82 折れない理由
夜会を終えた王宮には、まだ人の気配が残っていた。近衛は持ち場を離れず、侍従や侍女たちも、いつも通り足を止めずに行き交っている。
それでも今夜は、耳に届く声がどれも低い。失言ひとつで立場を損ねかねないと、宮廷そのものが知っている夜の静けさだった。
イリナ・ディ・ヴァレンティーノは私室の長椅子に浅く腰掛けたまま、運ばれてきた報告書へ視線を落としていた。
机上に並ぶ紙は多くない。必要なものを抜粋させ、重複と推測は最初から省かせてある。感情に引きずられた報告は役に立たない。必要なのは、何が起き、何が起きなかったか。その事実のみだった。
「申し上げます」
控えていた側近が、一歩進み出る。
「モンレーヴ王女セリーヌ殿下は、夜会後ただちに客間へ戻されました。現在は近衛を増やし、外部との接触を制限しております」
「……そう」
イリナは平坦な声で応じた。
驚きはない。むしろ、遅すぎたくらいだった。
あの場で帝国の裁可と王家の受理に私見を差し挟んだ時点で、もう終わっている。問いに敗れたことそのものではない。場の秩序を受け容れられず、序列へ逃げた。その振る舞いが、表舞台に立つ者としても王女としても、取り返しのつかない失点だった。
「モンレーヴ王国側へは、王宮より正式な連絡を」
「入れなさい。釈明の余地を残さぬ形で」
側近が頭を下げる。
「承知いたしました」
「送還は」
「早ければ二日以内に」
それで十分だった。
セリーヌは、もう王国の盤上に置く駒ではない。帝国に見られ、衆目の前で見切られた以上、外交札としての価値は失われている。残るのは厄介さのみだった。
イリナは報告書の上に指先を揃えた。惜しいとは思わない。使えなくなった、それだけだ。
「第二王子は」
側近が控えめに口を開く。
「引き続き拘束中です。王族間の重大事案として、正式裁定待ちの扱いとなっております」
「弁明は」
「責任の所在を定めきれておりません。離宮側の干渉、侍女の出過ぎた行動、第一王子殿下の……」
「もういいわ」
遮ると、側近は口を閉ざした。
聞くだけ無駄だった。そこに判断はない。あるのは、自分が失敗したという事実から目を逸らすための言い訳だけだ。
リカルドは前へ立たせるには脆かった。王族の名は持っていても、重圧を引き受ける器がない。落ちるときまで、自分の足場が崩れていることに気づかない。それでは使えない。
イリナは小さく息をつく。自分の息子に対してさえ、最初に浮かぶのは憐れみではなかった。
(空いたわね)
第二王子の位置が、事実上空いた。
それだけなら、盤面はもっと単純だったはずだ。ところが実際には、そうなっていない。駒が減っただけなら、もっと整理しやすかった。
問題は、空いたところへ別の流れが入り込んでいることだ。
「第一王子殿下と、マリーニ伯爵令嬢は」
「夜会ののち離宮へ戻られました。帝国使節側も、特段の異議は示しておりません」
「皇女位について、今夜列席した者たちの反応は」
「少なくとも今夜の宮中では、露骨な異議は広がっておりません。皇帝アウグストゥス陛下の後見が明確であったこと、また今夜の応答において、伯爵令嬢ご本人が十分に――」
側近が、言葉を選ぶように一拍置く。
「十分に、立っておられたことが大きいかと」
イリナは何も言わなかった。その沈黙を、側近は続きを求められたものと受け取ったのだろう。慎重に話を続ける。
「……夜会前には、帝国からの後ろ盾によって遇されるだけの娘、と見る向きもございました。ですが今夜のやり取りで、その見方はかなり後退したかと存じます」
後ろ盾の問題ではない。本人に、公の場で立てる力があると示してしまった。
それが何を意味するか、イリナにはよくわかっていた。
庇護されるだけの娘なら、切り崩す余地があった。立場を失わせなくとも、周囲の見方を変えるだけで十分だったからだ。
しかし、自分の力で立てる娘は、公には押さえにくい。しかもその背後に帝国があり、北方の功があり、王家の第一王子がいる。
イリナはようやく顔を上げた。
「洗わせていた線は」
側近がすぐに別の紙を差し出す。
「北方の件、離宮の人員、帝国側との接触、マリーニ伯爵家の動き――現在の不審な接点は、可能な限り拾わせました」
「結果は」
「表向きに不自然な点はございません」
その言葉が、かえって不快だった。
不自然な点がない。そこが気に入らない。
北方の件もそうだった。離宮へ下がった第一王子の判断が、結果として現場を機能させていた。今回も同じだ。第一王子の専属侍女だった娘が夜会の問いに耐え、帝国の後見を受けても、どこにも綻びが見えない。
何も乱れていない。だからこそ厄介だった。
(見えていなかったはずの王子が、まだ立っている)
視力を失い、王宮中央から外された。王太子位を空席のままにされ、周囲からは距離を取られ、弟に立場を侵される。そこまで重なれば、いずれ折れると見ていた。
ところが、折れなかった。
むしろ、見えないまま北方を立て直し、離宮を保ち、今は見える目で戻った場へ立っている。
そこだけでも計算は狂う。もっとも厄介なのは、その隣にいる娘の方だった。
「……第一王子殿下ご本人よりも、伯爵令嬢の存在が要ということでしょうか」
側近が注意深く問う。
イリナはすぐには答えず、窓の外へ目をやった。夜風に揺れる庭木の影が、格子越しに床へ落ちている。
「問題、という言い方は正確ではないわ」
静かな声で告げる。
「盤が崩れない理由を見極めるなら、核を見るべきというだけ」
「核」
「第一王子は、視力を失っただけで終わるような子ではなかった。そこは、最初から誤算だったのでしょうね」
認めること自体に痛みはない。事実を言葉へ置き直したに過ぎない。
「けれど、一人で立っているわけではない」
北方でも、離宮でも、今夜の夜会でもそうだった。
前へ出すぎない。手柄を求めない。それでいて、必要なところを過不足なく支えている。功を取る意図がなくとも、結果として王子を成立させてしまう。
そういう立ち方は、鬱陶しいほど強かった。
「マリーニ伯爵令嬢は、自分を押し立てようとしない。それでいて、場を成立させてしまう」
「……そのように見えます」
「ええ。だから厄介なのよ」
野心を持つ女は、まだ扱いやすい。欲しいものが見えれば、そこを折ればいい。
目立つ位置を取らない女は、そうではない。自分が何をしているのか、どこまで自覚しているのかも定かでないまま、周囲の均衡だけを保ってしまう。気づけば、その者がいないと回らない形ができている。
それが最も始末が悪い。
(あの女がいる限り、あの子は折れない)
心の中でそう断じた瞬間、不快感の輪郭がはっきりした。
第一王子を削るには、第一王子そのものへ手を伸ばすだけでは足りない。傍にある支点を外さなければ意味がない。けれど今は、その支点にはあからさまな形では手が届かない。
皇帝の後見。帝国使節。北方での積み上げ。伯爵位への昇格。
どこを取っても、露骨に手を出せば王国側が傷つく。切るつもりで刃を入れても、自分の側の布まで裂けるだけだ。
「表向きには、もう動けません」
側近が低く言った。
「ええ。公には、ね」
それでも、イリナにとって終わりを意味するわけではない。表から崩せないなら、別のところから綻びを作ればいい。人は立場ひとつで立っているわけではないのだから。
そう考えたときだった。
脳裏に、別の女の姿がよぎる。
淡い金の髪。澄んだ青の瞳。声を荒らげず、けれど誰の後ろにも退かなかった女。後ろ盾の乏しさが、ついに欠点にならなかった正妃。
ソフィア。
イリナの指先が、紙の端で止まる。
違う、と切り捨てるのは簡単だった。育ちも、立場も、置かれた場も違う。
けれど、似ている。
前へ出ないところが。自分を誇示しないところが。
それでも、選ばれるべき相手の傍へ残るところが。
誰かの判断を奪わず、支えだけを成立させてしまうところが。
それは、昔一度見た形だった。
少なくとも当時のイリナには、国王が恋情で連れ帰った女にしか見えなかった。王宮の空気に染まらず、派閥を作らず、それでも最期まで王の正妃だった女の在り方。
イリナは目を伏せた。
あの女を思い出すたび、心のどこかで苛立ちを覚える。それを嫉妬と呼ぶ気はなかった。感情は判断を鈍らせると、ずっとそう決めてきた。
けれど、届かなかったことは知っている。
後ろ盾の数では勝っていた。政治の実務も知っていた。王宮を回す術も、秩序の保ち方も理解していた。
それでも、選ばれたのはソフィアだった。国王にも、王宮にも、あの子にも。
そして今また、似た女が第一王子の傍へ立っている。
「……調べなさい」
イリナの声は、自分でも驚くほど低かった。
側近が背筋を伸ばす。
「何を、どこまで」
「全部よ」
端的に告げる。
「マリーニ伯爵令嬢の今の動きではないわ。その周辺でもない。もっと前からよ。帝国との線、離宮での積み上げ、北方で整えたもの――その娘が第一王子の傍へ立つまでの流れを、最初から洗い直しなさい」
側近が息を呑む気配があった。
「表からは崩せないなら、根を見るしかないわ」
「……承知いたしました」
側近が下がり、扉が閉まる。
私室に残ったものは、先ほどまでとは少し違っていた。夜会の余韻ではない。もっと古く、もっと深い場所から滲み出してくるものだった。
イリナは一人、長椅子へ背を預ける。
遠くで、どこかの時計が時を打った。
その音を聞いた瞬間、意識の底へ沈めていた記憶がさらに濃く浮かび上がる。冷たい廊下。閉ざされた部屋。遺されたものを前にして、言葉より先に拒まれた感覚。
選ばれなかったと、あのとき確かに知らされた。
イリナはゆっくりと目を閉じた。
(あの女がいる限り、あの子は折れない)
昔と同じように。
前へ出ず、それでも選ばれる女を、イリナは一人知っていた。
――ソフィア。




