10 夕暮れに響く横笛の音色
離宮の中庭に出た瞬間、ロゼッタは足を止めた。
茜色の夕暮れの中に、ルチアーノが立っていた。
中庭を見渡せる西向きの回廊に、沈みかけた陽が差し込んでいる。
その光を受け、彼の金髪は淡く輝いていた。夕日の色を映した金色が、輪郭を柔らかく縁取っている。
整った横顔。
青い瞳の焦点は定まらないはずなのに、姿勢は崩れず、立ち方に迷いがない。
(……やっぱり、綺麗な方だわ)
そう思ってしまい、ロゼッタは慌てて視線を逸らした。
ルチアーノは右手に杖を持ち、一定の距離を保って立っている。踏み込まないが、離れもしない。
「……ロゼッタ」
名を呼ばれ、胸がわずかに跳ねた。
「殿下」
反射的に頭を下げかけて、思い出したように止める。
「失礼いたしました。少しだけ音を――」
「笛の音が、自室まで届いていた」
淡々とした声だった。ロゼッタは小さく頷く。
「はい。アウレア笛です。横笛で……殿下の一日が落ち着く頃に、少しだけ吹くのが習慣になっていて」
腕に抱えているケースを持ち直す。
総銀製の繊細な楽器を守るため、内側に衝撃吸収材を仕込んだ、丈夫な容れ物だ。
「耳障りでしたら、すぐに片づけますが……」
「そうではない」
即答だった。
よく通る声には、ためらいが感じられない。
「ここは離宮だ。王宮ほど、形式に縛られる必要はない」
杖の先が、床を軽く叩く。位置を確かめる音だった。
「それに――」
一拍、間が置かれる。
硬質だった声に、微かに別の響きが混じった。
「音があると、落ち着く」
ロゼッタは、思わず彼を見た。
「……私の笛の音、でしょうか」
「ああ」
肯定の言葉に胸の力が抜けていく。
「誰が吹いているかわからない音では、意味がない。ロゼッタの音だから、安心できる」
(……え?)
一瞬、意味を取り違えそうになる。
特別だと言われたわけではない。
それでも――ロゼッタの音と、はっきり言われた事実だけが、胸に残った。
「上手いとか、下手だとか、そういう話ではない」
ルチアーノは続ける。
「息の入り方が安定している。間も一定だ。同じ時間帯に鳴る」
ロゼッタは、ゆっくりと理解した。
(……目印、なのね)
音は、彼にとって世界の位置を確かめるもの。
そして今は――自分の吹く音が、ルチアーノの基準になり始めている。
「……では、少しだけ吹きますね」
ロゼッタは自然に、そう言っていた。
ケースを開き、アウレア笛を取り出す。横笛の歌口に唇を合わせ、指をそっとキィに置いた。
一度、息を整える。
最初の音は短く、柔らかく響いた。
笛の音が廊下に触れ、壁に触れ、夕暮れの空気に溶けていく。
離宮は音を遮らず、静かに受け止めている。
ロゼッタは簡単な旋律を繰り返した。
飾らず、急がない。
途中で、杖の音が一度だけ鳴った。
位置を変えたのではなく、姿勢を整えた小さな動きだった。
吹き終えると、ロゼッタは笛を下ろす。
すぐに言葉はなく、沈黙の向こうでルチアーノの呼吸が深くなった。
「……やはり、澄んだいい音だ」
「ありがとうございます」
「褒めているわけではない」
そう前置きしてから、彼は静かに続ける。
「ここにいるとわかる音だ。考えなくても、今がいつもの時間だと理解できる」
その言葉に、ロゼッタの胸の奥がじんわり温かくなっていった。
(それって……)
気づきかけて、言葉にするのをやめる。
「また、この時間に吹きます。殿下の一日が、終わる頃に」
殿下の一日が、静かに終わりへ向かう時間。
「……ああ」
短い返事で、十分だった。
ルチアーノは近づかない。ロゼッタも、距離を詰めない。
けれど、その間に流れる空気は、もう同じではない。
ロゼッタの音が、ルチアーノの世界の目印になり始めた気がする。
そう思いながら、ロゼッタは笛をケースに収め、わずかに口元を緩めた。




