19 ロゼッタのリボン
回廊を進んでいる途中、床の反響がわずかに変わった。
硬い石の感触とは違うものが、靴底の下で逃げるように滑る。続いて、繊維が擦れる感触が足裏に残り、ルチアーノは反射的に足を止めていた。
「……待て」
理由を考える前に、身体が動いていた。
「殿下?」
半歩前にあった気配が揺れる。
「何か……落ちていたか」
一瞬の間のあと、ロゼッタが小さく声を上げた。
「……あ」
屈み込む気配と、床を探る控えめな音。
「すみません。髪留めのリボンを、落としていたみたいです」
その言葉で、状況がはっきりした。
薄い布は、見えていなければ踏むまで気づけない。
「……踏んだか」
事実をそのまま口にすると、返事が少し遅れた。
「……はい。ほつれてしまいました」
責める調子ではない。ただ状態を伝えているだけだ。
それが、なぜか胸に残る。
(……私が、駄目にした)
取り返しのつかないことではない。
それでも、先ほどまで彼女が身につけていたものを、自分が踏んだという感覚が、足裏から離れなかった。
「……すまない」
短く告げる。
「大丈夫です、殿下」
声はすぐに、いつもの明るさへ戻る。
「元々、使い込んでいましたし。新しいものを用意します」
その軽さが、逆に引っかかった。
代わりはある、という理屈では足りない。
「……少し待て」
ルチアーノは立ち止まったまま言う。
迷いはなかった。
「代わりを、用意する」
ロゼッタが息を呑む気配がする。
「殿下、それは――」
衣の内側、胸元に結ばれていたタイへ指を伸ばし、布の感触を確かめながら慎重に外した。見えていた頃から身につけていた、青地に金の刺繍のタイ。自分の色だということを、今もはっきり覚えている。
「これを、代わりに」
位置を言葉で示し、差し出す。それ以上の理由は言わなかった。ロゼッタはすぐには受け取らず、距離が微かに揺れる。
「……私には、もったいないものです」
「私が駄目にした。だから、代わりだ」
理由は、それで十分だった。
少し遅れて、手が伸びる。
指先が触れ、布の感触を確かめる。
「……ありがとうございます」
声が、いつもより少し近い。
その距離が、妙に強く印象に残った。
◇ ◇ ◇
数日後、執務机の上に布が置かれる気配がした。
「殿下、少し手を加えました」
差し出されたのは、あのリボンタイだった。
布地は同じだが、縁の一角に、指先に引っかかる小さな凹凸がある。
指でなぞり、すぐに理解した。
「……あの文字か」
「はい。糸で、一針ずつ刺繍しました」
ロゼッタは、少しだけ言葉を足す。
「布が薄いので、裏に芯を当てています。触れたとき、わかるように」
小さな点の並びは、触れれば読める。
『rosetta』
最初に覚えた読み。自分が、真っ先に覚えた名前だった。
「殿下からいただいたものですから。私のものだと、わかるようにしました」
所有を主張する言葉はない。
それでも、そこには確かに、彼女の意思が縫い留められている。
(……贈ったものに、二人だけの印を)
代替ではない。これは、彼女が選び、考え、時間をかけて仕上げたものだ。
ルチアーノは、リボンを握り直した。
自分の色の中に、彼女の名前がある。触れれば、迷わずわかる。
その事実が、胸の奥で静かに重みを持つ。
(……これは、まずい)
理由を言葉にする前に、結論だけが先に浮かぶ。
行動が、思考を追い越しかけている。
ルチアーノは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
(……落ち着け)
まだ、名を与える段階ではない。だが、もう元には戻れない。
その境目に、今、自分は立っている。




