3 ニコラスだけが残った世界
闇魔法の夜から、数日が過ぎていた。
王宮の朝は、人の足音が多い。廊下を渡る靴の硬さ、扉の開閉、布が擦れる気配が重なり、今朝に限っては落ち着きを欠いていた。誰もが平静を装っているが、視線だけが先を読もうとしている。
ニコラス・サルヴィは医務室の前で足を止めた。髪の間から覗く耳は、人間のものよりわずかに長く、だが典型的なエルフほど誇張されてはいない。濃紺に近いネイビーの髪を後ろでまとめ、片側だけ編み込んだ三つ編みが肩へ落ちている。穏やかな表情のまま、紫がかった瞳は周囲の気配を拾い続けていた。
外見だけを見れば、人間の貴族とそう変わらない。だがニコラスはハーフエルフであり、その身体は人より長い時間を生きている。もっとも、その事実を誇るつもりはなかった。長命であることは、見送る数が増えるというだけだと、本人は理解していた。
扉の向こうから、医師と魔術師の声が聞こえてくる。
「遮断は続いています。光属性でも反応がありません」
「闇魔法が魔力経路に深く絡んでいる、という見立ては変わらない」
ニコラスは扉を叩き、許可を得て中へ入った。寝台の端に座る少年が顔を上げる。淡い金髪は整えられているが、視線は一点を結ばない。海のような青い瞳は澄んだまま、焦点だけが合わず、光を映していなかった。
それでも背筋は崩れていない。姿勢には、倒れることを拒む意思が残っている。
「ニコラス」
名を呼ばれ、ニコラスは一歩だけ前に出た。近づきすぎれば、殿下は空間を把握しづらくなる。離れすぎても、声が届きにくい。殿下の判断が切れない位置を選ぶ。
「こちらにおります、殿下」
「変化は」
問いは簡潔だった。感情を含まない問い方だが、状況を理解したうえで投げられている。
ニコラスは殿下の顔に意識を向ける。
(――少なくとも、私が現時点で知っている限りでは。闇魔法による視神経の損傷は、治癒魔術の領域を超えています)
内心でそう結論づけながら、口にする言葉は選んだ。
「回復の兆しは出ておりません。ただ、現状の把握は十分できておられるかと」
医師と魔術師が退がり、部屋には二人だけが残った。扉の閉まる音が遠ざかると同時に、誰も口にしない言葉が、廊下の外で形を持ち始めていた。
王太子の席は空いている。執務は止まり、挨拶は減り、話題は遠回しになる。殿下がそれを知らないふりをしているのではなく、すべて理解したうえで言葉を選んでいることを、ニコラスは知っていた。
「離宮の件は、どうなった」
「決まりました。本日中に準備を進めます」
殿下の呼吸が変わる。落胆ではない。受け容れるための呼吸だった。
「……妥当だな」
「はい」
慰めに聞こえる言い方はしない。殿下は慰めを必要としていない。必要なのは、判断に足る材料だ。
ニコラスは机上に置かれた一本の杖へ手を伸ばした。黒い柄に、蛇の意匠が彫られている。装飾として美しいだけではなく、指先で形を確かめやすい凹凸があり、握り直した際に向きがわかる。
「殿下。こちらをお渡しします」
「杖か」
ルチアーノは右手を差し出す。ニコラスは引っ張らない角度で、柄をそっと手の中へ戻した。殿下の指が意匠をなぞり、重みを確かめる。
「……思ったより、しっかりしている」
「支えるためのものではありません。殿下が先に世界を確かめるためのものです」
その言葉を口にした瞬間、ニコラスの胸の奥に、別の時間が重なった。
遠方の小国から嫁いだ王女がいた。華美ではないのに、一目で正妃だとわかる品格を持ち、声を荒らげず、感情で人を動かさない。淡い金色の髪と澄んだ青の瞳は、息子とよく似ていた。
ソフィア前王妃だ。
旅の途中で出会ったときも、彼女は同じだった。異国の風の中で、周囲を見下ろさず、怯えも誇りも前に出していなかった。出身も寿命も違うのに、話をすれば価値観が重なった。「人を役割で縛らない姿勢」が、彼女には最初から備わっていた。
ニコラスはソフィアに同行する形で王国へ来た経緯を持つ。王宮は居心地の良い場所ではなかったが、彼女の隣では判断が揺らがなかった。
そして、病室の記憶がよみがえる。
ルチアーノの出産後ほどなく、ソフィア前王妃は、静かに命を削っていた。取り乱しもなく、最期まで王妃としての姿勢を崩さなかった。
寝台に横たわるソフィア前王妃は、ニコラスを見上げて言った。
『……お願いが、あるの』
弱い声だった。だが、芯は折れていなかった。
『あの子が……王子であることを失いそうになったら……立場も、力も……見える世界も、何もかもが変わってしまっても……』
細く途切れがちな声音に、ニコラスは真摯に耳を傾ける。
『それでも、あの子があの子のままでいられるように……世界の方を、守ってあげて』
祈りではない。親友から託された願いだった。ニコラスだけに残された役割だった。
ニコラスは現実へ意識を戻し、殿下の手元を見る。ルチアーノは杖を床へ当て、感触を確かめるように動かしていた。音より先に返る反発が、殿下の呼吸を支えている。
「離宮へ行けば、すべてが解決するわけではない」
「はい。ですが、殿下の判断が切れにくい場所を選べます。ここよりは」
殿下が頷く。声は淡いまま、言葉だけが鋭い。
「敵は、王宮の中にいる」
「はい。離宮でも、王宮と繋がる線は残します。切り離しません」
ニコラスは机上の文書に指先を置いた。離宮の配置、人員、動線。増やしすぎれば混乱し、減らしすぎれば追い詰める。殿下の生活が回り、同時に政治の線が途切れない数を、ニコラスは何度も見直していた。
「殿下、私は決断を代行いたしません。ただ、決断できる材料は揃えます」
「それでいい」
返答に迷いはなかった。
「……ニコラス」
「はい」
「私の目は、戻るか」
「可能性は残ります。ただ、待つだけでは進みません。殿下が選べる状況を作り、そのうえで進めます」
ルチアーノが笑った気配がした。自嘲ではない。前へ進むための笑いだった。
「ならば、動くしかないな」
「はい。動きましょう」
ニコラスは頭を下げた。穏やかな表情は崩さない。それでも一歩も退かない。殿下の隣に立つためではなく、殿下の世界が途切れないように、危険を前へ残さないように、今日も動く。
こうして、闇魔法により王宮から追放された第一王子の傍には、すべてを知る者が残った。
ニコラス・サルヴィは、嘆くためではなく、逆転のために手を打つ者だった。




