最後の吸血鬼は、太陽を取り戻す
ジンは、光の粒となり、雪とともに混ざり合った。
その瞬間、突風が起きる。雪が舞い上がり、光の粒を運ぶ。そのまま風に流され、アイリスの氷塊の方向へと吸い込まれるように溶けて消えていった。
――ルーナーは、しばらく動けなかった。
剣を握っていた手を、力なく下ろす。凍りついた指先が、じんと痛んだ。
勝った、という実感はなかった。ただ、静かな氷の大地に、自分一人だけが立っている。それだけだった。
ジンの流した血の跡も、二人が戦った証も、降り続く雨に、少しずつ薄れていく。まるで、最初から何もなかったかのように。
生暖かい風がルーナーの頬を撫でた。降り続けていた雪がいつの間にか、冷たい雨に変わり始める。ジンが倒れた場所から、手のひらほどの赤い球体が現れ、空に呼ばれたかのように真っ直ぐ昇っていった。
ルーナーは赤い球体の動きを視線で追う。暗闇の中、光り輝いていた満月に、赤い球体が呑まれるように重なった。月の輪郭がにじんで消え、一瞬、世界が暗黒に包まれた。
暗闇の中、ルーナーはゆっくりと歩き出す。今から急いでも、サンに会うことはできないだろう。それでも無意識に、ルーナーはサンの方へ歩き出した。
雨が降り続けている。あんなに積もっていた雪原は溶け出し、ルーナーの足音を水音に変えた。
誰もいない。ジンの声も、剣の音も、もう聞こえない。
あれほど騒がしかった世界が、嘘のように静かだった。聞こえるのは、自分の足が水たまりを踏む音と、静かに落ち続ける雨粒の音だけ。
凍りついた腕が、じくじくと痛む。それでも、止まらなかった。止まる理由が、見つからなかった。
どれくらい歩いただろうか。数分か、数十分か。時間の感覚が、曖昧になっていく。ただ、サンのいる方角だけを、身体が覚えていた。
背後から、静かに、光が現れた。
光の気配に、ルーナーは足を止めた。振り返っても、まだ何も見えない。
空がどんどん白くなっている。暗闇が消え始めた。ルーナーは振り返ったまま、寝転んだ。水溜まりが倒れ込んだ身体を、濡らす。降り続ける雨は容赦なくルーナーを濡らした。白くなる空を見上げて、その美しさに、息をとめる。
ルーナーにとって生まれて初めて、太陽が空に昇る様を見られる。今まで隠れていた太陽の光を正面から浴びられるのだ。
思わず笑った。そして、スラックスのポケットから、懐中時計と、サンの絵を取り出した。
「サン、もうすぐだ」
太陽は、輝いていた。地平線を染め上げ、金色に煌めいている。そう、まるでサンの髪の毛のように。
気がついたら、雨は止んでいた。ルーナーは、サンの絵を空に掲げた。それから、そっと胸に抱きしめる。
なんて綺麗な笑顔なんだろう。何度そう思ったかわからない。太陽のように光り輝いて、青空のように清々しい。
晴れた太陽の下が、あれほど似合う子はいない。
ゆっくりと目を閉じると、色褪せることなくサンの笑顔が蘇る。
サンと出会った頃、ルーナーはゆっくりと死んでいっていた。死ぬ方法を探しては、両親を殺した太陽の下に出る勇気がなく、母親の幸せになれという言葉が呪いのように感じていた。
サンは、そんなルーナーの心の殻に無遠慮に入ってきた。初めてできた友達は、太陽にそっくりな笑顔で、ルーナーに生きる理由を少しずつ与えてくれたんだ。
出会って一時間も経たずに、吸血鬼と友達になってくれる存在なんか、この世でサンしかいない。
ルーナーは思い出したように笑う。
両親が太陽に焼かれて死んでから、ルーナーの時間も止まったままだった。それなのに、サンと過ごした時間だけは、確かに動いていた。
左手に握り込んでいた懐中時計を心臓の上に置いた。太陽と月が描かれた懐中時計。
――時計は、同じ時を刻めるようにって意味で、大切な人に贈るものなの。
母はそう言っていた。ルーナーは、母親が成人のプレゼントで、なぜこんなものを贈ったのか、サンに出会って分かった。
サンが毎日ルーナーに会いにきてくれた。欠かすことなく、毎日、彼女の人生を、成長を、ルーナーにも一緒に過ごさせてくれた。
それは、ルーナーにとって、ありえないほどの奇跡だったんだ。
「サン、サン、……きみに会いたいよ」
知らない人じゃないもん、そう言って出会い、生まれ変わっても、またルーナーを探してくれると指切りしてくれた。ルーナーの太陽は、ルーナーを殺す存在ではなく、ルーナーを幸せにするものだった。
ルーナーに名前を呼ばれることを、好きだと言ってくれた。違うんだ、サン。君に名前を呼ばれることの方が、僕は嬉しかった。それこそ泣きたくなるほどに。
ルーナーにとって、サンのためにする行動が幸せだった。食べれもしない料理を作り、サンのために野菜を育てる。生きることはこんなにも楽しいんだと、サンが全てを教えてくれた。
サンの成人のお祝いの日。
成人のお祝いをするのは初めてで、母親が用意してくれるはずだったものを、サンにプレゼントできた。ルーナーの思い出はそれだけで塗り替えられた。
蝋燭の灯りの中で、初めてサンの瞳を近くで見た。「綺麗だ」と、思わず零れた言葉に、サン自身が一番驚いていた。怖くて、嬉しくて、うまく言葉にできなかった。
ルーナーは、ゆっくりと息を吸い込んで、吐き出した。明るくなっている空から、太陽の匂いがする気がした。
太陽が、より輝きを増している。空がだんだんとサンの美しい瞳の色に近づいてきた。
「サン、きみの瞳の色を、もう一度見たいな……」
時計の音が、心臓の鼓動とともにチクタクと時を刻んでいる。規則正しい音が、指先に伝わってくる。生きている証のような、小さな鼓動。
この音だけは、灰になっても、きっと鳴り続けている気がした。
「ああ……晴れた日の空の色は、本当にサンの色だったんだね……」
空を見上げたまま、ルーナーはサンの瞳を思い出す。胸の上に置いた懐中時計を握りしめる。
母親は、ルーナーに申し訳なさそうに言っていた。息子に、人間になる選択肢を与えられなかったことを、申し訳ないと。
「違うよ、母さん。僕は最後の吸血鬼で本当に良かったと思うんだ。僕が長く生きられたから太陽に出会えた。……僕が吸血鬼だからジンから太陽を取り戻せた……」
地平線の向こうから、光の粒が溢れ出す。長い夜が終わる、その最後の瞬間だった。
太陽が、昇る。
強く輝く金色の光が空を彩った。
サンの髪の色は、ルーナーを優しく包み込む。ルーナーは不思議と痛みを感じなかった。だんだんと身体が焼かれているはずなのに、眠くなるような居心地の良さを感じた。
指先から、光が染み込んでくる。冷たかった身体が、少しずつ、温かくなっていく。まるで、誰かに抱きしめられているようだった。
凍りついていた腕から、いつの間にか痛みが消えていた。頬の傷も、光に溶けて、跡形もなくなっていく。まるで、すべての傷が、許されていくようだった。
「僕が吸血鬼に生まれた意味は、きっと……これだったんだ」
青い空が、ルーナーの視界いっぱいに広がる。美しい色に、ルーナーの赤い瞳から涙が流れ出る。
「サン、……約束したから、僕は守るよ……」
少しずつ身体が太陽の光に包まれて塵になっている。ルーナーは、瞳を閉じた。心臓の上の懐中時計は時を刻んでいる。
「次は、一緒の時を刻めるように……どうか」
もし、生まれ変わることができるなら。
その時はきっと、僕から名乗り出るよ。人間でも、吸血鬼でもなくていい。ただ、君の隣にいたい。
意識が薄れていく。ルーナーはサンの絵と懐中時計を抱えながら、満足そうに笑った。
髪が、指先が、少しずつ、光の粒に変わっていく。痛みはなかった。ただ、軽くなっていく。まるで、長い間背負っていた何かを、ようやく下ろせたようだった。
母さん、父さん、僕はやっと幸せになれた――。
最後に聞こえたのは、風の音だった。
どこか遠くで、鳥が鳴いた気がした。
風が吹く。雪原はもはやなくなり、世界が目覚めたかのように、空に虹がかかった。青空に、太陽の金色だけが、鮮やかに輝いていた。
そして、やっと、世界に太陽が戻った。




