61 失敗のあとで書いた草案
翌朝、ロゼッタは講義が始まるより早く部屋を出た。
昨夜はほとんど眠れていない。頭は重いのに、やるべきことだけははっきりしていた。
まだ人の少ない回廊で、女官長代理の姿を見つける。彼女はその日の予定を書いた板を確かめているところだった。周囲に他の女官はいない。
ロゼッタは足を止め、深く頭を下げた。
「お話ししたいことがございます」
女官長代理は板から目を上げ、小さく頷いた。
「ここで聞きます」
それを確かめてから、ロゼッタは口を開いた。
「昨日の件で、お願いがございます。あの女官補佐の方へ、私的にお詫びを申し上げたいのです。人前ではなく、もしご迷惑でなければ、静かなところで」
女官長代理はすぐには答えなかった。ロゼッタの顔を見て、それから周囲を一度だけ確認する。
「会うかどうかを決めるのは、あの者です」
「はい」
「私から取り次ぎます。返事があるまで、あなたは何もしないこと」
「承知いたしました」
女官長代理はそれだけ言うと、しっかりした足取りで去っていった。
ロゼッタはその場で、そっと息をつく。
(これ以上、私の都合で動いてはいけない)
謝りたい気持ちが本物でも、それを押しつければまた同じことになる。今度は、相手の判断を待たなければならなかった。
◇ ◇ ◇
その日の昼前、講義の移動の合間だった。
廊下で呼び止めた女官長代理が、周囲に人がいないのを確かめてから告げる。
「昼の休みに、第三記録室へ行きなさい。短い時間なら、会えるそうです」
「ありがとうございます」
「あの者の名はイレーネ補佐です。詫びることと、許しを求めることを混同しないように」
「はい」
ロゼッタは背筋を伸ばしたまま頷いた。
◇ ◇ ◇
昼の休みに通された第三記録室は、小さな部屋だった。
棚に古い帳面が並び、机の上には札の束と記録帳が置かれている。人目はないが、閉ざされすぎてもいない。謝罪の場としてちょうどよかった。
イレーネ補佐は窓際の机の前に立っていた。昨日と同じく髪をきっちり結い、姿勢も崩れていない。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
ロゼッタは扉のそばで礼をした。
「昨日は、確認もせずに近づきました。帳面へ触れ、札を読み上げ、人前で役目へ手を出しました。イレーネ様の面目を傷つけました。申し訳ございませんでした」
言い切ってから頭を下げる。
昨日の夜、何度も書き直したからこそ、言い訳せずに済んだ。
少し間を置いて、イレーネ補佐が言う。
「顔を上げてください」
ロゼッタが顔を上げると、イレーネ補佐は静かな目でこちらを見ていた。
「謝るべきことを、ずらさずに言えたのは結構です」
その一言で、胸の奥がひりつく。許されたわけではない。だが、謝罪としては受け取ってもらえたのだとわかった。
ロゼッタは逡巡してから、昨夜書き散らした紙束を胸元から取り出した。
最初の一枚には自分への戒めを、後ろの紙には思いつくまま書き留めた段取りや工夫がある。
「……昨夜、自分が何を誤ったのかを中心に、思いついたことを書きつけました。まだ私の覚え書きでしかありませんが、もし差し支えなければ、お目通しいただけますか」
イレーネ補佐は紙束を受け取り、最初の一枚へ目を走らせる。
『確認をする前に、手を出さないこと』
『人前で役目を奪わないこと』
『助ける形は、相手が選べるように差し出すこと』
『困りごとを支えることと、できない者として扱うことは違う』
そこまで読むと、イレーネ補佐は次の紙にも目を移した。
薬瓶や文箱の印、物の置き方、補助に入る順、呼びかけの仕方。短い文が、まだ整理されぬまま並んでいる。
「戒めとしては悪くありませんし、細かな工夫も書いてありますね」
その一言に、ロゼッタは少しだけ息をつく。だが、続く声はやはり穏やかで厳しかった。
「ですが、まだあなた自身の覚え書きの域を出ておりません」
「……はい」
「思いついたことは並んでいます。けれど、どういう場で、誰の判断を残すための補助なのか、その筋が立っていないのです」
ロゼッタは言葉を失う。
その沈黙のまま、イレーネ補佐は机の上の札を手に取った。
「昨日のあなたは、私が困っているように見えたのでしょう」
「……はい」
「実際、目は若い頃より利きません。夕方になると疲れも出ます」
そこまでは、ロゼッタの見立ても外れてはいなかった。
けれどイレーネ補佐は、札を一枚ずつ机へ並べる。
「西列の札は左上を、南列の札は右下を、ほんの少しだけ変えています。手元で触れればわかるようにしているのです」
ロゼッタは思わず息を呑んだ。昨日は気づきもしなかった。
イレーネ補佐は今度は記録帳を開く。
「こちらも、よく使う頁には細いしおりを挟んでおります。昨日、私の指が止まっていたのは、朝の訂正をもう一度確かめていたからです」
その説明で、昨日の光景が別の形で見えてきた。
手間取っていたのではない。急がず、確認していただけだったのだ。
(私は、確かめもせずに、助けるべき場面だと決めつけた)
その事実が、昨日より重くのしかかる。
「……見当違いをしてしまいました」
「ええ。けれど問題はそこだけではありません」
イレーネ補佐の声は終始落ち着いていた。
「助けが要らないのではないのです。必要なときはあります。ですが、その形を選ぶのは私です」
ロゼッタは小さく頷く。
「人前で帳面を取られれば、その場だけでは済みません。次からは、あの仕事を私へ回さぬ方がよいのではないか、と見られるかもしれないでしょう」
それが、この宮廷で傷になる。
できないと決めつけられること。
役目を外されること。
しかも、本人の意思とは関係なく。
「王国で近しい誰かに仕えるのなら、先回りが助けになる場もあるのでしょう」
イレーネ補佐は言った。
「ですが宮廷では、役目と立場が先にあります。よかれと思っても、人前でその線を越えれば、支えではなく横取りになります」
ロゼッタは昨夜の紙束を見つめる。
自分の誤りは書いた。けれど、まだ足りない。それでは次に残らない。
「……この続きを書き足しても、よろしいでしょうか」
ロゼッタは慎重に尋ねた。
「私の反省で終わらせずに、どうすれば役目を傷つけずに手を貸せるのか、教えていただいたことを書き留めたいのです」
イレーネ補佐は返す前に、もう一度だけ紙束へ目を落とした。
「構いません」
そして、紙束をロゼッタへ返す。
「ただし、気の毒だから助ける、という文にはしないことです」
「はい」
「役目を続けるための補助と書きなさい。判断を残すための支えと」
その一言で、何を書くべきかがはっきりした。
さらにロゼッタは問いを重ねる。
「もし昨日の私が、本当にお役に立ちたいと思ったなら、どうするべきだったのでしょうか」
「その場では触れないことです」
きっぱりした返答だった。
「どうしても気になるなら、人のいないところで一言尋ねるか、女官長代理へ『確認役が要るようでしたらお申しつけください』と伝えることです。補助へ入る者を誰にするかも、役目のうちですから」
「本人に直接ではなく、上役へ通すこともあるのですね」
「ええ。宮廷では、その方が立場を守れることがあります」
助ける。
確かめる。
上役を通す。
役目を守る。
ばらばらに見えていたものが、ようやく一本に繋がった。
「覚えていてください」
イレーネ補佐は帳面を閉じた。
「支えは、親切な人がその場にいて成り立つ形にしてはいけません。物の置き方、補助の入り方、確認の順。誰が来ても、大きく揺れぬように整えるのです」
ロゼッタは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「詫びを受け取ったから教えたのではありません」
イレーネ補佐は柔らかい声音で言った。
「次に同じことを起こさないためです」
その一言まで、ロゼッタは忘れまいと胸に刻んだ。
◇ ◇ ◇
その夜、ロゼッタは昨日の紙束を机の上へ広げた。
最初の一枚は、自分の誤りを忘れないためのものだ。
それは消してはいけないと思った。
けれど、それだけでは足りない。
ロゼッタは新しい紙を重ね、その下へ綴っていった。
『役目を続けるための補助について』
そこから、昼に教わったことを書き足していく。
『本人が選べるよう、人目のないところで確認すること』
『必要であれば、上位者を通して補助へ入ること』
『盆、帳面、薬瓶、文箱の置き場を一定にすること』
『札や印には、触れてわかる違いを持たせること』
『最後の確認を、できる限り本人の手元へ残すこと』
書きながら、何度も筆が止まった。
大事なのは、助ける側の善意ではない。
見えにくさや疲れやすさがあっても、その人が自分の役目を続けられる形を残すことだ。
さらにロゼッタは別の紙を引き寄せた。
『視覚による読字に頼らぬ方法について』
前世で知っていたことを、今の知識で書けるところまで書く。
点や凹凸を並べ、指で触れて読む方法があること。
まだこの国にはないが、学びや私的な確認の助けになりうること。
ただし、それを最初から密書や軍事へ回してはならないこと。
便利なものほど、強い者の都合へ流れやすい。
本当に必要な人の手へ届く前に、別の目的へ使われてしまう。
それだけは嫌だった。
前世の弟も、今世のルチアーノも、見えないことで判断まで取り上げられそうになったことがある。だからこそ、そこに譲れない線を引くことを決めた。
◇ ◇ ◇
二日後の夕方、ロゼッタは紙束を持って、再び女官長代理のもとを訪ねた。
今度も周囲に人がいない時刻を選んだ。これ以上、誰かの名を軽々しく表へ出したくなかったからだった。
「お目通しいただけますか」
差し出した紙束を、女官長代理はその場で読み始める。
最初の一枚で視線が止まった。
「これは、あなた自身への戒めですね」
「はい。最初に書いたものです」
「その続きが、こちらですか」
次の紙へ目を移し、女官長代理はしばらく黙って読んでいた。
別紙へ目を移した女官長代理が、一か所を指先で示す。
「ここです。『視覚に不自由を持つ者のため』では少し足りません。『視覚に不自由を持つ者が判断を続けるため』とした方がよいでしょう」
「……はい」
イレーネ補佐の言葉が、そのまま返ってきた気がした。
「他にも細かな直しはあります」
そう言って、女官長代理は紙束を閉じる。
「ですが、最初は反省文だったのでしょう。それがここまで整うなら、しまっておくには惜しい」
「……では」
「女官局だけでなく、実務の方へも回します」
「実務へ……?」
思わず聞き返すと、女官長代理は頷いた。
「見て、誤り、直し、それを残る形へ変えられるか。あなたが見られているのは、そういうところでもあるのでしょう」
ロゼッタは紙束を見つめた。
始まりは、一つの失敗だった。
それが今、誰かの仕事を少しでも守る形になるかもしれない。
「ありがとうございます」
そう言うと、女官長代理は首を横に振った。
「礼は要りません。使えるから残すだけです」
その言い方が、かえってありがたかった。
◇ ◇ ◇
さらに数日が過ぎた。
講義は相変わらず厳しい。礼法も、陪席作法も、財の記録も、少し気を抜けばすぐに指摘が飛ぶ。
その合間に、ロゼッタは返ってきた修正を反映し、草案を整え直した。
帝都へ来て十日が近づく頃には、自分が見られているものが、礼法や作法だけではないこともわかり始めていた。
見て、誤り、学び、直し、それを残る形へ変えられるか。
そのあたりまで含めて、帝国は試しているのだ。
(次は、何を見られるのかしら)
そう思いながら、ロゼッタは整え直した紙束へそっと手を置いた。
失敗のあとで書いた草案は、もうロゼッタ一人の反省文では終わっていなかった。




