のところに行くわ」
「それは……ちょっと言い過ぎでしょう。彼女にも失礼です」
ヘルミーネは少し考えて、確かにそうね悪かったわ。と言って椅子に座る姿勢を正した。
「それで、どんな人なの?」
「ベルクマン男爵令嬢です、クラリッサ様と仰います」
ベルクマン男爵令嬢、と口中で呟きながら、ヘルミーネが記憶をたどるように考える。
「ああ、確か、アマーリエ様のお嬢様ね」
「ご存じでしたか」
「いいえ、名前も今知ったわ。アマーリエ様とも、二度か三度顔を合わせたことがある程度よ。早くに亡くなってしまわれたのだけど、妖精のように可愛らしい方で有名だったわ、ベルクマン男爵とご結婚なさったときには多くの殿方が涙したものよ」
「そうなのですか」
「お嬢様はお幾つなの?」
「十八歳です」
「ずいぶん若いわね、あんたよりも十六歳も下じゃないの。何か事情でもあるの?」
「いえ、ご両親がクラリッサ嬢には年上の方が合っているとご判断されたらしく、私に縁談が回ってきたのです」
「ふーん、そう言えばベルクマン男爵は再婚なさっていたわね」
「はい」
「それで?」
「それで、とは?」
「名前と年齢以外。どんな方なの?」
アルブレヒトはクラリッサを思い浮かべながら、語る。
「そうですね……。容姿は、優れていると思います。私はアマーリエ夫人を見たことがないので、似ているかどうかは判断ができませんが」
「なるほど」
「所作も大変に美しいですよ」
「そうなの?」
「はい、これは現ベルクマン男爵夫人の教育もあってのことのようです」
「へえー」
「最近は商業の勉強にも力を入れていると聞いています。ベルクマン男爵家の事務仕事の手伝いもしているのだとか。優秀な方ですよ」
「すごいじゃない」
「そうなんですよ。それに声も美しいのです。聞き取りやすく、彼女が何を言っているのかわからないということもない」
「……」
「何度か観劇にも一緒に行ったのですが、感受性も高いのでしょうね、物語も楽しみますが登場人物たちに感情移入してより楽しんでいるように見えます」
「観劇に行ったの? 一緒に?」
「ええ」
「あんたが誘ったの?」
「ええ、誘いましたよ。そんなに不思議ですか?」
「そりゃあ意外よ。あんた母親以外の女性と観劇したことないでしょう。いつも、一人で邪魔されずに観たいのです、とか言ってたじゃない」
「それはまあ、以前はそうでしたが。婚約者なので」
「へえー」
ヘルミーネはにやにやと笑いながら息子を見ている。
「よくわかったわ」
「なにがです」
「あんたがそのクラリッサ嬢に惚れこんでいるってことをよ」
「……それは、いくらなんでも飛躍が過ぎるのではありませんか。私は母上にどのような人かを説明するために、客観的な事実をお伝えしただけですよ」
「客観的な事実」
「そうです」
「いまのが、客観的な事実なの? あんたの個人的な感想じゃなくて?」
「客観的な事実ですよ。母上も会えば同じように思うはずです」
「まあ、いいわ。逆はないの?」
「逆?」
「そう、悪いところはないの? あるでしょ、人間には欠点のひとつやふたつくらいは」
ヘルミーネの言葉に、アルブレヒトは苦々しい表情になった。
「あえて言えば、ですよ。別に私が彼女に不満を抱いているわけではなく」
「はいはい、わかったから」
「……若干、思い込みが強いところがあります。一度思い定めると修正が容易ではないところがあるかもしれません」
「なるほど」
「しかし、一切自分の考えを曲げない傲慢な方ではありません。納得すれば、自分を変えられる方です。それに、思い込みの強さは意思の強さであるとも言えます。悪く出ることもありますが、だからと言って意思を無くして誰かに従属的に生きるのは彼女には似合いません」
「それも、客観的な事実なの?」
「……私の個人的な感想です」
「そう」
ヘルミーネは笑った。
「それで? 我が家の若くて可愛くて賢くて声も綺麗で感受性と思い込みがちょっと強いお嫁さんに、私はいつ会えるの?」
「さすがに気が早いですよ。今日お戻りになるのも聞いていなかったのですから。しばらくは遠出の予定はないのですか?」
「そうね、あんたが結婚するなら、結婚式まではいようかしら。新婚の屋敷に姑がいたら息が詰まるだろうし、その後は適当に考えるわ」
「どちらかと言うと、クラリッサ嬢と良い関係を作っていただきたいところなのですが」
「ま、そこは会ってからね」
「分かりました。近いうちに機会を作りますよ」
そうしてその日の食事は終わった。
アルブレヒトは、クラリッサとヘルミーネの相性は良いのか悪いのか、判断に迷いながら、どのような形で二人を会わせるか考え始めた。
◇
クラリッサは緊張の面持ちでケルナー男爵家の応接室に入った。
国外に長期旅行に出かけていたケルナー元男爵夫人ヘルミーネ、アルブレヒトの母が帰って来たというのだ。
ケルナー男爵家に嫁ぐ予定のクラリッサとしては、当然挨拶の必要がある相手だった。
通常であれば、婚約が結ばれた段階で両親が健在であるならば、顔合わせと挨拶も同時に行われて当然だ。
アルブレヒトの父は故人であり、母は国外旅行中であることは聞いてはいたのだが、最初に婚約が結ばれてからは一年以上が経ち、正直なところ存在を忘れていた。
姑との仲は、嫁ぐ人間にとって最も気を遣うことのひとつだ。
アルブレヒトからは、悪い人間ではないから心配はないと思う、とは言われているが、さすがにそれだけで安心はできなかった。
友人たちの中には、姑との仲が良好な者、お互い割り切ってあまり干渉しない者、仲が悪いが夫は味方してくれている者、仲が悪い上に夫が姑の味方で日々鬱屈を感じている者、と様々だった。
アルブレヒトの人柄から言って、クラリッサとヘルミーネが対立したとして、片一方に肩入れするというところは想像できない。
対立理由をひとつひとつ解体して、これは妻が悪い、これは母が悪いと処理しそうだ。
もちろん最初から対立することを考えてはいけないとは思っている。
クラリッサはなんとか良い関係を作りたいと考えながら、ヘルミーネの前に立った。
「はじめまして、クラリッサ・ド・ベルクマンと申します。ケルナー男爵アルブレヒト様の婚約者でございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」
クラリッサの挨拶に、ヘルミーネはふわりと微笑んだ。
アルブレヒトの母で、説明によると五十二歳と聞いていたが、実年齢よりは確実に若く見える。
「はじめまして、ヘルミーネ・ド・ケルナーと申します。ごめんなさいね、礼法の勉強が嫌いで、大したマナーが身についていないの。お見苦しいかもしれないけれど、許してちょうだい」
いきなり予想外の言葉にクラリッサは若干驚きながらも、ヘルミーネの勧めるままに彼女の正面に座った。
アルブレヒトはクラリッサの隣に座った。
「驚いたわ、あんたの言う通りじゃない」
ヘルミーネがアルブレヒトに言う。
クラリッサには何を言っているのかわからない。
ひとまず笑顔を維持しておく。
「母上、からかうのは止めてください」
「クラリッサ様、この子があなたをどう私に紹介したか、聞いてみたい?」
問われて、驚く。
しかし、聞いてみたい。
アルブレヒトは、どのように自分を母親に説明したのだろうか。
言葉の雰囲気から悪いものではなさそうだとは感じられた。
「はい、聞いてみたいです」
「そうよね」
「止めてください」
「なによ、客観的な事実なんでしょう?」
「それは……まあ、そうなのですが」
「あんたの個人的な感想じゃないんでしょう?」
「……ええ、まあ」
「じゃあ、良いじゃない。あんたの個人的な思いをばらすようなことはいくら私だってしないわよ。でも、客観的な事実なら問題ないでしょう」
「……」
母親に言いくるめられて、アルブレヒトが黙る。
そんな様子が、クラリッサには面白く感じられた。
アルブレヒトが言い負かされるところなど初めて見た。
「この子はね、あなたのことを、若くて、可愛くて、賢くて、所作と声まで綺麗な女性だと私に言ったのよ」
今度はクラリッサが黙り込む番だった。
いくらなんでも盛り過ぎだ。
普段そんなことを考えている様子など、まったく無かったではないか。
思わず隣に座るアルブレヒトに視線を向けた。
アルブレヒトは露骨にクラリッサから視線を逸らした。
どうしよう、と混乱してしまう。
嬉しい、嬉しくてたまらない。
顔に血が集まってくるのが自覚できてしまう。
「お、恐れ入ります……」
なんとかそれだけを絞り出した。
ヘルミーネは笑っている。
「確かに若くて可愛いし、所作も声も美しいわね。賢いかどうかはわからないけど、他が合っているのだからきっとそうなんじゃないかしら」
ヘルミーネは上機嫌だ。
しかしだからこそクラリッサには違和感がある。
「それで、クラリッサ様は本当にうちの息子でいいの? あなただったら十六歳も年上の男でなくとも、他にいくらでも良縁があるでしょう。そりゃあ、アルブレヒトは商売で成功しているし、立派な息子よ。けれど、いい商売人、いい息子であってもいい夫になるとは限らないでしょう?」
その質問には、クラリッサは迷いなく答えることができた。
「はい、アルブレヒト様が良いのです。よく、考えましたから」
クラリッサの返答に、ヘルミーネは目を細めた。
「そう、それなら私から言うことはなにもないわ。アルブレヒトをよろしくね」
その言葉に無条件で頷いてしまいたくなる。
しかし、違和感はほとんど確信に変わった。
アルブレヒトは、ヘルミーネにすべてを話してはいない。
きっとクラリッサを気遣ってのことだろうとは思う。
しかし、自分はアルブレヒトの妻になるのだ。ケルナー男爵夫人になるのだ。
大切なことをアルブレヒトの母に隠したまま、その生活を始められない、とクラリッサは考えた。
「ありがとうございます。けれど、ヘルミーネ様。私からもお伝えしなければいけないことがあります。もしかしたら、今後ケルナー男爵家にご迷惑をお掛けすることがない、とは言い切れないことなのです」
ヴァレーヌ侯爵家との話し合いは終わっている。クラリッサの謹慎期間も終わった。この件は終わりとも言われている。
それでも、誰が知っているかわからない。迷惑をかけた相手は全員高位貴族だ。
今後何の問題も起こらないとは限らないのだ。
クラリッサは真っ直ぐにヘルミーネを見た。
「……そうなの?」
ヘルミーネは視線をアルブレヒトに向けた。
アルブレヒトは苦々しい表情になる。
「まあ。ただ、本当に終わった話です。今後蒸し返される可能性は低いと思います」
「クラリッサ様の言う通り、ないとは言い切れないような話なのね?」
「……はい」
アルブレヒトは隣のクラリッサに言う。
「よろしいのですか?」
「はい。ヘルミーネ様には知っておいていただくべきだと思います」
「そうですか。クラリッサ嬢がそうお考えでしたら、私は構わないと思います」
そうして、今度はヘルミーネに向けて続ける。
「母上、先に言っておきますが、私はクラリッサ嬢を妻に望んでいます」
「知ってるわよ」
そして、クラリッサは話し始める。
アルブレヒトとの縁談を父から打診されたこと。
そのとき、自分は断れないと思ったこと、どうしてそう思ったか。
夜会で出会った二人の男性のこと。
自分がどのように考え、どのように行動したのか。
その結果どうなったのか。
そのすべてを、時間をかけてヘルミーネに語って聞かせたのだった。
長い話を語り終え、クラリッサは息をついた。
「以上です。申し訳ございません、私は大変な失敗を抱えたまま、ケルナー男爵家に嫁ごうとしております。しかし、私はアルブレヒト様の妻になりたいと望んでおります。どうか、ご承知くださいませんでしょうか」
クラリッサは真っ直ぐにヘルミーネを見ている。
話の途中、アルブレヒトは一言も口を挟まなかった。
ヘルミーネは、ハンカチで目頭を押さえていた。
「クラリッサ様……」
「はい」
「辛かったわね」
話を聞いたヘルミーネの最初の言葉が、それだった。
「もしかしたら、クラリッサ様は原因をアマーリエ様か、もしくは今のご両親に求めたかもしれませんけど、どうか悪く思わないでほしいの」
「……」
「それほどまでに愛したクラリッサ様を残して命が尽きてしまったアマーリエ様は、どれほど無念だったでしょう。それは、アマーリエ様の教育は少し極端なところはあったかもしれませんが、クラリッサ様を心から愛しておられたが故のこと。生きておいででしたらきっと、少しずつやり方をお変えになったんじゃないかしら」
「そう……かも、しれません」
「いまのご両親の教育も、クラリッサ様を心から心配して、愛していたからこそのものだと、いまのクラリッサ様を見ればよくわかります。本当に立派なご両親に、愛をもって育てられたのだと、私は思うわ」
まさか、自分の不貞の話をしてこのような反応が返ってくるとは思わなかった、というのが正直な気持ちだ。
しかしいまの両親のことだけではなく、アマーリエのことまで思ってくれるヘルミーネの気持ちが、クラリッサには本当に嬉しかった。
幼いころ、すべての嫌なことから全力でクラリッサを守ってくれた優しい母。
嫌いになどなれるはずがなかった。
そうしてヘルミーネの視線が今度はアルブレヒトに向いた。
「あんた、よくやったわ。もし、婚約者を見捨てるような男に育っていたら私は育て方を間違えた、と嘆いていたわ」
「ありがとうございます、と言っていいものか迷いますね、その言い方は」
「良いのよ、あんたは私の自慢の息子よ」
「……ありがとうございます」
「クラリッサ様」
ヘルミーネの視線がクラリッサに戻る。
「はい」
「浮気はいいのよ」
「いや駄目でしょう、母上。何てことを言うのです。クラリッサ嬢が本気にしたらどうするのです」
「あんたは黙ってなさい!」
「……」
それでもアルブレヒトの厳しい視線に、ヘルミーネは言い方を変えた。
「やってしまったことは変えられないわ」
「はい」
「けれど、クラリッサ様は男を見る目を養うべきだと思うわ。熱烈な愛の言葉を伝えてくる相手だとしても、土壇場で裏切るような男は駄目よ。言葉に込められた愛が、本物なのか、中身のない空っぽのものなのか、それを見分ける力を女は持つべきなのよ。大丈夫、クラリッサ様はアマーリエ様やご両親の本物の愛をご存じですもの」
「はい……ありがとうございます」
「失敗しても、しっかり反省すればそれは経験になるわ。そんな経験が女をいい女にしていくのよ」
そう言って、ヘルミーネは茶目っ気たっぷりに笑った。
クラリッサも緊張を解いて、笑った。
「クラリッサ様は、本当に、うちの息子でいいのね?」
ヘルミーネはすでに一度した同じ質問を繰り返した。
「はい、アルブレヒト様が良いのです。よく、考えましたから」
クラリッサも同じように答えた。
ヘルミーネは口の端を上げて、アルブレヒトに言った。
「私としては、あんたの言う客観的な事実はひとつ間違っていると思うわ」
「どの部分がです」
「クラリッサ様は賢くはないんじゃないかしら」
「……」
「だって、ろくでもない男二人に裏切られたあと、よく考えて選んだのがあんたなんでしょう? しかも言わなくてもいいのに私に全部話した。賢い人間の選ぶ道じゃないわ」
クラリッサは苦笑している。
「でも、私は好きよ。クラリッサ様、アルブレヒトをよろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします。今後も色々とご指導をお願いいたします」
どうやら母と婚約者はそれなりに上手くやっていけそうだ、と胸をなでおろしながらも。
クラリッサには、できれば母からあまり学ばないでほしいかもしれない、とも思ってしまうアルブレヒトだった。




