6 ひらひらと、とろみの温度
殿下が離宮に移ってから、数日が経った。
ロゼッタの胸の奥には、どうしても拭えない引っかかりが残っている。
それは、日々の訓練や会話とは別のところにあった。
――食事だ。
視力を失ったばかりの人にとって、食事は思っている以上に神経を使う。
器の位置、距離、スプーンの角度。
ほんの少しずれただけで、簡単にこぼれてしまう。
(……やっぱり、食べづらそう)
殿下は何も言わない。
給仕の侍女たちも、失礼にならないよう視線を落とすだけだ。
だが、王子という立場で、何度も衣服を汚すのは――きっと、殿下自身が一番気にしている。
食事のたびに、指先や肩に残るわずかな緊張にも、ロゼッタは気づいていた。
(それに……落ち着いて食べられていない)
そこまで考えた瞬間、答えは自然に出た。
(私が作ろう)
味よりも、食べやすさ。見た目よりも、安心。
料理人に任せるより、自分で調整した方が早い。
厨房を借りること自体は、難しくなかった。
問題は服装だった。
侍女服のままでは、火の傍で動きづらい。
そう思ってステラに相談すると、当然のように離宮に備えつけのメイド服を差し出される。
白いエプロンに、柔らかな布。
袖口だけでなく、肩口にも重なったフリルがあり、動くたびに軽やかに揺れた。
「可愛いでしょう?」
そう言われ、着替えて鏡の前に立ったロゼッタは、思わず瞬きをする。
(……可愛い)
自分で思って、少し恥ずかしくなる。けれど、不思議と嫌ではなかった。
(料理するだけだし)
エプロンの紐を結び直し、厨房へ向かう。
作ったのは、三品。
一つ目は、一口大に切り分けた柔らかい肉料理。
筋や骨をすべて除き、すりおろした玉ねぎに漬け込んでから煮てある。
二つ目は、刻み野菜と挽き肉の煮込み。
片栗粉でとろみをつけ、スプーンですくいやすくした。
三つ目は、根菜のポタージュ。
こちらもとろみをつけ、時間が経っても冷めにくい温度にしている。
皿は一枚ずつ。
縁が高く、深さのあるものを選んだ。
(これなら……)
ロゼッタは膳を整え、静かに息をついた。
◇ ◇ ◇
運ばれてきた食事の気配に、ルチアーノはすぐに違和感を覚えた。
音が違う。器が少ない。
湯気が、顔に当たらない。
「……いつもと違うな」
そう口にすると、近くから聞き慣れた声が返ってきた。
「私が作りました」
一瞬、意味を考える。
「……作った?」
「はい。食べづらそうでしたので」
淡々とした口調だった。まるで、当然のことを言うように。
(侍女は、料理を作らない)
王族に出す料理なら、なおさらだ。
「……驚いた」
正直な感想だった。
「味は、たぶん普通です。でも、スプーンですくいやすいと思います」
示された位置にスプーンを動かすと、すぐに中身に触れた。
迷わない。こぼれない。
一口、口に運ぶ。
温度が、ちょうどいい。味より先に、安心が来た。
「……ありがとう」
「よかったです」
その声が、少し近い。
そこで、布の音に気づいた。さらり、と柔らかな布が動く。
「……その服は」
「これですか?」
どこか楽しそうな声が返ってくる。
「メイド服です。可愛いですよね」
そう言いながら、ロゼッタがわずかに身じろぎした。その拍子に、袖口の布が指先の近くをかすめる。
「フリル、わかりやすいかなと思って……触ってみますか?」
彼女はそう言って、ためらいもなく腕を差し出した。
歩行訓練のときと、同じ距離、同じ位置に。
反射的に、ルチアーノの身体が動いた。考えるより早く、訓練の癖で手を伸ばしてしまう。
(……しまった)
触れてから、ようやく気づいた。差し出された腕に、そっと触れたまま、ルチアーノは言葉を失う。
ひらひら。
柔らかい布の感触。袖口。肩口。
フリルの説明は続くが、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。ロゼッタは完全に無自覚で、それがなおさら厄介だった。
だが次の瞬間、彼女がはっとしたように声を上げる。
「あ、申し訳ございません。殿下、スープが冷めてしまいます」
すぐに手が離れ、距離が戻る。
食事を優先する、迷いのない判断だった。
ルチアーノは、わずかに残った感触を意識してしまう。
(……訓練じゃない)
まったく必要ではない行為だった。
ただ、ロゼッタの嬉しそうな声につられて手を出してしまっただけだ。
もう一口、料理を口に運ぶ。柔らかく、こぼれない。
安心して食べられることが、かえって胸を落ち着かなくさせた。
(……勝てる気がしない)
そんな結論を、誰にも知られないように飲み込みながら、ルチアーノは静かに食事を続けた。




