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盲目王子の専属侍女── 一歩先を導く侍女と追放王子の逆転劇  作者: チャーコ


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11 二人だけの秘密の文字

 執務机の前で、ルチアーノは指を止めていた。紙はそこにある。封蝋の形も、紙質の違いも、触れれば判断できる。それでも、そこに並んでいるはずの文字はどうしても読めない。


 聞けば理解できる。口頭で説明を受ければ判断も下せる。それでも――自分で確かめられない。その事実が、想像していた以上に重くのしかかっていた。


「以上です」


 報告を終えた文官が一礼し、衣擦れの音とともに部屋を出ていく。扉が閉まる気配を聞きながら、ルチアーノは小さく息をついた。机の向かいに、一定の距離で人の気配がある。


「……ロゼッタ」

「はい、殿下」


 即座に返ってくる声は、いつもと変わらない。やがてルチアーノは口を開いた。


「……書類が、読めない」


 淡々と事実を述べる。弱音でも愚痴でもなく、現実をそのまま告げただけだった。


「読めなくなったこと自体より……確認できないのが、不便だ」


 ロゼッタは、すぐには答えなかった。一拍置いてから、穏やかに言う。


「そうですね。殿下は、ご自身で確かめることを、とても大切になさいますから」


 その通りだった。だからこそ、失われた感覚が、じわじわと効いてくる。ロゼッタがわずかに姿勢を変えた気配がした。距離は保ったまま、声の高さが落ちる。


「……一つ、提案があります」

「提案?」

「はい。殿下の判断の邪魔にならない範囲で、ですが」


 いつも通りの前置きだった。決して先に決めず、選ぶ余地を残す。


「こういう……触覚で読む文字があります」


 机の上に、通常の紙よりも少し厚みのあるものが置かれる気配がした。


「膨らみを、指で読むものです。ただ……習得は簡単ではありません」

「簡単ではない?」

「覚えるのに時間がかかります。すぐに役に立つものではありません」


 勧める口調ではなかった。使うかどうかは、こちらに委ねている。ルチアーノはゆっくりと指先を伸ばした。小さな点が、規則的に並んでいる。ひとつひとつは単純だが、意味はまだ見えてこない。触れても、すぐには形として結ばれず、指先だけが行き場を探す。


「……二人だけの練習で使う、というのは」

「可能だと思います。少なくとも、王宮では一般化していない仕組みですから」


 二人だけ。その言葉に、特別な意味はないはずだった。それでも、胸の奥が微かに揺れる。


「覚えるとしたら……どう始める?」

「最初に覚えたい文字を、決めるのがいいと思います。たくさん覚える必要はありません。一つずつで」


 最初に覚えたい文字。数字でも、役職名でもない。頭に浮かんだのは、短くて、迷いようのない音だった。


「……名前でも、いいだろうか」

「はい。もちろんです」


 本来なら、自分の名を言うはずだった。だが、口から出た音は違った。


「……ロゼッタ」


 一瞬、空気が止まる。ロゼッタは驚かず、笑いもしない。ただ、少し考えるように間を置いた。


「長いですね」


 その一言で、張りつめていたものが、ふっと緩んだ。


「では、今日は『r』からにしましょうか。最初の一文字です」


 指先に、ロゼッタの気配が近づく。触れない距離を保ったまま、配置だけを言葉で示す。


「ここが、左上です」


 確かに、点があった。ルチアーノはゆっくりと指を動かす。戻って、もう一度なぞる。『r』の形が頭に入るまで、何度も確かめる。


「……これで、合っているか?」

「はい。今は、それで大丈夫です。続けて読まなくていいですよ。一文字ずつで」


 進んでいくうちに、指先が迷い始める。


「……おかしい」

「どこが、でしょう」

「順番が……」


 ロゼッタはすぐに訂正しなかった。指の動きを静かに追ってから、言う。


「今は、読めていれば十分です」


 失敗とも間違いとも言わない。ただ、当然のこととして受け止める。ロゼッタは、やり直しを強いない。


「今日は、ここまでにしましょう。覚えすぎると、指が疲れてしまいますから」


 机の上に残る、小さな点の並び。意味はまだ曖昧だ。それでも、同じ配置を何度か触れるうちに、指先が少しずつ覚え始めていた。離してから、もう一度なぞる。並びは変わらない。


 少し間を置いて、ルチアーノは小さく息をついた。


「……読めた」


 それは、たった一語だった。けれど確かに、触れてわかる言葉だった。


rosetta(ロゼッタ)


「はい。……初めてにしては、十分すぎるくらいです」


 ロゼッタはそれ以上何も言わなかった。喜びを表に出さない。その代わり、距離も変えない。


 点は逃げず、触れればそこにある。世界がほんの少しだけ、手の内に戻ってきた気がした。二人だけの秘密の文字として。


 ◇ ◇ ◇


 廊下の向こうで、ニコラス・サルヴィは足を止めていた。


 扉越しに聞こえたのは、声ではない。

 紙の擦れる音でも、椅子の軋みでもない。


 ——わずかに、呼吸の調子が変わった。


(……読めましたね)


 触覚で読む文字という発想は、ニコラスの知識にはなかった。

 だが——。


(最初に読んだ言葉が、彼女の名前、ですか)


 それは訓練ではなく、教育でもない。

 ()()()()()()()()だ。


 ニコラスは表情を変えないまま、静かに踵を返した。


(判断を奪わない支援とは——こういう形になるのですね)


 この文字が、いつか国益になる可能性はある。だが今は、触れない方がいい。


 今はただ、殿下が自分の力で「世界を一語、取り戻した」という、その事実だけで十分だった。

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