↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/62

第1話 扉が開いた

 扉が開いた。


 重い石扉の隙間から、白い光が差し込む。管理室の机に広げていた帳簿から顔を上げた。


 記憶は、そこで途切れている。


 次に目を開けた時、頭上にあったのは白く平らな天井だった。石でもなければ、魔術文字も刻まれていない。背中の下には沈み込むほど柔らかな寝台がある。


 見知らぬ部屋だと判断した。息を殺したまま、視線だけを巡らせる。人の気配はない。


 指先から順に身体を確かめていく。拘束も麻痺もない。魔力も残っていたが、以前より流れが細い。


 それ以上に気になったのは腕と手だ。掛け布から出ている手が、記憶より明らかに小さい。


「ここは……」


 高い声が出た。


 口を閉じ、もう一度だけ短く声を出す。喉に伝わる振動は自分のものだ。なのに、覚えている響きとは違う。


 胸元へ長い髪が落ちていた。掛け布をめくると、身体つきまで変わっている。


 男だったはずの自分が、若い女になっていた。


「幻術……いや、憑依か?」


 寝台を下りた途端、重心の違いによろめいた。壁へ手をつこうとする。その手が迷わず突起を上へ押した。


 部屋が明るくなった。


 自分の指を見る。今のは何だ。


 壁の突起がスイッチであることも、上へ押せば点くことも、考えてはいなかった。ただ身体が知っていた。


 部屋の隅に鏡がある。鏡という名前も、目を向けた瞬間に浮かんだ。


 映っていたのは寝癖のついた少女だった。警戒して目を細め、壁へ片手をついている。見覚えのない顔だ。そう思ったはずなのに、胸の奥では別の答えが返ってきた。


 これは自分だ。


 笹塚三森、十八歳。名前を認識した瞬間、記憶が揺れた。


 石を組んだ通路の匂いが戻ってくる。開いたままの魔術書。侵入者を数える水晶盤。命令を待って並んだ眷属たち。長い年月ぶんの光景が、一度に押し寄せた。


 そこへ重なるように、輪郭の薄い場面も浮かぶ。この部屋で目を覚ました朝。鏡の前を素通りした日。食事を机へ運び、誰とも話さずに終わった一日。窓の景色だけは、季節が変わってもほとんど動かなかった。


 二つの記憶は噛み合わなかった。別人の人生を見せられている感覚もなく、どちらを思い返しても、自分が見て、自分が選んだことだと分かる。


 ただ、釣り合っていなかった。ダンジョンマスターの年月が一度に蘇り、その重みで笹塚三森の十八年が深い場所へ押し込まれている。手を伸ばせば触れられそうなのに、必要な出来事を選んで取り出せない。


「我は……」


 鏡の中の女が口を動かす。


「私は、笹塚三森」


 名乗ってみても、声は頼りなく響いた。男の魔術師だった自分も、十八歳の女だった自分も、どうやら同じ自分らしい。理屈は分からないが、誰かの身体を奪ったわけではなさそうだ。


 そこまで確かめて、ようやく壁から手を離した。鏡の姿を受け入れられるかは、別の話だ。


 転生。記憶の再覚醒。未知の術式。呼び方を決めても安全は増えない。三森は名付けを打ち切った。確かに覚えているのは、管理室の扉が開いた瞬間まで。その後は空白のままだった。


 まず現在地を確認する。寝室を出て、家の中を歩いた。


 廊下の照明。洗面所の蛇口。台所の白く冷たい箱。名前はどれも分かるし、扱い方も、目の前にすれば身体が思い出した。それでも一つ使うたびに、術式の痕跡を探してしまう。電気で動くと知っている自分と、魔石も陣もないことを疑う自分が、同じ頭の中でせめぎ合った。


 家には一人分の生活だけが残っていた。食器も履き物も、今の身体に合う物ばかりだ。争った跡はなく、呼びかけても返事はない。


 両親や兄弟の顔を思い出そうとすると、そこだけ霧がかかった。誰かがいたことは分かる。だが今ここにいない理由も、最後に会った日のことも出てこない。


「難儀な転生をしたものだ」


 自分の人生を思い出せないのに、この身体は家の中を迷わず歩ける。ひどく落ち着かない。


 それでも、外は静かだった。窓から見えるのは木々と畑、離れて建つ数軒の家。人通りもなければ、武装した集団もいない。


 未知の土地ではあるが、籠城先としては悪くなかった。


 廊下の突き当たりで膝をつき、掌を板の間へ当てた。目を閉じ、自分の中を巡る魔力へ意識を向ける。


 魔力は細いが、確かに巡っていた。その奥に、もっと古い手触りの回路が残っている。領域を掌握する。地形を組み替える。階層を刻む。


 ダンジョンマスターの中身は、自分の名前より先に戻っていた。


 掌へ意識を集めると、家の輪郭が図面より正確に返ってきた。床下の土。その先の基礎。庭を横切る水の管。道までの境界。木造の平屋、部屋数は六、地下はない。地面は柔らかく、上へ積むより下へ伸ばす方が安く済む。


 板の継ぎ目が指の下でわずかに軋み、振動が土まで抜けていく。出力は前世より目減りしている。それでもこの家をダンジョンへ変えるくらいは、試せばできる。


 そこまで測って、手が止まった。次にすべきことが続かない。


 前世なら、この感覚の後に来るのは配置の作業だった。どの通路に何を置き、どの階層で誰を止めるか。第一層で消耗させ、第三層で分断し、最深部の手前で選別する。そのために飼う者がいて、そこへ踏み込んでくる者がいた。


 配置するモンスターも、攻め込んでくる冒険者も、この土地には見当たらない。あるのは無人の廊下と、六つの部屋と、鹿しか通らない畑だ。そこへ階層を刻んでも、誰の前にも壁は現れない。


 三森は掌を離した。埃のついた指を見る。


「……作ることはできる。だが、誰も来ぬ」


 声は板の間に吸われて消えた。指示を待つ眷属も、報告に上がってくる者もいない。廊下の先で、隙間風が障子をわずかに鳴らした。


 三森は膝の埃を払って立ち上がった。使えない力を抱えていても、一日は減らない。


 異世界の作法はここで役に立たない。笹塚三森が時間をどう埋めていたのかも、霧の向こうだ。この土地の人間が何をして過ごしているのか、知っている者に聞く方が早い。


 最後に机のある部屋へ入る。黒い画面を見て、また知識だけが浮かんだ。


 パソコン。情報を調べ、離れた相手と言葉を交わせる道具である。


 椅子へ座ると、右手が自然にマウスをつかんだ。画面上の矢印が動く。キーボードへ両手を置けば、指の位置まで馴染んでいた。


 ところが、何を調べればよいのか考えた途端に手が止まる。自分がどこにいるのか。なぜ記憶が蘇ったのか。この世界の法や常識は何か。問いが大きすぎて、検索する言葉へ変えられない。


 画面には匿名掲示板が開かれていた。板、スレ、レス。顔も名も知らない者たちが、同じ話題について書き込む場所である。新しい書き込みの開き方も、返事の付け方も、ここだけは指が鮮明に覚えていた。


 十八年ぶんの記憶から、なぜこれが真っ先に残ったのか。三森は少し考え、追及をやめる。人に会わず、姿も見せず、知りたいことだけを尋ねられる。以前の自分が使い慣れていた理由は、よく分かる気がした。


 新しい書き込み欄を開く。現在地を尋ねようにも、住所も周囲の特徴も説明できない。転生を語れば、信じさせるだけで時間がかかる。ダンジョンを作れることまで書けば、なおさら話は進まない。


 もっと簡単な質問から始めればいい。


 三森は文字を打った。


 この世界では、何をして過ごすのが楽しいのだ。


 読み返し、投稿ボタンを押した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。