第16話 チャンネルは領土である
空のチャンネルを囲む細い線は、目を閉じても消えなかった。まぶたの裏へ残る光の名残とは違う。暗くした視界の中でも、同じ場所に同じ細さで浮かんでいた。
三森は画面の前で、指を右へ動かした。線は途切れず、指の先についてくる。下へ動かしても同じだった。
爪の先を当てて押す。硬くはないのに、押し返してきた。
「マスター、さっきから何してんすか?」
掲示板を眺めていたノーラが、隣から画面をのぞき込んだ。
「このチャンネルには境界がある」
「境界?」
「こちらと、あちらを分ける線だ。土地をダンジョンへ変える時にも、似たものが見える」
「え。じゃあ、チャンネルをダンジョンにできるかもってこと?」
ノーラの目が輝いた。端末を伏せ、椅子ごと三森の隣へ寄せてくる。
「やっちゃえー」
「判断が軽い」
「だって、それやりたくてVTuber始めたんじゃないんすか?」
「画面内へ迷宮を作るとは言ったが、比喩のつもりで聞かれておったからな」
「マスターはガチだったじゃん」
その通りだった。
呼ばれたラプラスもどきが、画面と三森の間へ浮かぶ。
「おぬしには、この線が見えるか」
『見えない。通常のチャンネルページだ』
「では、何もないか」
『不明だ。三森だけが取得できる入力なら、実行時の変化を観測する必要がある。少し試せ』
「おぬしも軽いな」
『未知の機能は、実行ログがなければ解析できない』
「ほら。ラプっちもやれって」
『正確には、観測可能な最小操作を要求している』
「一緒一緒。やっちゃえー」
念のため、異世界パーティのチャンネルを開いてみた。華やかな動画が整然と並び、次の配信予定まで表示されている。
指で触れても境は現れない。押し返しもない。ただの平らなモニターである。
「他者の領域には届かぬらしい」
『所有権限の差と推定する。自分のチャンネルへ戻せ』
「急かすでない」
『比較対象は取得した。次は実行結果だ』
すっかり試すつもりでいる。ラプラスはもう、観測用の記録欄を並べ始めていた。自分の頁へ戻ると、線はまだそこにあった。
公開動画はない。配信予定もない。登録者の欄には、八という数字だけが並んでいる。
中身は空である。それでも名がつき、人が訪れる。出入り口は三森が管理していた。
「領民が集う場所で、我に管理権がある。領土として不足はない」
「配信部屋にもできるんすよね? 背景とか毎回作んなくて済むじゃん」
「活動拠点になるなら、なおよい」
「あ、でも一応言っときますけど。設定いじって戻せなくなったら、チャンネル作り直しっすからね。名前も概要欄もサムネも全部」
「作り直せばよい。領地は幾度でも検地できる」
「登録者は戻んないんすよ」
「……八人か」
「八人っす。掲示板じゃまだ運営が怪しいって言われてる段階なんで、集め直しはガチでだるいっすよ」
ラプラスは境界の反応を探した。管理画面の項目を、順に開かせていく。
概要。公開設定。コメント管理。最後に、権限の欄へ入る。
所有者――迷宮ミモリ。
文字の横へ、黒く細い穴が浮かび上がった。近づけた指の影が、その一点だけ途切れる。
「鍵穴だ」
「あーしには見えないっす。どのへん?」
「ここだ」
三森が指した場所に、ノーラの目には余白しかない。それでも身を乗り出し、画面へ顔を近づけてくる。
掌を上へ向け、魔力を集める。指の付け根から手首までが、内側から押されて温くなった。
前世で土地を迷宮へ変える時は、地面へ腕ごと差し込む重さがあった。土に厚みがあり、岩があり、水脈がある。押し込んだ魔力は、その全部から押し返された。
だから何日もかけて深さを稼いだ。返ってくる重さの変化で、進み具合を測る。
この線には、厚みがない。押しても押し返されず、通り抜けもしない。薄い膜へ指を当てたままだ。向こう側がどこまで続くのかも分からない。
力の行き先だけを探している。線に沿って指を滑らせても、どこも同じ抵抗が返る。
始まりも終わりもない。
前世の土地なら、必ず一番弱い場所があった。そこへ楔を打ち込めば、あとは押し広げるだけで済んだ。
伸びかけた光が、途中でほどけて消えた。掌に残ったのは熱と、行き場を失った圧だけである。
『出力の立ち上がりは検出した。維持ができていない』
「分かっておる」
「マスター?」
返事をせず、もう一度掌を握り直す。爪が食い込むまで握り、ゆっくり開いた。
二度目で、光は古い鍵の形まで届いた。柄の飾りが半分欠けている。前世で管理権を刻む時に使ったものより、ひと回り小さい。迷宮ミモリの腰へ下がった小道具と、輪郭だけがよく似ていた。
『魔力出力を検出。記録を開始する』
騒ぎを聞きつけたデミタスが、配信部屋の戸を開けた。その後ろから、ミラが皿を持って顔を出す。
「何をなさっているのですか」
「我がチャンネルをダンジョン化できるか試す」
「お待ちください」
この場で止めたのは、デミタスだけだった。
「何が起きるかも、元に戻せるかも分かっておりません」
『だから試して確認する』
「できたらガチで便利っすよ。専用スタジオじゃん」
「マスター。仮にしくじった場合、この領地はどうなりますか」
「取り上げられると申すか」
「そう書いてある掲示板を、いくつか読みました。あちらの決まりを破った者は封を凍らされ、同じ名では二度と開けぬそうでございます」
「上位の領主がおるのか」
「運営っす。あと凍結は規約違反した時なんで、たぶん今のは関係ないっす。たぶん」
「たぶんか」
「あーし、そこの専門じゃないんで」
八という数字を、三森はしばらく見ていた。一人ずつ、自分の手で印を押した者たちである。名も顔も知らない。押したという記録だけが残っている。
もう一度同じ数を集められる保証は、どこにもなかった。
「ラプラス。しくじれば、この八は消えるか」
『不明だ。復旧手段は用意していない。チャンネルそのものが観測対象から外れる可能性も、否定はできない』
「分かんないって、そこははっきり言うんだ」
『不明を確実だと偽る理由がない』
ミラが机の端へ皿を置いた。湯気の立つ椀と、厚く切った肉が並んでいる。
「三森様、冷めますよ」
「後にする」
「はぁい。あっためて待ってますね」
戸口では、シルカが柱へ背を預けている。端末を三森の手元へ向けていた。
「何をしておる」
「んー、記念。失敗してもおもしろいし」
「しくじった時のもか」
「どっちでもいいけど」
三森は鍵先を、画面の鍵穴へ合わせた。見えない穴へ、古鍵が沈んでいく。指の第二関節まで入ったところで止まった。固い手応えが返る。
木でも石でもない。噛み合わせの悪い金具を、無理に押し込んだ時の感触だった。
「マスター。せめて事前に確認項目を――」
「活動拠点となるなら、試す価値はあるであろう」
「マスター」
「案ずるな。できるとも限らぬ」
「その言い方を、以前にも伺いました」
「いつの話だ」
「第五層を掘り下げる、と仰せになった日でございます」
「あの層は完成したであろう」
「三年かかりました」
鍵を握る指へ、じわりと汗が滲む。この手応えを最後に覚えているのは、前世の管理室だった。第五層の権限を書き換え、鍵を回し、報告が届くのを待っていた。
その先の記憶は、扉が開いたところで途切れている。
鍵を右へ回した。半回転したところで抵抗が抜けた。行き場を失った力に、手首が前へ泳ぐ。鍵はもう、指の間で重さを持っていなかった。
かちり、と音がした。
配信部屋の明かりが落ちる。モニターの文字が、砂のように崩れた。チャンネル名も登録者数も管理項目も、黒い画面の奥へ吸い込まれていく。
代わりに、苔の生えた石壁が現れた。中央には小さな扉がある。隙間から冷たい風が流れ出し、三森の前髪を揺らした。湿った土と鉄の匂いが、部屋まで運ばれてくる。
「うわ。マジでできた」
『座標取得不能。映像ではない。空間がチャンネル境界へ接続されている。成功だ、もう一度何か操作しろ』
「待ちなさい。まず安全の確認を」
鍵を抜いても、扉は消えなかった。反対へ回してみる。今度は何の手応えもなかった。
三森から順に、石壁の画面を見た。ノーラ、ラプラス、そしてデミタス。
「……できてしまったのう」
「できると思って回したんじゃないんすか?」
「できるかもしれぬとは思った。だが、本当にできるのは別の話だ」
握っていた手を開くと、掌に鍵の跡が残っていた。
ノーラが自分の端末で、迷宮ミモリのチャンネルを開く。
「……あ。外からだと普通っす。動画ゼロ、登録者八人のまま」
「消えてはおらぬのか」
『境界の内と外で表示が異なる。所有者以外には、従来の頁として見えている』
「では、増えたのは我の領地だけということだな」
「領地、増えてます?」
「増えておる。領民が八人と、迷宮が一つだ」
『解除命令への応答なし。内部観測が必要だ』
「お待ちください。未知の場所へ、すぐ入るおつもりですか」
「ここが我の活動拠点となるなら、どのような場所か知らねばなるまい」
「内見、内見。行ってみよー」
『賛成だ。外からでは情報量が不足している』
「なぜ、誰も止める側へ回ってくださらないのですか」
「んー。行けばぁ?」
シルカは端末を構えたまま動かない。画面の中の石壁を、角度を変えて撮り直している。デミタスの嘆きをよそに、三森は扉へ手をかけた。
石の扉は軽く開いた。向こうには、土と石でできた細い通路が続いている。壁の灯りが、数歩先までをぼんやり照らしていた。
粗末で、狭く、何もない。それでも分かった。ここは間違いなく、自分のダンジョンだった。
「最初は我が入る。ラプラスは観測せよ。デミタスは入口を見ておれ」
「あーしも行きたい」
「安全を確認してからだ」
「そこは慎重なんだ」
画面の縁へ足をかける。水面を抜けるような抵抗が、全身を通り過ぎた。現実の部屋から石造りの入口へ、片足が下りる。
その瞬間。
モニターの右上で、誰も操作していない赤いランプが点灯した。
――LIVE。
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迷宮運営記録
- 配信回:第1回(前半)
- 次回配信:2026年1月20日(火)20:00
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