夜明けの灰
母親を抱えて階段を駆け降りていたルーナーは、研究棟に誰の気配もないことに気づいて足を止めた。外に続く扉の横にある窓が赤く光っている。松明の灯りだ。
その灯りを見て初めて、ルーナーは外の異様に多い気配に気づいた。母親の安否に気を取られ、まったく気づかなかったのだ。ルーナーは、窓の横からそっと外の様子を窺う。
囲まれている。数十人、いや百は超えているであろう騎士の数に、無意識に母を抱く腕に力が入った。
しかし、おかしい。騎士たちは、こちらに背を向け、まるで外からの侵入者を警戒しているようだった。弓矢が空に向かって放たれているのを見て、ルーナーは空を見上げた。
大きな黒い翼を羽ばたかせ、赤い瞳と黒い長髪を風に靡かせている男がいた。シリウス――ルーナーの父親その人だった。
「父さん……!」
安堵のあまり、身体中に入っていた力が抜ける。あの黒い翼は、蝙蝠を使役する父が、その力を借り受けて使うものだ。風を切るように移動できるので、人間の弓矢に当たることはないだろう。
父親は弓矢を避けながらも、一向に弓を向ける騎士たちに攻撃をしない。
ルーナーは疑問に思い、母親を抱えたまま、扉を開けて外に出た。
扉を開けた途端、冷たい夜気と血の匂いが、ルーナーの頬を撫でた。松明の光の中に、騎士たちの背中が並んでいる。誰も、後ろの扉が開いたことに気づいていない。彼らの視線は、ただ空の黒い影に向けられていた。
東の空が、わずかに白んでいる。夜明けが近い。
その時、騎士たちの列が割れた。
「降りてこい、ヴァン・ルージュ」
現れたのは、金糸の刺繍が入ったマントをまとった白髪の男だった。この国の王だ。その腕には、痩せ細った女性が抱えられている。首元には、刃が押し当てられていた。
ルーナーは息を呑んだ。おそらくスピカ第三側妃――祖母だ。
初めて見る祖母の顔だった。母と同じ金髪が、乱れて頬に張りついている。生きているのか、死んでいるのかも判然としない。
「この女の首が惜しければ、地に降りろ」
空を舞っていた父が、翼を止めて宙で静止した。
「ふざけるな、その人を放せ。ステラの母親が死ねば、ステラが傷つく」
「知っている。だから人質にしているのではないか」
空中で、父の拳が固く握られているのが見えた。あの人が本気を出せば、この場の人間など、数秒で片づく。それをしないのは、目の前の男が、母の父親だからだ。
王は、東の空へ目を向けて、薄く笑った。
「夜が明けるまで、あと少しだ。それまで貴様をそこに縫い止められれば、十分よ」
最初から、これが狙いだったのだ。騎士たちを外に向けたのも、扉の前に誰もいなかったのも、父を太陽の下に引きずり出すためだ。ルーナーの腕の中で、母が身じろぎをした。
「……お母様……?」
目を開けたステラの視線が、王に抱えられた祖母を捉える。青白い顔から、さらに血の気が引いた。
「母さん、動かないで。まだ血が足りてない」
「ルーナー、離して。お母様が」
「駄目だ、罠だ!」
「わかっているわ。でも、お母様なの」
ステラは、震える手でルーナーの腕を押した。その力は弱いのに、拒めない強さがあった。止めなければ。そう思うのに、足が動かなかった。母の目が、あまりにも真っ直ぐだったからだ。
気づけば、ルーナーは母を地面に降ろしていた。彼女は、ふらつきながら、それでも背筋を伸ばして歩き出す。
「お父様」
ステラが呼んだ声に、王の眉がぴくりと動いた。
「お母様を放してください。わたしの血なら、いくらでも差し上げます。そのために、ここまで来たのですから」
「娘ではないと言ったはずだ、化け物」
「それでも、わたしのお母様です」
王が顎で合図をする。騎士が祖母を椅子に座らせ、王は一歩下がった。ステラは祖母の前に膝をつくと、自分の手首を爪で切った。溢れた血が、祖母の乾いた唇に落ちる。
誰もが、息を詰めて見ていた。
祖母の喉が、小さく動いた。土気色だった頬に、ゆっくりと赤みが差していく。
「……ステラ……?」
祖母の指が、ステラの袖を弱々しく掴んだ。
「……逃げなさい。あなただけでも……」
「お母様。もう大丈夫です」
ステラが微笑んだ。その背後に、ゆっくりと王が立った。嫌な予感がして、ルーナーは母親の元へ駆け出す。
「これで満足だろう。あとの血は私がもらう」
その言葉のあと、鈍い音がした。
ステラの背中から、剣の先が突き出ていた。間に合わなかった。王が、実の娘に刃を突き立てたのだ。
「血など、死んだあとでも搾れる」
王は、剣を引き抜きながら、冷たく言った。
「母さん!」
ルーナーが叫ぶのと、頭上で風が裂けるのは同時だった。黒い影が、一直線に落ちてくる。父は地面すれすれで翼を広げると、崩れ落ちるステラを片腕でさらい、もう片方の腕でルーナーの襟首を掴んだ。
「掴まっていろ!」
視界が、ぐんと上に引き上げられる。足元で怒号が上がった。
「射よ! 逃がすな!」
無数の弓の音が、夜を裂いた。父は身体を翻し、ルーナーとステラを胸の内に抱え込む。背中で、何かが肉に食い込む鈍い音が、何度も響いた。ステラの背中から流れる血が、ルーナーの袖をじっとりと濡らしていく。
「父さん!」
「大丈夫だ。……大丈夫」
父の声は、いつもと同じくらい穏やかだった。だが、ルーナーの頬に、温かいものがぽたりと落ちた。父の血だった。矢を受けた傷が、塞がらない。夜明けが近づき、吸血鬼の回復力が弱まっているのだ。
矢の届かない高さまで上がったとき、父の翼は、ところどころが裂けていた。
その時だった。
地平線が、金色に滲んだ。
夜の闇が、東から静かに剥がれていく。ルーナーは、頭の芯が凍るのを感じた。
「……屋敷まで、あと少しだ。屋敷に入れば、君の傷も塞がる」
父は、進路を変えた。翼を打つたび、傷から血が飛び散る。ステラが、父の胸元で目を開けた。
「シリウス……朝が」
「わかっている」
「ごめんなさい。わたしのせいで……。わたしを降ろして。あなた一人なら、まだ間に合うわ」
「君のせいじゃない。ステラ、お願いだ。おとなしくしていて」
父はステラとルーナーを、自分の身体の下に押し込むように抱え直した。最初の光が、その背中を撫でる。
じゅ、と肉の焼ける音がした。
「シリウス!」
「大丈夫だ」
「あなた、死んでしまうわ!」
「大丈夫だ、ステラ」
白い煙が、父の背中から立ち昇る。翼の先が、黒く縮れて崩れていく。父の頬に、赤い斑点が浮かんだ。それは瞬く間に水ぶくれになり、破れ、黒く変わっていく。それでも父は、翼を止めなかった。光を浴びるたびに、その顔から表情が削がれていくのに、腕の力だけは緩まなかった。
ステラが、震える手を父の背中に回そうとして、指先を焼かれて悲鳴を飲み込んだ。ルーナーは、父の胸に顔を押しつけられたまま、その鼓動を聞いていた。速く、そして少しずつ、弱くなっていく。
「ルーナー」
父が、耳元で囁いた。
「母さんを、頼む」
「嫌だ、父さん、僕も――」
「……見えた」
指の隙間から、屋敷の屋根が見えた。窓の明かりが、まだ消えずに灯っている。
庭の手前で、翼が砕けた。
浮力を失った身体が、真っ逆さまに落ちる。ステラの悲鳴が、朝の空に響いた。
背中から地面に叩きつけられた父は、それでも二人を離さなかった。腕がほどけて、ようやくルーナーは、砂利の上に投げ出される。
「シリウス! シリウス!」
ステラが、父の身体に縋りついた。父の背中は、黒く焼けただれていた。ゆっくりと、朝日が庭の端から近づいてくる。
ステラは顔を上げ、ルーナーを見た。その瞳が、すっと決意に据わる。
「ルーナー、こっちへ!」
ステラはルーナーの手を掴んで、屋敷の玄関へ走った。傷を負った身体で、それでも走った。光の縁が、二人の足元に迫っている。玄関の庇の影に、あと数歩。
ステラは、ルーナーの背を強く押した。
「母さ――」
ルーナーの身体が、影の中へ転がり込む。振り返ると、ステラは光の中に立っていた。腕が、白い煙を上げ始めている。
「ルーナー、そこから出ては駄目よ」
玄関の扉の前には、いつの間にか、ジンが立っていた。腕を組み、壁にもたれて、何も言わずにこちらを見下ろしている。
ルーナーは、その足元に縋った。
「ジン! 父さんと母さんを助けてくれ! お前ならできるだろう!」
ジンは、庭の向こうで焼かれていく父を見た。縋りつくルーナーを見た。その視線が、ほんの一瞬だけ、父の姿を追って揺れた気がした。
そして、ため息のような笑いをこぼした。
「馬鹿なやつだ。人間なんかのために、あのざまだ」
「ジン!」
「俺にはな、あんな馬鹿を救う暇なんてないんだよ」
そう言い残して、ジンは、陽炎に溶けるように姿を消した。
ルーナーは、呆然と、その場に座り込んだ。
その耳に、ステラの声が届いた。
「シリウス」
ステラは、庭の真ん中にいた。日の光の中を、一歩ずつ、父のもとへ歩いていく。もう走る力も残っていないのだろう。皮膚が焼けて、髪が煙を上げても、彼女の足は止まらなかった。
倒れた父の身体の横に、ステラは膝をついた。父は、かすかに目を開けた。
「……ステラ、なぜ来た」
「あなたを、一人にするわけないでしょう」
ステラは父の頭を膝に乗せて、その頬に手を添えた。父の唇が、わずかに笑った。
「君は、ずるいな」
「ええ。知っているでしょう」
「そうだな。長い人生の終わりに、……君と一緒に死ねるなら、幸せな最期だ……」
「そうね……愛しているわ、シリウス」
二人は、ゆっくりと顔を上げ、影の中に座り込むルーナーを見た。
ステラの口が、動いた。声は聞こえなかった。けれど、その唇の動きだけで、ルーナーには何を言っているのかわかった。
――生きて。幸せになって。
「母さん! 父さん!」
ルーナーは、影の縁まで這っていった。光の縁が、少しずつ影を削って迫ってくる。伸ばした指先に、光が触れた。焼けるような痛みに、手を引く。もう一度伸ばす。また引く。その間に、二人の輪郭は、白く、淡く、崩れていった。
最後に、ステラが、父の胸に額を寄せた。風が吹いた。
庭には、二人分の白い灰が、朝の光の中で舞い上がった。その中に、銀色に輝く懐中時計が二つ、残されていた。二つの時計は、最後まで同じ時を刻んだのだ。
ルーナーの伸ばした手は、何にも届かなかった。
ルーナーだけが、影の中に、一人残された。




