20 マリア・アルベルティ――前に出ない覚悟
回廊を歩いていると、前方から杖の音が聞こえてきた。一定で、迷いがない。その半歩前には、軽い足取り。
「段差はありません。ゆっくり右へ曲がりますね」
ロゼッタの声は明るく、急かさない。
殿下は短く返事をして、いつも通りに進む。
すれ違いざま、ステラは足を止めた。
距離、順番、声の調子。どれも、もう出来上がっている。
(……介助? ええ、形式上は)
杖の音が遠ざかる。
殿下の歩調は安定しているが、ロゼッタに対する言葉だけが、ほんの少し柔らかい。
(わかりやすすぎるでしょう)
本人は気づいていない。たぶん、気づかないつもりでいる。
(まあ、悪いことじゃないわね)
そう思って、何も言わずに通り過ぎる。
回廊には、杖の音と衣擦れだけが、穏やかに残っていた。
◇ ◇ ◇
回廊の角で、マリア・アルベルティは足を止めた。
盆を抱えたまま、半歩だけ身を引く。人が通れば自然に譲れる距離。声は届き、気配は拾えるが、視線を奪わない。
下働きの頃から、身についた立ち位置だった。
向こうから、杖の音が聞こえてくる。
一定の間隔。床を確かめてから、足が続く。
揺れていない。
(……もう、大丈夫なんだ)
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
安心より先に、別の感情が浮かんでしまう。
――自分が、必要でなくなったわけではない。
けれど、もう「前に出る場所」は残っていない。
「殿下。右へ曲がったら、しばらく真っ直ぐです」
ロゼッタの声が届く。
明るいが、軽くない。相手を急かさない声。
「……わかった」
返事は短い。
だが、その声には迷いがなかった。
ロゼッタは半歩前を歩く。
殿下が止まれば止まり、曲がる前には必ず先に声をかける。触れ方も、触れない時間も、同じ調子で続いている。
(……敵わない)
視線を逸らしながら、はっきりそう思った。
技術だけの話ではない。
殿下の世界を、壊さずに支えられる人。それがロゼッタだ。
マリアは、そっと盆の縁に指をかけた。
――最初は、違った。
離宮に来た理由を、今ならはっきり言える。
(……綺麗な方だと思った)
王宮で見かけた、金色の髪。
整った顔立ち。静かな佇まい。
追放された盲目の王子という噂より先に、美しい王子様という印象が、心に残った。
助けたいと、役に立ちたいと思った。
でも――それは、憧れだった。
(殿下を見ていた。殿下の世界を、見ていなかった)
十六歳という年齢が、焦りを生んだ。
何かしなければ。今、役に立たなければ。ここに来た意味を、早く示さなければ。
だから、前に出て引っ張ってしまった。
扉の前で、声が遅れた。
殿下が杖で床を確かめる前に、自分の腕が先に動いた。
ほんの一瞬。けれど、その一瞬が、殿下の世界を揺らした。
「――やめろ」
あの声は、今も耳に残っている。
怒りではなく、拒絶でもない。
(……怖かったんだ)
転ぶことが、ではない。判断する前に、世界を動かされることが。
それを理解したとき、胸の奥がひやりと冷えた。
(私は、殿下を助けたつもりで、奪った)
不意に、ステラ・バルトーネの声が隣から落ちてくる。
「……見てたの?」
「はい」
「相変わらず、同じ調子ね。あの二人」
評価でも、皮肉でもなく、事実を事実として受け取る声だった。
マリアは返事に詰まる。
今、自分が見ているものを、言葉にすると壊れてしまいそうだった。
(殿下じゃない)
見ているのは、殿下その人ではない。
殿下の周りに、きちんと築かれた距離と順番だ。
「それ、朝の分?」
ステラが盆を見る。
「はい。控えに置くようにと」
「場所、わかる?」
「……はい」
即答してから、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
まだ、役に立ちたいと思っている自分がいる。
ステラは笑わない。代わりに、軽く言った。
「前に出ない方が、役に立つときもあるわよ」
その言葉は、否定ではなく、逃げ道でもない。選択肢だった。
マリアは回廊の先を見る。殿下とロゼッタは、もう角を曲がって見えない。
残っているのは、杖の音の余韻だけ。
(……それでも)
胸の奥で、静かに思う。
敵わない。同じことはできない。けれど――役に立ちたい。
憧れのまま、近づくのではなく。
(私は、前に出ない。殿下の隣ではなく、殿下の一日を守る側に立つ)
マリアは踵を返し、控室へ向かった。足音を立てすぎず、迷わない歩幅で。
控室は、人が集まる場所だ。
会談の前後。執務の合間。
侍従や侍女、下働きが行き交い、言葉の端が零れる。
衣装の色。持ち物の新旧。声の張り。笑いの硬さ。
王宮で下働きをしてきたから、わかる。
こういう細部が、状況を語る。
器を置き、布を整えていると、低い声が耳に滑り込んできた。
「……第二王子殿下、最近やけに動いているらしいな」
「側近の顔ぶれも、少し変わったとか」
「新しい外套、あれは王宮仕立てじゃないだろ」
マリアの手は止まらない。
だが、耳は確かに捉えていた。
(噂……でも、根拠はある)
衣装の仕立て。持ち物の変化。人の入れ替わり。
それらは、下働きには隠しきれない。
続く声には、笑いが混じった。
「第一王子が離宮にいる今が、好機だとでも思ってるんだろ」
「さあな……あの方は、昔から手が早い」
評価か、悪意か。その区別は、今はつけない。
(削ぐ。混ぜない。残す)
噂は噂として切り分ける。
だが、動きがあるという事実だけは、捨てない。
控室を出ると、廊下の空気がひやりとした。
離宮は静かだが、ここに届く話は、やがて殿下の生活に触れる。
(殿下の隣には立てない)
けれど。
(殿下の一日が壊れないように、支えることはできる)
判断するのは、ロゼッタ。前に立つのも、ロゼッタ。
自分は、その判断に必要なものを集める。
噂をそのまま渡さない。感情を削ぎ、事実だけを残す。
それなら、殿下の世界を乱さずに済む。
回廊の向こうで、また杖の音がした。遠いが、一定だ。
マリアは一度だけ、その音に耳を傾けた。
(……綺麗だと思った。助けたいと、思った)
でも、その感情を抱いたまま前に出てはいけないことだけは、わかっていた。
だから、役に立つ。
前に出ず、引っ張らずに、殿下の判断を守る形で。
盆を抱えた腕の力が、少し抜けた。姿勢が落ち着き、歩幅が揃う。
風が向きを変え、頬に冷たさが触れる。
マリアはそれを受け止め、前を向いた。
この離宮で、自分が本物の侍女になるための道が、ようやく、はっきりと見え始めていた。




