無駄にはしない
目の前のジンの顔がぼやける。思考が遠い昔の出来事へと飛び、水に絵の具を入れたかのように、記憶が広がっていった。
そうだ、こいつは両親を見殺しにした。
記憶が蘇り、それと共に、目の前のジンの顔が鮮明になる。その顔は、助けを求めるルーナーを見下ろした時と同じ顔をしていた。ジンは、あの時と同じように、ため息のような笑いをこぼした。
「お前が生まれたから、起きた悲劇だろう?」
二人の周りには、氷の世界が広がっていた。月の光を反射して、雪が淡く光り輝いている。その雪は、ジンに触れる前に、音もなく溶けていった。背後では、アイリスの眠る氷塊が、水色の巨体を静かに抱えている。
ジンの侮蔑の混じった声が二重になる。十六歳になる直前の朝に聞いた声と、今の声が重なって、ルーナーの耳に響いた。
「人間が憎いなら、あの時なぜ動かなかった。父さんと母さんが死んだ日に、なぜ」
絞り出すような声だった。あの日から積もった恨みが、声ににじむ。
ジンは何も答えず、ただ、背後の氷塊にちらりと目を向けた。
「あの後、ステラの母親は当時の国王に殺されたらしいな。シリウスが……あの偉大な吸血鬼が無駄死にするくらいなら、国王ごと、人間どもを皆殺しにしてしまえばよかったものを」
両親を見殺しにした相手が、父の死を無駄と言った。母が命を懸けて助けた祖母も死んだらしい。祖母が殺されたことを知ったのは、ずいぶん後のことだった。時間が経っても、その事実は薄れることなく、ルーナーの心を抉った。
ルーナーは、返す言葉が見つからず、ジンからわずかに視線を逸らした。おろした手のひらを強く握りしめる。
「あの時動かなかった理由なんて一つだ。シリウスの無駄死によって、より過激になっていった人外狩りの対応に、とにかく手が回らなかった――だから言ったのに、あいつは……」
まだ子供だったルーナーは、その頃両親の死によって屋敷に籠もったままだった。両親の死後、人外に何が起きていたのか。ルーナーの知らなかった事実を、ジンは淡々と告げる。
「アイリスも種族のために、駆け回ってくれた。生まれたばかりの俺たちの子供を連れて、な」
「……子供?」
「そうだ。お前の半分にも満たなかった。人間の目に触れさせる機会を作るべきではなかったのに……」
雪と氷に囲まれた空間に、ジンの声がこだまする。
「なあ、知ってるか? お前の父親が愛した人間たちの世界では、俺たちドラゴンを狩ると英雄になれるらしい。たとえ子供でも」
「ドラゴンスレイヤーのことか?」
「俺たちは、仲間を守っていただけだ。こちらから人間を襲ったことなんて、ない」
ジンの足元で、雪が、触れる前に蒸発した。
「あの子は、まだ歩くのもおぼつかなかった。それを……」
言葉を詰まらせて、ジンは背後の氷塊を振り返った。水色の巨体は、呼吸ひとつしていなかった。眠っているとばかり思っていたアイリスは、もう二度と、目を覚まさないのだ。
「亡骸まで使って、アイリスを……。もっと早く、人間どもを滅ぼしておけばよかったんだ」
ジンの瞳には、燃えるような怒りが宿っていた。ルーナーは、何も言えなかった。目の前の男は、自分と同じ顔をしていた。人間に、大切な者を奪われた顔だ。
「太陽を奪うのに、数年かかった。あと少しだ。あと少し溜め込めば、人間どもは死ぬ」
「……それが、理由か」
「お前から始まった悲劇だ。最後まで、傍観者でいてくれ」
ルーナーは、空を見上げた。空には太陽が、ない。
月の光は人間の手によって殺されたアイリスの亡骸を照らしている。目の前のジンは、愛する者を奪われた憎しみで太陽を奪ったのだ。
「僕の両親は、僕に幸せになれと言って死んだ」
ジンは反応しない。背後の愛する存在を守るために立っている。
「お前は、僕の両親の死を無駄だと言ったね?」
空には太陽がない。それは吸血鬼にとって、喜ばしいはずのことだった。
でも。ルーナーは、息を吸う。夏のあの日に出会った太陽は、最後の吸血鬼の、全てだった。
サンは、晴れた日の空のような瞳で見つめてくれた。それだけで、自由になれた気がした。
ずっと感じられなかった人の温もりを、与えてくれた。
太陽のような笑顔で、孤独だった人生を鮮やかに照らしてくれた。
今更、太陽がない人生なんて、無意味だ。
ルーナーはゆっくりと言葉を続ける。
「無駄にはしないよ。僕は、幸せになるために、太陽を取り戻すから」
「はっ」と、ジンが短く笑った。足元の氷を握ると、その手の中で氷が伸び、一本の剣になる。
待ってて、サン。君に太陽を贈るためなら、僕はなんだってできる。
ルーナーは、氷の剣を構えたジンを、真っ直ぐに見据えた。




