63 侯爵家嫡男は見ていた
ミケーレ・ベルニがその娘を初めて見たのは、皇帝への初謁見の場だった。
薔薇金の髪。蜂蜜色の瞳。しかも帝国の宮廷へ上がる日に、王国の第一王子を思わせる青と金をまとっていた。血筋だけでも目を引くのに、あの娘はそれを隠そうともしなかった。
(ずいぶん思いきった人だ)
その印象が残っていたから、数日後に宮廷実務の側で小さな騒ぎがあったと耳に入ったときも、なんとなく覚えていた。
帝国へ来たばかりの娘が、善意から人の役目へ踏み込み、面目を傷つけかけた。
だが、その翌日には自ら詫びに行き、何がまずかったのかを書きつけ始めたらしい。
面白い娘だと思った。
ただし、その時点ではそれだけだった。
その認識が変わったのは、宮廷図書室へ続く回廊で、彼女を二度目に目にしたときだった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、ミケーレは実務局へ回す記録の写しを抱えて、図書室脇の回廊を歩いていた。
石壁に沿って置かれた書架のそばで、若い書記見習いの少女が、青ざめた顔で札の束を抱えている。束の一つを取り違えたのか、手元が落ち着かない。少し離れた場所には、上役らしい書記官の背中も見えた。
少女の前に立っていたのが、ロゼッタだった。
彼女は声を低くして、周囲へ聞こえないように尋ねている。
「今、私が読み上げると、かえって目立ってしまいますね」
「……はい」
少女の返事は弱々しい。
「では、人のいないところで順だけ一緒に確かめましょうか。置き直すのはあなたがなさってね。私は束を持つだけにします」
「でも……」
「大丈夫。急がせません」
言い方が柔らかい。
だが、勝手に取り上げる気配はまったくなかった。
ロゼッタは近くの小机へ札の束を移し、少女が自分の手で順を確かめるのを待っている。間違いの箇所も、指先でわずかに示すだけで、自分では触れない。
やがて少女は小さく息をついた。
「……戻せました」
「よかったです」
ロゼッタはそれだけ言い、何事もなかったように束を返した。
礼を言いかけた少女へも、首を振る。
「お礼は要りません。次に迷ったら、人のいないところで確認できるよう、先に声をかけてくださいね」
それで終わりだった。
少女の手柄を横から取ることも、助けたことを誇る様子もない。
ミケーレは、少しだけ目を細めた。
(……そういう変わり方をするのか)
失敗して、しゅんとするだけの娘なら、宮廷にはいくらでもいる。
注意されたその日だけ気をつけて、次にはまた元へ戻る者も多い。
だが目の前の娘は違った。
痛い思いをした分だけ、前より丁寧になっている。
ロゼッタが立ち上がったところで、ミケーレはそのまま歩み寄った。
「……そうやって手を貸すのか」
ロゼッタが振り返る。
一瞬だけ肩が強張った。責められると思ったのだろう。
「……失礼がありましたか」
「いや。むしろ逆だ」
ミケーレは、彼女が先ほどまで立っていた小机へ視線を向けた。
「すぐに取り上げず、相手が自分で戻せる形にしていた。ああいうやり方は、誰にでもできるものじゃない」
そう言うと、彼女は瞳を見開いた。
その大きな瞳に、榛色に近い茶褐色の髪と、紅玉を思わせる深い赤の瞳を持つ青年貴族の姿が映る。
ロゼッタを近くで見ると、やはり華やかさより、まっすぐさが印象に残った。整った容姿ではあるが、それ以上に、相手の顔をしっかり見て話すところが目を引く。
ミケーレは軽く一礼する。
「ミケーレ・ベルニだ」
「ベルニ侯爵家のご長男……」
ロゼッタはすぐに気づいたらしい。やはり勉強はしているのだろう。
「ロゼッタ・マリーニと申します」
「それは知っている」
ミケーレがそう返すと、ロゼッタは少しだけ困ったように笑った。
媚びる笑みではない。かといって、無愛想でもない。
(こういうところに、人は惹かれるのか)
「そう身構えないでほしい。実務局へ顔を出すことが多いから、先日の話も少しだけ耳に入っていた。だが、今のを見ていたら、人づての話ばかり信じるのはよくないと思った」
ロゼッタの睫毛が微かに伏せられる。
「……お恥ずかしい話です」
「恥ずかしいと思って終わるなら、ただの失敗だろうね」
彼女の手元には、紙が数枚あった。丁寧に重ねられているが、書き込みは多い。
「その紙も、その続きかな」
「はい。まだ覚え書きの延長ですけれど」
ロゼッタは迷ったようだったが、結局、正直に答えた。
「同じことを繰り返したくなくて」
その言い方に、言い訳めいたところはなく、自分をよく見せようという気配もない。
ミケーレは自然に口にした。
「よければ、体裁だけ見るよ」
ロゼッタは驚いたようにこちらを見る。
「……よろしいのですか」
「文の整え方は、うちの家の得意分野なんだ」
そう言って差し出された紙へ目を通す。
最初の一枚は、自分への戒めだった。
『確認をする前に、手を出さないこと』
『人前で役目を奪わないこと』
『助ける形は、相手が選べるように差し出すこと』
『困りごとを支えることと、できない者として扱うことは違う』
続く紙には、補助の手順が少しずつ書き足されている。
置き場、確認の順、上役を通す場合のこと。まだ粗いが、考える筋は悪くない。
ミケーレは最後まで読み、紙を返した。
「内容は悪くない」
「ですが、まだ足りないところが多いと思います」
「そこも含めてだよ」
彼は紙の端を指で軽く示す。
「ただ、これだと読んだ人間が親切な提案として受け取るかもしれない」
「親切な提案……」
ロゼッタが小さく繰り返す。
「実務へ通したいなら、もっと主語をはっきりさせた方がいい。たとえば誰かを助けるためではなく、役目を続けるためとする。そうすると、読む側は感情より先に手順として見てくれる」
ロゼッタは紙へ視線を向けて、すぐに頷いた。
「……なるほど」
「あと、順番かな。最初に戒めが来るのは悪くない。でも、その次に本人が判断を残すための補助と置いた方が、この宮廷では通りやすい」
「判断を残すための、補助……」
彼女はその文を口の中で確かめるように繰り返した。
飲み込みが早い。
しかも、理解したふりをしない。
「ありがとうございます、ベルニ様」
「ミケーレでいい」
ミケーレは少し笑った。
「こちらも、ロゼッタと呼んでもいいだろうか?」
今度こそ、彼女ははっきりと驚いた顔をした。
だが、嫌そうではない。
「はい。では、私もミケーレ様と」
「様は残るんだ」
「そこは、まだ急には難しいです」
そう答えた声が、思っていたより親しみを帯びていた。
馴れ馴れしくはない。けれど線を引きすぎてもいない。
(無理に近づいてこないのに、遠くもない)
それが妙に心地よかった。
ミケーレは、彼女の髪に結ばれた青と金の細い飾りへ目を留める。
やはり王国の色をまだ外していない。
「ずいぶん忙しそうだね」
「はい。ですが、来ると決めたのは私ですから」
ロゼッタは紙を抱え直した。
「できるところまで、きちんとやりたいのです」
「帝国で認められるために?」
「……それもあります」
一拍だけ間があった。
「ですが、それだけではありません。自分で選んだ場所へ立ちたいのです」
その一言に、ミケーレは何も返せなかった。
言葉そのものは静かなのに、芯があった。
血筋を誇るでもなく、皇帝の情を当てにするでもなく、ただ自分の意志で立ちたいと言う。
(なるほど)
ただ珍しいだけの娘ではない。だから目で追ってしまうのだ。
ミケーレはわずかに口元を綻ばせた。
「それなら、実務の手順だけ見ていても足りないかもしれない」
「と、申しますと?」
「帝国は、血と制度を一緒に積み上げてきた国だから」
ロゼッタの表情が変わる。理解しようとしている顔だった。
「支えの形を考えるなら、誰に重みが集まり、何が削られてきたかも見た方がいい。図書室の奥に、皇族と高位貴族の婚姻記録と、出生記録、病歴の抜粋がある」
「病歴まで?」
「ああ。表へはあまり出ない棚だけれど、見る価値はある」
彼女は紙束を抱えたまま、声をひそめた。
「私が見てもよろしいものでしょうか」
「その判断は君ではなく、向こうがする」
ミケーレは事実のみを言った。
「だが、申請の出し方くらいは教えられる」
ロゼッタは一瞬躊躇い、それから素直に頭を下げた。
「お願いいたします」
「いいよ。案内するのは棚までだ。その先で何を見るかは、ロゼッタが決めるといい」
彼女は顔を上げ、微笑んだ。
「ありがとうございます」
その礼が、軽くなかった。恩を当然と思わない声だった。
◇ ◇ ◇
図書室の奥は静かだった。
古い記録ほど、外の光から遠ざけるように並べられている。高位貴族の系譜、婚姻記録、出生の控え、そして病を記した抜粋帳。どれも派手さはないが、帝国の形そのものが沈んでいる棚だった。
「ここから先は、私が勝手に選ぶより、ロゼッタが目を通した方がいい」
ミケーレは立ち止まり、書架へ手を向けた。
「読めば、あまり気分のよい記録ばかりではないと思う」
「それでも、見たいです」
迷いのない返答だった。
ロゼッタは最初の一冊へ手を伸ばす。
その横顔を見ながら、ミケーレはふと考える。
たぶん彼女は、この帝国で愛想よく立ち回るだけの娘にはならない。
失敗もするだろうし、ぶつかりもするだろう。けれど、そのたびに学び直して前へ進むのだろう。
そういう人間は、思っている以上に少ない。
「ミケーレ様」
「何かな」
「先ほどの見習いの方のこと、見ておられたのでしょう」
誰もいない図書室の奥で、ロゼッタが密やかに言った。
「はい」
「でしたら、ちょうどよかったです」
彼女は本を抱え直しながら続ける。
「少しは、昨日よりましになれたのだとわかりましたから」
その言い方に、自分を飾るところがない。
それでいて、必要以上に卑下もしない。
ミケーレは、思わず笑っていた。
「そういうところだよ」
「え?」
「いや。独り言だ」
ロゼッタは不思議そうにしていたが、深くは追及しなかった。
彼女が席へ向かうのを見届けてから、ミケーレは一歩だけ下がる。
本当なら、このまま自分も別の用で奥へ入るつもりだった。だが今は、その必要をあまり感じなかった。
この娘は、自分で読む。
自分で考える。
そして、恐らく誰かに迎合せず、自分の答えを持って皇帝の前へ出るだろう。
(王国の第一王子は、ずいぶん得難い人を先に見つけたものだ)
そんな考えを、ミケーレはまだ軽く受け流していた。
それがただの好奇心ではないと気づくのは、もう少し先のことだった。




