62 待つという選択
ロゼッタが帝都へ発って十日ほどが過ぎた朝、離宮の執務室には、紙を開く乾いた音だけが響いていた。
ルチアーノは机に手を置いたまま、向かいに立つニコラスの気配を探る。窓から入る陽の光は弱く、今の彼に見えるのは輪郭と明暗の差くらいだ。だが、それでも紙が一枚めくられる音と、ニコラスが少しだけ息を整える気配で、これから口にされる内容の重さは察せられた。
「帝都より、近況の報せが届いております」
ルチアーノの指先が、机の端をわずかに押さえる。
「内容を言ってくれ」
「礼法、陪席、法、実務、いずれも甘くは扱われておりません。皇帝陛下は最初から、血筋ではなく器を見ておられるようです」
そこまでは予想していた。むしろ、その方がよかった。ロゼッタが情けで位を得ることを望まないのは、彼自身も同じだったからだ。
だが、ニコラスは一拍置いてから続けた。
「初めの数日で、一度だけ失敗もあったそうです」
「失敗」
思わず声が低くなる。
「はい。詳しい内情までは伝わっておりませんが、宮廷内で人の役目へ先回りし、相手の面目を傷つけかけたと」
「……そうか」
胸の内が冷えた。
帝都は王国と違う。礼を知っていても、善意だけでは通らない。ロゼッタほど気を配れる娘でも、踏み外すことはあると頭ではわかっていた。わかっていたのに、実際にそう聞かされると、今すぐ自分が行ってその場から遠ざけたくなる。
(行くな)
そう言えば、彼女は従う。
(戻れ)
そう命じれば、きっと戻ってくる。
だが、それでは意味がない。
ルチアーノは息を整えた。欲しいのは、彼女自身の判断だ。ここで自分が手を出せば、ロゼッタが帝国で勝ち取るはずのものに、王子の名が混じる。
「報せはそこで終わりではないのだろう」
ニコラスの声が和らぐ。
「はい。失敗の翌日、ロゼッタ嬢は自ら相手へお詫びし、教えを受け、草案を書き起こしたそうです。実務の側でも目を通され始めております」
「草案?」
「視覚に不自由を持つ者が、判断を手放さず役目を続けるための補助について、とのことでした」
その瞬間、ルチアーノの胸に別の熱が灯った。
失敗した。
だが、誤魔化さず、謝り、学び、残る形へ直した。
それはロゼッタらしいと思う。
傷ついた相手から目を逸らさず、自分の誤りだけを抱えて終わらず、次へ繋げようとするところまで含めて。
(ああ、やはり)
会いたい、と強く思った。
その声が、どんな響きで自分の中へ届くのか知っている。半歩先を歩く気配を、手へ触れる指先の温度を、離れてから余計に鮮明に思い出す。
けれど今、その想いで帝国へ口を出すわけにはいかなかった。
「帝都の宮廷へ口添えする文は要らない」
ルチアーノははっきり言った。
「見られているのは彼女だ。私の名で軽くしてはならない」
「承知いたしました」
ニコラスはすぐに応じた。最初から、その答えを予想していたのだろう。
「ならば」
ルチアーノは杖を引き寄せて立ち上がる。
「こちらでできることを進める」
待つだけでは足りない。待てる形を作る方が先だった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、離宮の小会議室には、ニコラスとジャミルのほか、王宮書記棟を預かる年配の文官と、近衛の配置を取りまとめる武官が呼ばれていた。
重い話し合いの場ではない。けれど軽く流してよい話でもなかった。
文官が広げた書類の上で指を揃え、慎重に口を開く。
「まず、書記棟の件でございます。老書記官の一人が、このところ細かな文書の照合に時間を要しております。誤りはありませんが、今後を考えれば、主だった確認役から外した方がよいのではないかと」
続いて武官が言った。
「近衛にも一件ございます。北方上がりの古参兵が一人、古傷のせいで長い巡回に無理が出始めました。宮中の任から外し、後方へ下げる案が上がっております」
どちらも、王宮では珍しくない話だ。
衰えた者、傷んだ者を、表から下げる。それ自体が間違いとは限らない。だが、早すぎる線引きは、人を役目ごと切り捨てる。
ルチアーノは杖を傍に寄せてから尋ねた。
「老書記官は、判断を誤ったのか」
「いえ。文書の中身そのものに誤りはございません」
「では、遅くなっただけか」
「……はい」
次に武官へ向く。
「古参兵は、任に怠慢があったのか」
「ございません。巡回の速度だけが落ちております」
「配置を読む力は」
「まだ若い者より確かです」
そこでルチアーノは、机の上へ指を置いた。
「ならば、話は明白だ」
室内が静かになる。
「見えにくいことと、判断できないことは同じではない」
それは、彼自身が何度も他人から取り違えられてきたことだった。見えない王子。だから補佐がなければ何も決められないのだろう、と。視力と判断を一つに束ねて扱われるたび、どれほど息苦しかったかを忘れることはない。
「歩みに無理があることと、役目を果たせないことも同じではない」
武官が姿勢を正す。文官も口を挟まない。
「老書記官を外す前に、置き方と手順を見直せ」
ルチアーノは順を追って指示した。
「帳面、封筒、決裁前の束、決裁済みの束。机上の位置を固定する。引き出しにも違いを持たせろ。目だけでなく、手でも迷わぬように」
「承知いたしました」
「読み上げる場合は、先に要約を差し出すな。日付、差出人、件名、本文の順を崩さず、勝手に結論を足すな。判断は最後まで本人の手元へ残せ」
「……はい」
それから、武官へ声を向ける。
「古参兵は後方へ下げるのではなく、任を変えろ。速さが要る巡回から外すのはよい。だが、宮中の動線整理と新人の指導へ回せ」
「指導、ですか」
「長く立ってきた者は、人の流れと死角を知っている。庭の置き物一つ、廊下の曲がり角一つで足は止まる。そういうものを若い者へ教えられるのは、走れる者ではなく見てきた者だ」
ジャミルが低く口を開く。
「宮中の巡回路、最近は荷運びの動きで散ってます。置き場を決めれば、古傷のある兵でも無理なく見られるはずです」
ルチアーノは頷いた。
「それならば、物の置き場と荷の通る時刻も定めろ。場が毎回変われば、人は必ず取りこぼす」
それは視力のあるなしに限らない。乱れた場は、誰からも判断を奪う。
文官が慎重に尋ねた。
「殿下は、そこまで整える必要があるとお考えですか」
「必要だ」
ルチアーノは迷わなかった。
「人を替える方が早いこともある。だが、人を切る前に場を整えよ。整えたうえでなお無理なら、そのとき初めて別の役目を考えればいい」
会議室の空気が、そこで少し変わった。
憐れみではない。甘さでもない。働ける形を探すという判断を、王子が選択したからだろう。
「書記棟には三日以内に案を出させます」
「近衛も配置を組み直します」
文官と武官がそれぞれ答える。ルチアーノは短く頷いた。
「そうしてくれ」
それで会議は終わった。
だが席を立つ者たちの気配から、ただの配置換えの話では終わらなかったことがわかった。誰を切るかではなく、どうすれば役目を続けられるかを先に考える。その方針自体が、少しずつ離宮の形を変えていく。
◇ ◇ ◇
人が退出したあと、ニコラスが残った。
「もう一件ございます」
差し出された書類へ、ルチアーノは顔を向ける。
「マリーニ家の伯爵位について、公表の段取りまで整いました。あとは帝国留学中の扱いと、帰還後の位置づけです」
ロゼッタは、帝国へ行く前に言った。対等に選び返したいと。侍女のまま情に甘えるのではなく、自分の意志で隣を選びたいと。
ならば、戻ってきたときの場所が侍女しかない形ではいけない。
「彼女の部屋はそのまま残せ」
「はい」
「だが、侍女として戻ることだけを前提に整えるな」
ニコラスが息を潜めた。
「伯爵家の娘として王都へ出る道も、離宮へ戻る道も、どちらも残せ。選ぶのは本人だ」
「承知いたしました」
それでよかった。
命じれば、形は早く整う。
だが、形を一つにしてしまえば、それは彼女の道を狭めることになる。
「ステラには、私室の支度を変えさせてくれ」
ニコラスが静かに続ける。
「侍女服だけでなく、戻られた後に必要な外向きの衣装も揃えます。役目に戻る場合にも、伯爵令嬢として出る場合にも、困らぬように」
「頼む」
ルチアーノは机の上へ手を置いた。
待つとは、何もしないことではない。
帰れる形を先に用意することだ。
ロゼッタが帝国で自分の立場を勝ち取ろうとしているのなら、こちらでは、彼女が戻ったときの場所を曖昧にしてはならない。
◇ ◇ ◇
夜、自室へ戻ったあとも、ルチアーノはしばらく机に向かったままだった。
灯りの位置は決まっている。文鎮、厚手の紙、点を打つための薄い板、先端の細い筆記具。どれもいつもの場所にある。見えなくても迷わず手が届くよう、長い時間をかけて整えてきた配置だった。
その机の上へ、厚手の紙を一枚置く。
ロゼッタへ、何か残したかった。
会いたい。
早く戻ってきてほしい。
無理はしないでほしい。
そうした言葉はいくらでも浮かぶ。だが、そのどれもが、今の彼女の選択へ寄りかかりすぎる気がした。
指先が、板の端で止まる。
(狭めたくない)
帝国へ行くと決めたのは彼女だ。
試されると知っても退かず、自分の意志で隣を選び返すために向かった。
ならば自分が迷うべきなのは、どう書くかではない。
何を残すかだ。
青と金の衣装を送ったときも、この文字を使った。
二人だけの秘密の文字で、短い一文を添えた。今さら、そこに躊躇う理由はない。
ルチアーノは一度だけ、紙へ点を打ちかけて止めた。
会いたいと刻みかけたのだと、自分でもすぐにわかった。
違う。
それでは、自分の願いを優先しすぎている。
もう一枚、紙を引き寄せる。
板へ固定し、裏から静かに点を打つ。
一つずつ、確かめながら。
急がない。乱さない。短い文なら、もう指が覚えている。
打ち終えて紙を返し、表へ浮いた点をゆっくりとなぞった。
――急がなくていい。帰る場所は整えてある。
それだけを、あのときと同じ文字で刻んだ。
会いたい、とは書かなかった。
待っている、とも、書き足さなかった。
戻る場所を消さずに残す。
今の自分が差し出せるのは、それで十分だと思った。
ルチアーノは指先で点の並びをもう一度確かめてから、小さく息をついた。
「ニコラス」
呼ばれて入ってきたニコラスが、机の上の紙へ気づく気配がした。
「これをロゼッタへ。外封だけ整えてくれ」
「かしこまりました」
内容を問う声はない。それでよかった。
扉が閉まったあと、ルチアーノは机に残った板へそっと手を置いた。
帝国で、ロゼッタは自分の立つ場所を勝ち取ろうとしている。
王国で自分がするべきことは、ただ願うことではない。
彼女が帰ってきたとき、選べる場所を残しておくことだ。
その夜、離宮の灯りは遅くまで消えなかった。
帝国でロゼッタが前へ進む間、王国ではルチアーノが、帰る場所を一つずつ整えていた。




