第9話 それは仮の姿です
翌朝、鏡の前へ椅子が運び込まれた。ノーラが見つけた髪の整え方を、その横へ広げる。
三森は寝癖を水で押さえた。櫛を通し、前髪を左右へ分けていく。一度目は片側だけ膨らんだ。二度目は額がすべて出た。
三度目で、ようやく左右が同じ形になる。
「造成より難しいな」
「いや、髪は通路みたいに固定できないんで〜」
ノーラは机で、VTuberの始め方を解説する記事を読んでいた。家電を覚えた時と同じだ。複数の説明を並べて開き、必要な道具と手順を紙へ書き出している。
ミラが用意した服へ着替え、背筋を伸ばした。部屋着でなくなっただけである。それでも鏡の中の十八歳は、昨日より人前へ出られそうに見えた。
発声も試した。
「我こそは、万魔迷宮統括大公――」
「長っ。マジで長いです」
「まだ名乗りの途中だ」
「最初の挨拶だけで人帰りますって。ガチで」
名前も決まっていないのに、ノーラは容赦がない。三森は勇者の初配信を思い出し、短く言い直した。
「我はダンジョンマスターである」
「それなら秒で分かります。ダンジョンの人って」
「ならば、これでよい」
身なりと名乗りは整った。あとはカメラの前へ立てばよい。勇者たちと同じように、画面へ姿が映るはずだった。
「それで、いつ始める」
問われたノーラは、机上のパソコンをこちらへ向けてきた。
「いや、その前にガワ決めますよ」
画面に、見知らぬ少女が映っていた。大きな目に、現実には保てそうもない髪型。
光を受けていないのに衣装が輝いている。勇者たちと同じく、絵のように整った姿だった。
「誰だ、これは」
「配布のテストモデルっす。VTuberの動かし方見る用ですね」
「なぜ知らぬ者を我の配信へ出す」
「今はマスターがこれ借りて、動くか試す感じでーす」
冗談を言っている顔ではなかった。
「我はここにいる」
「はいはい、いますね」
「画面へ出るのも我だ」
「中で動かしてんのは、ちゃんとマスターですよ」
「外側に知らぬ女がいるではないか」
「こういう画面用の仮の姿、ガワって言うらしいっす」
聞き慣れない単語だった。
ノーラはカメラを三森へ向けた。簡単な試験が始まる。
画面の少女が目を開いた。顔を傾ければ、少し遅れて同じ方向へ首が傾く。右を向くと少女も右を見る。口を開けば、少女の口も開いた。
「我の動きを奪っておる!」
「奪ってないっす。動き読んでるだけなんで」
立ち上がるとカメラの範囲から外れた。少女の動きが止まる。もう一度座れば、何事もなかったように瞬きを再開した。
「幻術か」
「絵とか立体モデルを、本人の動きに合わせて動かすやつです」
「では、この女は存在せぬのか」
「この見た目の人はいないっす。でも声出してんのは、ちゃんと本人ですよ」
三森の視線が、別の画面で停止したままの勇者へ移った。剣を携えた女勇者。現代の町を歩けば、誰もが振り返る姿である。異世界から来た本人の肉体だと思っていた。
「待て」
嫌な予感がした。
「勇者もか」
「そっす。公開されてるあの姿、勇者様のVTuberモデルです」
「聖女も」
「そっちもっす」
「魔術師と斥候も」
「全員ガワです」
椅子の脚が床を擦った。腰を下ろした三森の前で、静止した勇者の剣が光っている。
その刃は描かれたものだった。魔術師の杖も、聖女の法衣も、斥候の装備も同じだ。
「掲示板の者どもは、中の人を探るなと言っていた」
「ガワの中で声出して動かしてる本人のことっす。公開してない本名とか顔を掘るの、普通にアウトなんで」
規則そのものは理解していたつもりだった。ただし中と外を、丸ごと逆に受け取っていた。
三森は別の画面を呼び出した。二日前から開いたままの表が、まだそこに残っている。勇者の剣の刃渡り。鍔の形と、柄の巻き方。切り返しに要する拍。片手で扱える重量の上限。
動画を止めては目盛りを当てた。記憶にある剣と並べ、鍛冶の系統まで推定してある。欄は縦に長く続いていた。
表の下には三森自身の筆で、実物を見れば産地が特定できる、と書き添えてあった。
「……この剣は、鍛えられてもおらぬのか」
「描かれてるだけっすね」
「重さは」
「ないっす」
「では、この反りは何を意味する」
「絵描いた人の好みだと思います」
好み、と三森は口の中で繰り返した。
二日かけて追いかけた曲線だ。鍛冶師の腕でも土地の癖でもない。会ったこともない誰かの、筆の運びである。
「消しときます?」
「触るな」
ノーラは伸ばしかけた手を引っ込めた。湯呑みを机の端へ寄せる。表はそのまま画面へ残った。
その脇に、もう一枚の紙が挟んである。刃を再現する材料と、鍛冶へ回すまでの工程が順に並んでいた。会う日までに揃えれば手土産になる。昨日の三森は、そう考えていた。
「これも要らぬのか」
「……その剣、この世に一本もないんで」
昼を過ぎても、三森は机から動かなかった。ミラが握り飯を置いて出ていく。皿の上で、それが冷えていった。
テストモデルの少女だけが瞬きを繰り返している。カメラの前の誰かを待っていた。
前世の顔なら、思い出そうとすればすぐ出てくる。剃り跡の残る顎。目尻の皺。外套の襟に隠れる喉。あの顔で何十年ぶんも喋ってきた。
鏡を見れば、今度は十八の娘がいる。声は高く、手も小さい。それでも自分の意思で動く顔ではある。
画面には、三つ目の顔が入る。まだ誰も描いていない顔だった。
「顔が違っても、我が話したことにはなるのか」
「声も動きも中身も、全部マスターっすよ。ガワは配信用の服みたいなもんで」
「服は顔を変えぬ」
ノーラは何か言いかけ、そのまま口を閉じた。
記事の続きへ目を戻す。それでも画面は、しばらく同じ位置で止まっていた。
「その三つ目の顔は、誰が決める」
「絵を描く人と、マスターと、あーしらで詰めますね」
「我一人ではないのか」
「一人で描けます?」
描けなかった。
前世で迷宮の一層目を引いた時は違った。線も罠も配置も、最後の一本まで自分の手で決めていた。
夕方、デミタスが茶を替えに来た。机上の表と、点けたままの画面を順に見る。
「本日の造成はいかがでしたか」
「我の顔が三つに増えた」
「それは、増えましたな」
「前世の顔、この身体の顔、これから作らせる顔。どれが話したことになる」
「どれも、とお答えするのは逃げでございましょうか」
「逃げだ」
「では、逃げさせていただきます」
湯気の立つ湯呑みが置かれた。冷めた方が下げられていく。
「一点だけ伺います。勇者様のお姿が作り物だと判明した今、マスターはあの方を推すのをおやめになりますか」
「やめぬ」
「即答でございますね」
それだけ言って、デミタスは襖を閉めた。廊下の足音が遠ざかって消える。三森は座ったままだった。
即答できたのは、勇者の顔についてだった。他人の顔なら作り物でも構わない。自分の顔となると、同じ口が動かなくなる。
その差を、三森は言葉にできなかった。
布団へ入ってからも二度起きた。一度目は表を閉じるため。二度目は、閉じた表をもう一度開くためだった。
翌朝、部屋へ来たノーラの前で、勇者の初配信が流れていた。音量事故の回から、企画が壊れて声の震えた回まで。順に再生した跡がある。
「徹夜っすか」
「見ていただけだ」
再生は止めなかった。
映っている顔は作られたものだ。それでも言葉を選ぶまでの沈黙は、誰にも描けない。初配信で失敗し、次の回で一つだけ直した記録も残っている。
「顔の件は、まだ答えが出ておらぬ」
「出なくてよくないっすか」
「よくはない」
三森は椅子を引き、跳ねたままの前髪を指で押さえた。
今日の分の櫛は、まだ通していない。
「だが、会うのをやめる理由にはならん」
「じゃ、マスター用のガワ要りますね」
ノーラが新しい画面を開いた。制作の道具ではない。
輪郭と髪、衣装と色。誰かへ制作を頼む時に決めておく項目の一覧だった。
「お前が作るのではないのか」
「テストモデル入れて動かすとこまではできました。でも専用の絵描いて、パーツ分けして、自然に動かすのは別スキルなんで」
家の修理や細かな手仕事なら、ノーラの手はよく動く。それでも絵を描いた経験はない。配信用のモデルを組んだ経験もなかった。
「形決めたら、絵いける眷属と、動かすの得意な人探しましょ」
三森は迷わなかった。
「ならば、前世の我を再現せよ」
「前世って、異世界にいた頃のマスターっすか」
「威厳ある男性の魔術師だ。鏡を見るたび、そこにいた顔である」
言い切ってから、三森はようやく武具の表を閉じた。




