12 ジャミル・ナディール――沈黙の夜
夜の離宮は、余計なものが少ない。
灯りは等間隔に配置され、巡回の足音も抑えられている。だからこそ、動きは隠せない。
回廊の外側で、ジャミル・ナディールは足を止めていた。
離宮へ続く通路を正面に捉えつつ、灯りの外側に身を置く。そこは死角ではなく、近づく者に意識させる位置だった。
ジャミルは孤児院育ちである。
王都近郊の孤児院にいた幼い頃から、空間の把握と反射的な動きに突出した才を示し、それを見抜いたニコラス・サルヴィに拾われた。
保護と同時に剣を与えられ、型だけでなく、間合いと判断を身体に叩き込まれてきた。
今、彼が任されている役目は明確だった。
第一王子を守ることではない。
離宮という場所で、ルチアーノが自分で止まり、自分で進み、自分で選べる生活が、外側から壊されないように整え続けることだった。
黒髪は夜に溶けるように落ち、月明かりを受けても艶を主張しない。
細身の身体は無駄がなく、肩から背へかけての線が黒衣の下で引き締まっている。立ち姿だけで、長く鍛え抜かれた身体であることがわかった。
雲間から月が覗いた瞬間、琥珀色の瞳が淡く光を宿す。
温度を感じさせない輝きで、異国の色を帯びた眼差しだった。整った顔立ちではあるが、親しみやすさはない。近づく前に、理由もなく距離を取らせる種類の容貌だ。
(……来ている)
気配は消されているが、消え切ってはいない。
立ち止まった時間、通路の端で揺れた影、風向きの変化。どれも、離宮の警備状況を探るために送り込まれた者の動きだった。
数刻前、ニコラス・サルヴィから届いた指示が脳裏に浮かぶ。
「王宮側が、離宮の動線を探り始めています。今夜は、外から抑えてください」
理由は聞いていない。
内側はすでに安定している。だからこそ、触れられるとすれば外側だった。
(触れるなら、ここだ)
ジャミルは通路の端へ移動し、あえて気配を隠さず立った。
剣には触れない。抜く段階ではない。
ほどなく、人影が現れた。
侍従でも兵でもない。夜の離宮に正当な用があるように装った男だった。
男は前に進まず、戻りもしない。
灯りの数を数え、通路の幅を確かめ、巡回の間隔を目で追っている。
(警備の薄い時間帯を探している)
ここで刃を見せれば、「敵がいる」と理解させてしまう。それでは遅い。
ジャミルは一歩だけ前に出た。距離が縮む。それだけの動きだった。
月明かりが、彼の顔を照らす。
黒髪の陰で、琥珀色の瞳がはっきりと見えた。
男の呼吸が乱れ、視線が逸れる。
その存在を認識した直後、直感的に「近づいてはいけない相手だ」と理解する瞬間だった。
(ここから先を見るな)
無言の威圧。
だが男は、焦りからか一歩踏み込んだ。
(……判断が遅い)
次の瞬間、床を滑る音もなく距離が消えた。
正面から入らない。半身で流し、重心が前に出たところを肘で制する。体勢が崩れた一拍の間に、鞘に収めたままの柄が、侵入者の喉元へ当たっていた。
剣は抜かれていない。それでも、逃げ場はない。
顎を押さえ、壁へ誘導する動きは静かだった。力は最小限だが、呼吸を止めるには十分だった。
ジャミルは顔を寄せ、低く告げる。
「ここは、立ち入る場所ではない」
それで足りた。
恐怖は、そのまま理解へ変わる。
柄を離し、一歩下がる。それ以上はしない。
男は何も言わず踵を返した。足音は早く、乱れている。二度と戻らない歩き方だった。
(斬る必要はない。近づけなければいい)
離宮の内側から、笛の音が聞こえた。
短く、揺れない音。日課の終わりを告げる合図だった。
ジャミルにとって守るべきものは、第一王子その人ではない。
殿下が自分の判断で立ち止まり、進み、選び続けられる、その環境だった。
だから排除すべきは、剣を振るう実行犯ではない。
離宮に近づいていいと思わせる、隙のある経路そのものだ。
ジャミルは通路を変え、別の動線へ向かった。
王宮側は理由を知らない。ただ、離宮が邪魔だと感じ始めている。
それは、最も危険な兆候だった。
黒髪と琥珀の光は、夜に溶ける。
沈黙の夜は、確かな警戒へと姿を変えていた。
◇ ◇ ◇
離宮の裏手で、マリア・アルベルティは足を止めていた。
夜風に紛れて聞こえたのは、剣戟でも叫びでもない。
ほんの短い緊張と、それが解けたあとの静けさだった。
(……今、空気が変わった)
理由はわからない。
けれど、危険が遠ざかったことだけは、はっきりとわかる。
マリアは一度、周囲を見回した。灯りの数も、巡回の足音も、さきほどと変わらない。
それでも、胸の奥に残っていたざわつきが、いつの間にか消えている。
(誰かが、前で止めたんだ)
名前は浮かばない。
だが、離宮にはそういう人間がいる。
マリアは息を潜めたまま、何事もなかったように歩き出した。
明日の準備は、滞りなく進められそうだ。
夜の離宮は、静かだった。そしてそれは、偶然ではなかった。




