第82話 覆面の悪漢
英雄パルコの顔から血の気が引いていく。
自分の化けの皮が剝がれているの自覚し、身体を震わせていた。
パルコの顔には冷や汗が浮き出て、さっきまでの余裕ぶった色男の面影は、どこにもなかった。
……ここまで知っているということを、奴に理解させるだけで十分だろう。
「ふん。だが、俺はどうこうするつもりはない。ではな」
そう言って俺はパルコの前から興味を失ったように踵を返して歩き出した。
「あ、レヴォス様ぁ! 待ってくださいよ~!」
エルマがドーナツを両頬いっぱいに詰め込み、リスのように口を動かしながら慌てて後を追いかけてくる。
……実に騒がしいやつだ。
そして俺は再び喫茶店のテラス席に座り、ティーカップを傾けた。
だが、その時。
「おうおうおう! 何してやがるんだ!」
広場に突然、怒鳴り声が響き渡った。
その怒声に民衆がざわめき、視線が一点に集まる。
広場の真ん中に立っているのは、大柄な体躯の男。
覆面で顔を隠していて、素顔が分からない。
そして覆面の上からはみ出した特徴的な耳。
獣人だ。
……というか、こいつはネクタである。
「おう! そこの姉ちゃんたち、かわいいじゃねえか! ちょっとお茶でもしようぜぇ!」
ネクタが猛獣のような声を張り上げると、側にいる少女たちが悲鳴を上げた。
「きゃー! 助けてー! 襲われる―!」
ルナリアだ。
……顔が楽しそうで、笑みが口元からはみ出ている。演技が全くできていない。
「あ~れ~! どなたか助けておくんなまし~!」
クロエ。
なんだ、その喋り方は。どこで覚えた。
「え、えっと……た、助けてー! ……ください」
コレットだ。セリフがぎこちない。
語尾に丁寧語がつくのは、コレットの性格上、仕方がないのかもしれないが……
だが、それで充分だ。
ネクタの怒鳴り声と三人の悲鳴を聞きつけた民衆の目が、反射的に英雄パルコへと向いた。
だが、パルコにとっては問題が生じている。
今回の『悪漢』役はパルコの手下ではないのだ。
その問題に、パルコが焦っているのが遠目にも分かった。
いつもなら手下が暴れて自分が止めるという手順が、今日は完全に狂っている。
「パルコ様ー! がんばってー!」
民衆の中から、期待に満ちた叫びが上がる。
だが、その声の主は群衆に紛れたアンズだ。
「パルコ様、あの悪漢をやっつけてー!」
「俺たちのパルコ様ー!」
アンズの扇動に煽られるように、他の民衆も熱狂的にパルコの名を連呼し始めた。
民衆というのは、最初に声を上げた者に同調する単純な生き物だ。
「ふ、ふん! そこの君! その娘たちから離れたまえ!」
パルコは民衆の視線に耐えかね、震える足を叱咤して一歩踏み出した。
英雄としての地位を守るため、引くに引けない状況に追い込まれているのだ。
ネクタがゆっくりと振り返り、パルコを鋭い眼光で見下ろす。
「なに!? あの英雄パルコだと!?」
ネクタがわざとらしく怯える振りをして、大げさに後ずさった。
妙に演技が様になっているな……
だが、ネクタの腰砕けな様子を見て、パルコは『勝てる』と確信してしまったようだ。
パルコの顔から恐怖が消え、卑俗な優越感に浸った顔で拳を握りしめる。
「こ、これをくらいたまえ!」
パルコが全身の力を込めて、渾身のパンチを繰り出した。
ドン、と鈍い音が響く。
ネクタの岩のような胸板に拳が叩きつけられた。
だが……ネクタの身体は微動だにしない。
ネクタは冷ややかな、ゴミを見るような目でパルコを睨みつけた。
「あ……」
パルコの顔が、一瞬で蒼白に変わった。
自分の攻撃が全く通用していないという絶望に、全身から汗が噴き出している。
「あれ? パルコ様の攻撃が……効いていない?」
静まり返った広場に、民衆の不信感に満ちた呟きが漏れ始めた。
自分たちの英雄が放った一撃が、蚊に刺された程度の影響もないことに気づいたのだ。
その時、ネクタの巨大な腕が唸りを上げた。
バシーン!
ネクタの強烈な平手打ちがパルコの顔面に炸裂し、パルコの細い身体が盛大に吹き飛ぶ。
「ぐええっ!」
パルコは石畳の上を無様に転がり、もんどりうっている。
民衆の先ほどまでの歓声が、嘘のように消えている。
ネクタは倒れたパルコの胸倉を鷲掴みにし、虫ケラのように引きずり起こす。
「てめぇ! 俺に二度と逆らうんじゃねえぞ!」
「ひい! わ、わかりましたぁ! すみませんでしたぁ!」
英雄と崇められていた男が、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、悪漢に対して必死に命乞いをしている。
そのあまりに情けない姿に、民衆は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くした。
「けっ! 雑魚が!」
ネクタはパルコを地面に投げ捨てると、唾を吐き捨てて足早に去っていく。
残されたのは、惨めな姿で震えるパルコと、凍りついた広場だけだ。
しばらくの間、重苦しい静寂が続いた。
「……ゴ、ゴホン! ちょっと調子が悪かったみたいだ! だけど、もう大丈夫!」
パルコが何事もなかったような顔で、そう宣言した。
恐怖で裏返った声を無理やり抑え込み、何事もなかったかのように必死に取り繕っている。
しかし、民衆の目は冷ややかだ。
誰も、声を上げない。
だが、ここで再びアンズが動く。
「パルコ様ー! がんばってー! 誰にでも失敗はありますよー!」
その力強い激励に、民衆の表情がわずかに和らいだ。
「そ、そうよね……パルコ様でも調子が悪い日もあるわよね!」
「パルコ様、気にしないで!」
アンズの声に流され、少しずつ民衆がパルコへ向けて声援を送り始めた。
人の善意とは、つくづく扱いやすいものだ。
「みんな……ありがとう! その優しさに応えるために、私はまだまだ戦い続けるよ!」
パルコが感動した風に胸に手を当て、シュッシュと空拳を繰り出す。
その間抜けな姿を眺めながら、俺はティーカップを静かに置いた。
さて……第二幕といこうか。
「きゃー! 助けてー!」
再び広場に、三人の悲鳴が響き渡った。
ルナリア、クロエ、コレットの三人が、再び現れた覆面のネクタに追い回されている。
「ぐへへへへ! 待てー! お嬢ちゃんたちー!」
民衆の視線が、一斉にパルコへと突き刺さった。
先ほど「まだまだ戦い続ける」と宣言した男に。
「大丈夫! パルコ様が、あのでかいのをやっつけてくださる!」
アンズの声が広場全体に響き、周囲の期待が最高潮に達した。
だがパルコは先ほどのネクタの怪力を思い出しているのだろうか、顔がみるみる青ざめていく。
脂汗が、滝のように流れ出しているのが分かる。
するとネクタがパルコを睨み、ゆっくりと一歩ずつ近づいてきた。
「なんだてめぇ! 文句があるならかかってこいよ! ぶっ殺すぞ!」
低く、腹に響くネクタの声。
英雄パルコの足が、一歩後ろへ引いた。
さらにもう一歩、逃げ場を求めて後ずさる。
「うわああああああ!!!」
ついにパルコは、少女たちを見捨てて背を向け、脱兎の如く逃げ出した。
「待てやこらあああ!!!」
ネクタがパルコを追いかけ、二人は滑稽な追いかけっこを演じながら広場から消えていった。
「あ、英雄パルコが逃げた! 助けを求める女の子たちを見捨てたんだ! 英雄なんかじゃなかったんだ!」
アンズの声が、広場を静まり返らせた。
その言葉は、民衆の心に深く重い失望を植え付けていく。
目の前で英雄が敵に背を向け、か弱い少女たちを置き去りにした。
その揺るぎない事実は、民衆が抱いていた『英雄パルコ』という幻想を、粉々に打ち砕いたのだ。
英雄パルコが、悪漢にやられただけでは駄目だ。
再び手下の悪漢を退治することで、『英雄の再起』という演出のお膳立てになってしまう。
だが、大衆の面前で『弱きを見捨てて逃亡する』という汚点を刻めば、もう二度と英雄の座には戻れない。
民衆はその姿を、今日ここで目に焼き付けたのだ。
これでいい。
まずは『英雄パルコ』という虚像に、修復不能な亀裂を入れてやった。
だが……まだ、こんなものでは済まさんぞ。パルコ。
地獄の底まで、じっくりと叩き落としてやる。




