特殊間話2a ゴリ子の日常
守護神任命が決まる数日前。
五時四十分。目覚ましより先に目が覚める。十年以上続いた特技だ。
台所の照明をつけ、卵を三つ割った。だし巻きは長女、甘い方は次女。
去年までは同じ味で足りていた。上の子が「お店の味がいい」と言い出してから、フライパンが二枚になった。
三つ目の弁当箱には、昨夜の残りの筑前煮と、ピーマンとちりめんじゃこを詰めた。冷凍のから揚げは、袋ごと冷凍庫へ戻す。
前の晩、力也は義妹の配信を「暇な人間の遊び」と呼んだ。から揚げは、そういう言い方をしなかった日の献立である。
手を拭いてから、充電中のスマートフォンを起こす。
――第一層防衛、成功。防衛記録を更新。課金装備の消耗なし。
通知は三行で終わっている。梨沙は画面を送った。累積功績の伸びと、黒鉄の盾に傷がないことを確かめる。
味噌汁が煮立つ音で、指が止まった。
「おかあさん、きのう、ゴリラの人かった?」
寝癖のついた次女が、パジャマのボタンを一つずらしたまま台所を覗いた。
「勝ったわよ。顔を洗ってからいらっしゃい」
「ゴリ子は毎回勝つよ」
長女は自分の弁当を鞄へ入れ、ついでに次女の水筒とハンカチを食卓へ並べている。次女が忘れ、長女が気づいて持たせる。朝はいつもこの調子だった。
「三森ちゃん、昨日また寝てたよ」
「椅子で寝るんだよね、あの人」
娘二人の話は、朝食の間じゅう続いた。力也はネクタイを締めながら新聞アプリを開き、一度も顔を上げない。
玄関には、ゴミ袋が置かれたままだった。
「今日は当番でしょう」
「会議が早いんだ」
「ゴミ捨て場、駅へ行く途中でしょう」
力也は返事をせずに袋を持ち上げ、靴べらを探した。長女が黙ってそれを差し出す。
午前は在宅で片づけた。依頼者から届いた追加資料に付箋を貼る。笹塚家名義の不動産は、固定資産税と修繕積立の残高を年次表にまとめていく。
三森名義になった地方の家と口座は、この表に入らない。三森名義の財産が笹塚家のものと混ざっていないことだけ、年に一度確認する。それ以上は触れないと、梨沙は決めていた。
昼前に書面を事務所の共有フォルダへ送り、着替えて駅前へ出る。友人二人との昼食は月に一度。店はいつもの和食屋だ。
「うちの子、昨日もまた全滅したって」
由香がグラスを置いた。
「あのゴリラ、いい加減に弱くしてほしいわ。宿題より真剣に作戦考えてるのよ」
「ゴリラって何の話?」
麻里が箸を止める。事務所勤めの同期は、迷宮ミモリという名前すら知らなかった。
「動画で流行ってる配信。一階に化け物がいて、誰も先へ進めないの。課金で強くしてるって言われてる」
「課金じゃないわ」
梨沙は湯呑みを持ったまま続けた。
「あれ、参加した回数と滞在時間と反応が能力になる仕様なの。だから最初期からいる人ほど数字が伸びる。装備の分は別会計で、倒されるたびに三割落ちるから、お金だけでは説明がつかない。能力を下げるなら、その人が見てきた時間ごと削ることになるでしょう」
由香がまばたきをした。麻里は口元を隠している。
「梨沙、詳しくない?」
「毎月あなたの愚痴を聞いてたら、覚えるわよ」
梨沙はほうじ茶を頼み、話題を塾の夏期講習へ移した。
夕方六時半、タブレットを吊り戸棚の下へ立てかけて配信を開いた。包丁を持つ間は画面を見ない。
音だけ流していると、三森の声が聞こえた。壁を削りながら「これは遊びではない、領地の公共事業である」と言い張っている。眷属の誰かが笑った。
玉座のパイプ椅子が配信中に一度倒れ、鍋のふたを取る手が遅れた。
宿題が終わるまでは見せない。その条件は先週から変えていない。次女は音読を三回で切り上げようとして長女に指摘され、渋々四回目を読んだ。
食卓が整う頃には、姉妹が左右からタブレットを覗き込んでいる。
第一層へ冒険者が入った。次女が両手を突き上げて「いけー」と叫ぶ。長女は「今の編成だと回復役が足りない」と冷静に評した。
「箸を持ってからにしなさい」
「もう持ってる!」
次女の手には、確かに箸が一本だけ握られている。
八時半に帰宅した力也は、上着を椅子へ掛けながら画面を一瞥した。
「まだそれを見てるのか」
「今日は罠の日だから」
次女が真面目に答える。
「罠?」
「お父さん、第一層の説明からしないと分からないよ」
長女の言い方に、力也が眉を寄せた。
「だいたい、あのゴリラは運営が用意したボスなんだろう。そういうのは中の人間が回してるに決まってる」
「違うよ。領民番号一番の人だよ」
「一番なんて、どうせ関係者だ」
次女が首をかしげた。長女が「関係者は防衛に出られないって公式に書いてある」と教える。
力也は箸を止め、味噌汁の椀を持ち直した。
「三森は昔から人付き合いが下手なだけだろう。ああいうのは誰かが段取りしてやらないと続かない」
梨沙は火を弱め、菜箸を置いた。
「本人に頼まれたの?」
「……そういう話じゃない」
「そういう話です。頼まれていないなら、段取りではなく口出しでしょう」
次女が「ごはんまだ?」と割り込み、そこで途切れた。
力也は皿を運び、食後は洗い物へ回る。娘二人は配信の切り抜きを一本ずつ選び、父親の背中へ向かって解説を続けていた。
九時に次女、十時に長女、十一時過ぎに力也が寝室へ消える。食洗機の音を確かめてから、梨沙は缶チューハイを開けた。ノートPCを立ち上げる。
配信はまだ続いている。三森が第七層の掘削計画を一人で喋り、視聴者の半分は寝ているらしい。
公式HPへログインした。領民番号一番、作戦は「ガンガン行け」。
接続と同時に、コメント欄が動く。
〈防衛個体きた〉
〈こんな時間に来るなよ〉
〈三人入ってる、逃げろ〉
深夜なら手薄だと踏んだ冒険者が、三人で大扉を抜けていた。
梨沙は缶をあおる。画面の中で、ゴリ子が最短距離を歩いた。
盾役が構えるより早く、一人目が床へ沈む。二人目は横へ跳んだところを掴まれた。三人目は入口へ戻る途中で光になる。
二十秒もかかっていない。
「……見事である」
三森の声が、わずかに遅れて聞こえた。
〈ゴリ子:おつかれさまでした〉
二本目を開ける頃には、指の動きが軽くなっている。
〈ゴリ子 ¥1,000 いつもありがとうございます〉
「うむ。心遣いに感謝する」
冷蔵庫には、白ワインが半分残っていた。グラスへ注ぎ、切り抜きを流す。三森が、十二人しか見ていなかった頃の寝落ち配信を話し始めた。
〈ゴリ子 ¥5,000 あの頃も見てました〉
「待て。額が増えておらぬか」
〈ゴリ子 ¥10,000 まだ増えます〉
「もうよい! 十分である!」
〈ゴリ子:奉納です〉
〈ゴリ子酔ってない?〉
〈桁が一つずつ上がってるんだが〉
〈DMが投げ銭を止めにかかってるの初めて見た〉
三森が手数料へ抗議を始めたところで、グラスが空になった。梨沙はログアウトし、画面を閉じる。
机の端には、明日提出する書面の束が置かれている。表紙の署名欄には「弁護士 笹塚梨沙」と印字されていた。
その横の写真立て。まだ制服姿の三森が、笹塚の家族の端で目を伏せている。
写真の角度を少しだけ直してから、梨沙は缶とグラスを流しへ運んだ。
翌朝、送信履歴の三行を眺めてから、梨沙は自分の口座の残高を確認した。事務所からの報酬が入る個人名義の方で、家計の口座には触れていない。
それでも、履歴の一番下の桁は二度見る羽目になった。
から揚げは、今日も冷凍庫のままだった。筑前煮とピーマンを詰めた弁当箱の蓋を閉める。
台所へ入ってきた力也へ、梨沙はそれを差し出した。
「妹を困らせたら、次はあなたを防衛対象の外へ出しますからね」
「……防衛?」
「お弁当の話です」
力也は弁当箱を鞄へ入れ、納得のいかない顔のまま玄関へ向かった。長女が靴べらを差し出し、次女が背中へ手を振る。
梨沙はスマートフォンを伏せ、二枚目のフライパンへ卵を落とした。




