番外編 アデライードの憤怒
ヴァレーヌ侯爵令嬢アデライードは身体を震わせていた。
恐怖によってではない。
ケルナー男爵アルブレヒトと、ベルクマン男爵令嬢クラリッサが出て行った扉を憎しみのこもった目でにらみつけたまま、怒りに身体を震わせていた。
「レオン卿、事実確認への協力に感謝する。繰り返すが、他言無用だ。もしベルクマン男爵家から何らかの連絡があった場合の対応はそちらの好きにするがいい。こちらはそのことには関知しない」
「はい、それでは失礼いたします」
そう言って、レオンも帰っていった。
「別室でハルデン伯爵が待機している。先ほどのような見苦しい言い訳ではなく、伯爵と話をしろ。伯爵には、こちらから日を改めて連絡を入れると伝えておけ」
父のヴァレーヌ侯爵がエドガーに言い、エドガーは侯爵家の男たちに囲まれて部屋を出て行った。
エドガーは最後まで言葉を発することができなかった。
ほとんどの者が退室したところで、ヴァレーヌ侯爵がアデライードに話しかける。
「すまなかったな、アデライード」
「……」
「お前の希望は、もっと厳しい罰だったのだろうが……」
そこまで父の言葉を聞いたところで、アデライードは首を横に振った。
「いいえ、お父様。私も、怒りのあまり、我を忘れておりました。侯爵家の者として、相応しくない、感情的な、言動でございました。申し訳、ございません」
アデライードの途切れ途切れの言葉に、隠しきれない憤怒が滲んでいる。
それはそうだろう、とヴァレーヌ侯爵は思う。
婚約者には裏切られ、寝取った泥棒猫を目の前にして平静でいられるような娘ではない。
ただ、親としてはエドガーに対する怒りの方が大きい。
誘惑されたからなんだと言うのか。毅然と断ればそれで済む話だ。
誘惑されたからといちいち応じていれば、身体が幾つあっても足りない。誘惑してくる女の方にまで構っていられるか、というのが本音だった。
ケルナー男爵が若者の失敗に寛容な姿勢を示してくれたことは、現実的な落としどころに着地させるきっかけとして絶妙なものだった。
裏切られた娘の気持ちを思えば、自分からは切り出しにくかった。
裏切られた当事者である彼がまず度量を示したことで、こちらもやりやすくなった。
本来であれば今日、商談の提案を受ける予定の相手だった。その約束はなくなってしまったが、ヴァレーヌ侯爵はケルナー男爵に好感を持った。
次の機会があれば、また話を聞いてやっても良いと考えている。
「お前も疲れただろう。今後について話をするのは明日にしよう。今日はもう休みなさい」
「はい、そう致します」
アデライードはきちんと一礼して、部屋を出て行った。
エドガーとの婚約については、解消で良いだろう。
娘も、あのような裏切りを受けて婚約を継続させるとは思えない。
エドガーとアデライードの婚約はかなり早くから結ばれていた。
同年代のあまりもののような男に、ヴァレーヌ侯爵令嬢を嫁がせるわけにはいかない。
吟味が必要だ。
いい男が残っているだろうか。
ヴァレーヌ侯爵は、アルブレヒトを思い浮かべていた。
彼は三十三歳か三十四歳だったはずだ。その年になっての初婚で、婚約者もベルクマン男爵令嬢が初めての相手だった。
そういう、隠れている人間を探した方が良いかもしれない、とヴァレーヌ侯爵は思った。
翌日、ヴァレーヌ侯爵の私室にアデライードがやって来た。
「お父様、昨日はお見苦しい姿をお見せして申し訳ありませんでした」
娘はすっかり自分を取り戻した様子だった。
気が強いところはあるが、本来口汚く他人を罵るような、傲慢な人間ではない。
昨日はあまりの怒りに振り回されたのだろう。そしてその怒りは正当なものだ。
「気にすることはない。それよりも、今後のことについて話したいと思うのだが、いいか?」
「はい」
「お前の次の相手については、これから探してみるつもりだ。ケルナー男爵のような男がいいのではないかと思っているのだ。ああいう理知的な人間の方が、お前との相性はいいかもしれない」
「嫌ですわ」
ヴァレーヌ侯爵の言葉に、間髪を入れずにアデライードが即答した。
思わず次の言葉が出てこないヴァレーヌ侯爵に対して、アデライードが続ける。
「私、あのような理屈っぽい方は好きではありません」
随分とはっきりしている。
もしかしたら、昨日言い負かされたことを気にしているのかもしれない。
「そうか……。では、お前はどのような男がいいのだ?」
アデライードは苦虫を嚙み潰したような表情をしている。
「……今から探しても、良縁はないのではありませんか」
「探すが」
今度は侯爵が即答する。
「そもそも、ハルデン伯爵家との婚約は、我が家に利益があるからこそ結ばれたものです。私はそのことを理解しているつもりですわ」
「それはそうだが、だからと言ってお前に無理を強いてまで欲しい利益ではない。そのようなことを気にする必要などない」
「……」
アデライードの表情がますます歪んでいく。
「お父様はお忙しい方ですから、ただでさえお手間を取らせたのです。これ以上お父様の手を煩わせるわけには」
「問題ないが」
「……」
あまりにも不自然な娘の態度に、ヴァレーヌ侯爵もひとつの可能性に行き当たる。
「お前もしかして、ハルデン伯爵家との婚約を継続したいのか?」
アデライードは弾かれたように顔を上げて、猛然と抗議の声を上げる。
「そんなわけありませんでしょう!? このような仕打ちを受けてそのようなこと、あるわけがありませんわ!」
「そうだな」
「あのような裏切り、私は腹立たしくて仕方がありません!」
「では、婚約は解消で良いのだな?」
「……」
アデライードはもごもごと口を動かしている。
「そうは言いましても、総合的に考えましてそれが妥当かどうかはまだ判断が難しいと申しますか……」
「総合的に考えて?」
「総合的に考えて、です」
「……」
赤い顔で黙り込んでしまった娘を見ながら、ヴァレーヌ侯爵は考えを整理する。
「……まあ、すぐに結論を出さずとも良いが」
「そうですか」
即答が返ってきた。
「とりあえずハルデン伯爵家との婚約については、保留ということでいいのか?」
「はい」
「……」
ヴァレーヌ侯爵が絶句していると、アデライードはさっさとヴァレーヌ侯爵の私室から退出してしまった。
前日のケルナー男爵の態度を思い出す。
彼は、部外者に自分の婚約をどうするか勝手に決められることに対して、抗議の声を上げていた。
ヴァレーヌ侯爵はそれを、裏切られて尚、婚約者を愛しているのだろうと思った。
物好きな男だ、とは思ったが、好感も持ったのだ。
アデライードの態度に驚きつつも、一方で納得させられる部分もあった。
なぜアデライードが、あれほどまでに我を忘れて他人を罵り、破滅させるほどの復讐をぶつけようとしたのか。
普段の彼女であれば、多少腹が立った程度ではそこまでにはならない。
自分の婚約者の責任についても、考えるはずだ。
それを忘れるほどの憤怒。
なるほど、自分のものを横からさらっていった泥棒猫に対する怒りは、理屈ではないのだろう。
もしそうなら、エドガーの性根を叩きなおす必要がある。
ヴァレーヌ侯爵は、新しい婚約者探しとはまた別の悩みを抱えることになったのだった。
◇
エドガーは、父であるハルデン伯爵に連れられて、ヴァレーヌ侯爵家に来ていた。
自らの不貞が発覚した日から、四か月が経っている。
アデライードとは、あの日以来一度も会っていなかった。
ヴァレーヌ侯爵家の応接室に通され、しかしソファに腰掛けることはせず、親子で立ったまま待つ。
しばらくすると、ヴァレーヌ侯爵令嬢アデライードが入って来た。
アデライードはエドガーを一瞥だけすると、立ったままの二人を無視してソファに腰を下ろした。
「あ、あの、本当に、申し訳ない……」
エドガーは言葉を震わせてつっかえながらも何とか謝罪を口にした。
「そのような謝罪だけで許されるとお思いですか? あなたの軽率な行動は、私への裏切りだけに留まらず、我が侯爵家の体面に泥をぬったのですよ。到底許せるものではありませんわ」
「はい……」
「とりあえず話しにくいわ。座っていただける?」
アデライードの言葉に従って、エドガーとハルデン伯爵は身を小さくしながらソファに座った。
「私という婚約者がありながら、他の女にうつつを抜かすなど、次期伯爵としてとても相応しい行いではありませんわ」
「はい」
「その上あのような見苦しい言い訳など、何を考えておられるのか。信じられませんわ!」
「はい……」
二人そろってうなだれた。
何を言われても仕方ない、その通りだ。
「本当に汚らわしいですわ! 同じ場所にいるだけでも不快です!」
「本当に申し訳ございません……」
二人そろって頭を下げ続ける。
「こうしているだけでも不快ですから、さっさと本題に入りますわ。エドガー様と私の婚約ですが」
「……はい」
もはや、断頭台の紐が切られるのを待つばかりだ、とエドガーは覚悟した。
「当面継続することになりました」
「はい?」
「用件はそれだけですわ、本当に顔を見るだけでも不快です! 私はこれで失礼いたします!」
アデライードは本当にそれだけを言うと、さっさと部屋から出て行ってしまった。
応接室に取り残されたエドガーとハルデン伯爵。
「なんで?」
ハルデン伯爵が呟くように言った。
エドガーにわかるはずもなかった。
◇
「ケルナー男爵が結婚されるそうよ」
アデライードは、自室で侍女に言った。
「そのようですね」
アデライードは優雅な手つきでティーカップを口に運び、一口飲んで続ける。
「しかも、相手はあの女なのだとか」
「ベルクマン男爵令嬢ですか」
侍女が言うと、アデライードは手に持ったティーカップを置いた。
小さくカチャンという音が鳴る。
「信じられませんわ。ケルナー男爵であれば、なにもあのような相手を選ばずとも、いくらでも良いお相手がおられるはず。まったく、物好きな方がおられるものですわね」
「…………左様ですね」
言いながら、侍女は斜め下を向き、肩を震わせつつも歯を食いしばって笑いを堪えた。
同じ立場で、同じように婚約継続を選んだアデライードがどの口で言うのか、と思わざるをえない。
ケルナー男爵はどうやら結婚に至ったようだが、こちらはまだもう少し時間がかかりそうだった。
侍女としては、この意地っ張りな主人が報われてほしい、と思っている。
「どうやらお父様は結婚式に祝い花を贈られるそうですわ」
「そうですか」
「まあ、私もヴァレーヌ侯爵家の娘の義務として、祝辞のひとつでも送りましょうか。道具を出してくださる?」
「はい、かしこまりました」
アデライードは机に向かい、ペンを取った。
書くとは決めたものの、何を書けばいいのか。
あのときは申し訳ありませんでした。絶対に違う。今でもベルクマン男爵令嬢には腹を立てている。申し訳ないとは欠片も思っていない。
あなたを許します。そんなわけがないではないか。今だって許していない。
過去のことは水に流してこれからは仲良く……。いやである。仲良くなどしたくもない。
アデライードのペンは動かない。
かと言って、結婚式に呪いの言葉を送るほど自分は下品ではないし、ヴァレーヌ侯爵令嬢としての誇りが許さない。
結局迷いに迷って、アデライードはペンを走らせて文章を記した。
「まあ、こんなものでしょう」
アデライードは文章の書かれた紙を丁寧に折って、封筒に入れた。
侍女に出して貰った蝋を封印部分に垂らす。
そして。
アデライードは怒りを込めて、蝋に印を押した。




