番外編 恋愛初心者ケルナー男爵の奮闘 (一)
アルブレヒトは、クラリッサの不貞が発覚して以来となる夜会に一人で出席していた。
とても夜会を楽しむような気分にはなれていなかったが、以前から商談の予定を入れており、出席せざるをえなかったのだ。
本来であれば、クラリッサを伴って出席していたはずだ。
「おや、ケルナー男爵。今日はご自慢の婚約者はご一緒ではないのですか?」
ひとりで会場入りしたところで、早速知り合いに見つかってしまった。
「ええ、まあ……。少し事情がありまして」
アルブレヒトは言葉を濁した。
正直には、とても伝えられない。かと言って、体調不良などと嘘をつくのも違う気がする。
「はっはっは。まあ、若い娘は気まぐれなところもあるでしょうからな。あまり気を落とされますな」
アルブレヒトの様子を、約束をすっぽかされたとでも解釈したのだろうか。
肩をぽんと叩かれながらそう言われてしまった。
アルブレヒトとしては愛想笑いを返すしかない。
結局この日の夜会の目的である商談を早々に切り上げ、さっさと帰ることにした。
その短い滞在時間の中で、同じようなやり取りを三回はやることになってしまった。
そんなに、自分がクラリッサを伴わず夜会に出席することが珍しいのだろうか。
婚約成立前は普通にひとりで夜会に出席していたのだ。
元の状態に戻ったからと、そこまで目立つとはアルブレヒトは思っていなかった。
しかし、現実は会う人ほとんどにクラリッサのことを尋ねられ、精神的な疲れは非常に大きい。
夜会で女性に囲まれるのを面倒に思っていたアルブレヒトは、婚約が成立したことを積極的に伝えていた。
それを婚約者自慢と思われることは心外だ。
話題になって、問われたら正直に答えていただけだ。
クラリッサは、若く、容姿にも優れていて、マナーや礼法も素晴らしく、自主性もある。観劇が趣味のアルブレヒトにとっては、クラリッサの声も非常に美しく聞き取りやすく感じる。
客観的に見て間違いのない事実だ。自慢などしていない。
アルブレヒトは馬車に乗り込み、シャツの首元を緩めた。
ため息をつく。
自分は婚約者に裏切られたのだ。
それを、明らかに引きずっている。
商売での失敗であれば、落ち込むことはあっても切り替えるしかないと判断して、精神状態を操作できた。
それなのに、婚約者に浮気をされて裏切られたと思うと、怒りが消えない。落ち込みからも抜け出せていない。
それが自覚できる。
あの後、軽くだがベルクマン男爵にクラリッサのことを聞いた。
優しかった実母を心から慕っていたこと、その死後教育方針を変えたこと。
そして恐らく、教育方針の変更が極端すぎたこと。
ヴァレーヌ侯爵家の者からクラリッサの不貞を告げられ、彼女がいる応接室に入ったとき。
クラリッサは床に座り込んで泣いていた。
その姿に同情しないわけではない。
ベルクマン男爵家の事情も、わからないではない。
しかしだからと言って、婚約者の不貞を正当化できるわけでもないはずだ。
だいたい、ベルクマン男爵家から持ち込まれた縁談ではないか。
年上の婚約者が不満なら、最初からベルクマン男爵家の中で話をして、本人に納得させてから婚約者を決めるべきなのだ。
若い婚約者に喜んでもらおうと、夜会への出席を増やしたりしていた自分が馬鹿みたいではないか。
アルブレヒトの中の怒りは未だ消えない。
しかしそれはそれとして、あの断罪の場で、その後の人生すべてを決めてしまうような過剰な罰を与えようとは思わなかった。
本当に腹立たしい。いまになっても怒っている。
それでも、未熟ゆえの失敗で、しかも取り返しのつかない失敗でもない。
いっときの感情で決めるべきではないと考えたのだ。
おそらく、ヴァレーヌ侯爵も同じ考えだったのだろう。
侯爵令嬢が感情的になり、明らかに厳罰を望んでいたにもかかわらず、最終的にはアルブレヒトの意見を採用してくれた。
クラリッサをベルクマン男爵家に連れて帰ることができた。
それは素直に良かったと思う。
アルブレヒトが夜会に誘い、連れ出したのだ。
クラリッサをベルクマン男爵家に連れて帰るところまでは、自分の責任だろう。
これからどうするべきか。
アルブレヒトはそれを考えていた。
断罪の場で、婚約を破棄する考えがないと言ったこと、純潔を絶対視していないと言ったことは嘘ではない。
いまでも、それは変わっていない。いまでも、クラリッサは婚約者のままだ。
そのまま結婚しても構わないとは思っている。
しかし今度また同じようなことがあっては困る。
クラリッサが今後そのまま身を持ち崩すとしても、そのときは自分の婚約者であってほしくはない。
同じようなことがあって、今回と同じような断罪の場にいたとしたら、やはり同じように行動すると思うからだ。
クラリッサも、年上への不満ばかりではなく、自分の経験が彼女を不当な扱いから守ったことに、少しくらい感謝してくれてもいいではないか。
本当に腹が立つ。
まだヴァレーヌ侯爵家からの連絡が入っているかわからないが、おそらくクラリッサの謹慎期間は半年前後だろう。
エドガーの謹慎期間はそれよりは少なく四か月前後といったところだろうか。
謹慎中どう過ごすかは、さすがにベルクマン男爵家で考えることだ。アルブレヒトの関知するところではない。
問題は、婚約をどうするのか、というところだ。
アルブレヒト個人のことを言えば、早く決めてもらいたい。
次を探すにしても、今の婚約を白紙にしてから考えたい。
しかし、クラリッサにいま決めさせるのは適切とは思えなかった。
いまはまだ、クラリッサにはアルブレヒトに助けて貰った、という意識が強く残っているはずだ。
その状態で婚約はどうしたいですか、などと聞けば婚約継続を選ぶのは目に見えている。
そして、年上の婚約者への不満を内心に抱えたままの婚約に逆戻りだ。
いや、ベルクマン男爵から聞いたクラリッサの事情から考えると、助けてくれた男に依存する可能性すらありそうだ。
それは良い決断とは言えない。
アルブレヒトは今後の人生を共有する相手が欲しいのだ。
元々後継者が目的なのだから子供だって欲しい。
それなら、お互いに尊重し合える関係の方が良いに決まっている。
だからこそクラリッサとの関係をより良いものにしようと、自分なりに努力していたのだ。
アルブレヒトはため息をついた。
仕方がない。
婚約を継続するにせよ、解消するにせよ、結論を急がせない。
というよりも、急ぐべきではない。
ベルクマン男爵夫妻は、すぐに決定してしまうかもしれない。
一応、自分の意見を伝えておくべきだろうか。
そう思ったとき、馬車の車輪が石か何かを踏んだか、少し大きく揺れてアルブレヒトの思考は中断された。
◇
結局、アルブレヒトは翌日にはベルクマン男爵家を訪れた。
応接室に通され、ベルクマン男爵夫妻に迎えられる。
「ケルナー男爵、今回のこと、本当に申し訳なかった。しかも大変な失礼をしたにもかかわらず、クラリッサを救ってくださったこと、心から感謝する」
そう言って、ゲオルクとテレーゼは深々と頭を下げた。
「ヴァレーヌ侯爵家から知らせが届いたときには、もう娘に会うことは叶わぬこともあると覚悟していた。クラリッサが無事に帰って来られたのは、すべてケルナー男爵のおかげだ」
そこまで言われると、アルブレヒトとしてはくすぐったい。
自分が夜会に連れ出したのだ。無事に家に帰すのは自分の義務だろう。
「それは何よりでした。ヴァレーヌ侯爵家からはその後連絡はありましたか?」
ゲオルクは頷いた。
「クラリッサは半年の謹慎となった。どうやらあちらも婚約維持の可能性を残しているようで、賠償については保留。対外的には謹慎の理由を伏せるよう指示もあった」
「そうですか」
アルブレヒトは少し意外に思った。
クラリッサに対して最も強い敵意を向けていたヴァレーヌ侯爵令嬢を思い出す。
どちらかと言うと潔癖な人間だと思った。不貞を犯した婚約者との婚姻を望むとは思えない。何か、婚約解消できない家同士の事情でもあるのかもしれない。
だがそういうことなら、謹慎理由を伏せることも妥当だろう。クラリッサの謹慎理由から、侯爵令嬢の婚約者が不貞したところまで辿られると都合が悪い。
「それで、こちらの婚約のことなんだが」
「はい」
「クラリッサからは、ケルナー男爵は婚約解消するつもりがない、と聞いたのだが本当だろうか?」
「本当です。彼女にはそう伝えました」
ゲオルクとテレーゼが顔を見合わせる。
「それは……ありがたいとは思うが、良いのだろうか?」
「ええ、構いません。私に対しては賠償も不要です」
ゲオルクはそれ以上は重ねて問わなかった。
「では、それとは別にケルナー男爵に対して、何か報いることはできないだろうか?」
アルブレヒトは即答せず、少し考えた。
「それでしたら、お願いがあります」
そして、アルブレヒトは昨晩まとめた考えを話す。
婚約の継続、解消はクラリッサ本人に選ばせること。
結論をいますぐに求めないこと。
半年の謹慎期間後の返答で問題ないこと。
アルブレヒトの言葉を聞き、テレーゼは「そこまでクラリッサ様のことを……」とつぶやきながら涙ぐんでいる。
アルブレヒトは居心地が悪い。
「そうではないのです。婚約を続けるにしても、年上の婚約者への不満を抱え続けられては、私も不本意です。しっかり判断するための時間が必要だと考えたのです」
「そうか、ケルナー男爵、本当にありがとう。この件に関しては必ずクラリッサの意思を尊重すると約束する」
「はい、そうしてください」
そうして、アルブレヒトは帰ろうとした。
「クラリッサ様に……会っていかれますか?」
控えめにそう尋ねたのは、テレーゼだった。
アルブレヒトは、会っていこうかと思う。あの日以来、会っていない婚約者。
自分に会ったら、どんな反応をするのだろうか。
それを確かめてみたい。
しかしアルブレヒトはそんな強烈な欲求を振り切った。
「いいえ、止めておきます。謹慎中に婚約者に会うのは、やはり良くないと思います」
「そうですね。申し訳ありません、つまらないことを言いました」
そうしてアルブレヒトは、ベルクマン男爵夫妻だけではなく、使用人総出の見送りでベルクマン男爵家を辞したのだった。
◇
三か月が経った。
ここ二か月間は、アルブレヒトは一度も夜会に出席していなかった。
ヴァレーヌ侯爵家の方針が醜聞を隠す方向であることを、アルブレヒトも抵抗なく受け入れた。
外部に向けてだけではなく、自分の商会の者たちに対しても、婚約者が体調不良で臥せっているので、とても夜会に出席する気分になれない、と説明してある。
クラリッサの不貞を知っている者は、商会の従業員や屋敷の使用人たちの中でも、ごく一部だ。
もちろん厳重な緘口令をしいた。
「婚約者のご体調はいかがですか?」
「ありがとうございます。最近はずいぶん良くなったと聞いております。医者によると、もうしばらくは様子を見た方がいいようですが」
「それは何よりだ。また夜会でお会いできるのを楽しみにしていますよ」
「ええ、そのときはお願いします」
商会の応接室から取引相手が退出すると、アルブレヒトはソファに腰を下ろした。
以前の通りに戻っただけなのだが、アルブレヒトは仕事のやり辛さを感じている。
基本的に、自分の商会に来てもらうにしろ、自分で相手のところに赴くにしろ、その場合の商売は一対一だ。
だが、夜会であれば様々な人間が集まるため、思いもよらない商売の糸口や、新しい取り組みのきっかけになったりもしていたのだ。
あの頃の充実感を、アルブレヒトは忘れられないでいる。
かと言って、クラリッサが謹慎しているのに、自分だけ夜会に出ようという気にもやはりなれなかったのだ。
それがたとえ、遊びではなく仕事が目的なのだとしても。
三か月がたち、事態も色々と落ち着いていた。
クラリッサに妊娠の兆候がなかったことは、幸いだった。
これ以上話が複雑にならなくて済む。
あとは、行動に対する清算だけだ。
意外なことに、ハルデン伯爵家とヴァレーヌ侯爵家の婚約も、いまのところ解消されていないそうだ。
信頼関係を揺るがす出来事はあったが、関係は壊れなかった。
大切なのは、当人たちが結局大したことではなかったなどと思わず、きちんと反省できるかどうかだろう、とアルブレヒトは思っていたが、そこは自分の領分ではなかった。黙って見守るしかない。
クラリッサの謹慎期間もあと三か月残っている。
アルブレヒトはこれまで、一度もクラリッサに会いに行っていないし、一通の手紙も出していない。
ベルクマン男爵家への訪問も、不貞が発覚した直後に行ったきりだ。
ヴァレーヌ侯爵家からの連絡や、クラリッサが妊娠していなかったことなどの情報を共有する連絡は来ていたが、それは事務的なものだ。
いまクラリッサがどのように過ごして、どのように考えているか、アルブレヒトにはわからない。
気になって仕方がない。
婚約を継続するのか、解消するのか。
その選択肢をアルブレヒトはクラリッサに委ねた。
その判断は正しかった、と今でも思う。
三か月の間にクラリッサに対する怒りの感情はかなり薄れていた。
振り返ると、かなり手酷い裏切りを受けたように思うのだが、もしかしたら自分は怒りの感情があまり長続きしない性格なのかもしれない。
当時、怒りに身を任せた言動を取らなかったことも、いまのアルブレヒトは評価している。
たとえ婚約が解消されることになったとしても、後悔はしないだろう、と思うのだ。
クラリッサの謹慎期間が終われば、ベルクマン男爵家から婚約についての連絡が入るだろう。
自分にできることは、その連絡を待つことだけだ。
応接室のドアがノックされ、従業員が入ってくる。
仕事に関していくつか判断を求められたので、考え、指示を出した。
従業員は、礼を言って応接室から退出した。
その従業員が、他の従業員に声をかけられる。
「どうだった?」
「うん、やっぱりかなり沈んでいる様子だった」
「やっぱりよほど婚約者の方が心配なんだな」
「だと思う。最近は夜会にも出席していないみたいだし」
「男爵様、婚約が決まってからあんなに楽しそうにしてたのになあ」
「婚約者の方は若いし、命に関わるような病でなければ良いんだが」
「本当にな。男爵様も、婚約者の方も、早く元気になってほしいもんだよ」
クラリッサの謹慎期間が終わるまで、あと三か月であった。
◇
クラリッサの不貞が発覚してから半年が経った。
謹慎期間が終わるにあたって、ベルクマン男爵はヴァレーヌ侯爵あてに、改めての謝罪と謹慎期間が明ける旨の連絡を入れていた。
返信もあり、これでこの件については終わり、とのことだ。
ゲオルクは胸をなでおろした。
これから少しずつ、自分たちの生活を立て直していきたい。
謹慎が明けたお祝い、というのは違うだろうが、食卓にクラリッサの好物を並べるくらいは良いだろう。
そして、テレーゼも含めた三人でこれからのことを話す。
この半年間、何度も話してきたが、これからのことは謹慎が終わってからにしようと、極力話題を避けていた。
さて、どんなことを話そうか。
ゲオルクが考えていると、侍女のマリーがやって来た。
「旦那様、お客様がお見えです」
「はて、今日は約束はなかったはずだが。どなたかな?」
「ケルナー男爵です」
クラリッサ謹慎明け、初日のことである。




