先祖返り
セシリアが始めて獣化したのは、6歳の頃だ。
大好きな母のお腹には赤ちゃんがいるのだという。双子の弟たちは3歳になって、怪獣のように毎日床を転げ回り、セシリアの髪の毛を引っ張ったり頬を抓ったりしてくるので、あまり近付きたくなかった。そもそも2人で遊ぶのがたいそう楽しいらしく、少し目を離した隙に危険なことをやりかねないので周りは使用人たちが囲んでいる。体調の良くない母に遊んでもらうこともできない。父は仕事で忙しくしていて会うこともできない。
普段は物分かりよく、大人しいと言われるセシリアだが、この日は機嫌が良くなかった。午前中、庭師に許可を取り摘んだ花で作った花冠を母にプレゼントしようと歩いていたところで、べノーが飛んできた。痛みは大したことがなかったが、手に持っていた花冠が飛ばされて、アルノーのお尻の下敷きにされたのだ。せっかく上手に出来たのに。これを持って行って、お母様に褒めてもらいたかったのに。
使用人たちはぐしゃぐしゃになった花冠をさっさと片付けて言った。
「お嬢様、お怪我をするといけないのでお部屋にお戻りくださいね」
お腹の赤ちゃんのせいで体調が悪い母。仕事にかかりきりの父。双子にかかりきりの使用人。お互いにかかりきりの双子。ひとりで食べる昼食が酷く味気なかった。
誰もセシリアのことなど気にしていない。いてもいなくても同じ。でも、もしかして……私がいなくなったら、みんなが探してくれるのではないかしら。私を、見てくれるのではないかしら。
良い考えに思えた。どうせなら、優しくて大好きなおじいさまに会いに行こう。おじいさまはセシリアに会うたびに、ぎゅうっと抱きしめてくれる。ちょっとだけ痛いのだけれど、でもその後に高く抱き上げて、くるくると回してくれるのがとっても楽しいのだ。どうしても今、ぎゅうっと抱きしめてほしい気がした。そしてみんながセシリアを探しに来るまで、おうちに置いてもらおう。
お父さまに領主の仕事を任せて隠居したおじいさまとおばあさまは、領地の端の森の近くに小さな家を持っている。おじいさまはすっごく強いから、森から魔獣が出た時に退治するお仕事をしているのだ。おじいさまのおうちには何度も行ったことがあるから、きっとひとりでも行けるはず。セシリアは馬車の窓から外を眺めるのが好きだから、道だって知っている。
花を摘むのに使っていたバスケットに、お昼の食べ残しを詰めた。お茶の時間に食べるように言われていたクッキーも一緒に。おばあさまに美味しいお茶を入れてもらおう。みんなで食べたら、きっと、美味しくなるはずだから。
「──あっ!」
小石に躓いて転んだセシリアの手から、バスケットが離れていく。クッキーが飛び出して、ばらばらと地面に転がった。
足が痛い。馬車だとあっという間に着いてしまうのに、こんなに遠いだなんて思わなかった。バスケットだってだんだん重く感じてきて手のひらが痛いし、見たことのない景色に、不安が増していく。さっきの曲がり角は、反対だったのではないかしら。膝も擦りむいてしまって、ヒリヒリと熱い。涙で潤んだ瞳に、視界がぼやけた。
──さくり
誰かが探しに来てくれたのかもしれない。ぐしぐしと袖で涙を拭って、俯いた顔を少し上げると──散らばったクッキーが黒い靴の下で、粉々に砕けていた。
ぶん、と振り上げられた手に、ギラリと光る鈍色の刃物。風を切る音がひゅん、と耳を掠めて、黄金色の髪の毛が数本空に舞った。
「ひっ──や、や、いや!! いやぁあ!!」
ぐるん、とお腹がひっくり返るような気持ちがしたと思った時にはもう、セシリアは走り出していた。飛ぶように。跳ねるように。おじいさまの匂いがする、おばあさまの匂いがする。行くべき道は考えなくても分かっていた。走って走って走って目的地が見えた時、その扉から慌てて飛び出てきた人影が見えた。
(おじいさま!! おばあさま!! たすけて!! こわかった!!)
そのまま飛び込むようにびょん、とおじいさまの胸に飛び込む。
ぎゅうっと抱きしめてくれたおじいさまの手の暖かさに、我慢していた涙がこぼれ落ちた。
ボロボロになった毛並みに、足は傷だらけ。胸に頭を擦り寄せながら涙をこぼす痛ましい姿に、老夫婦は顔を見合わせた。予想はしていたが、できる限りこの子を傷つけたくはなかった。だが、我々がする事は変わらない。愛するこの子が幸せに生きていけるように。
先祖返りが生まれたのは、何年振りになるのだったか──
ぼやぼやと意識が覚醒していく。瞼を開くと、いつもとは違う天井に、こじんまりとした部屋。小さく灯されたあかりと、さほど広くないベッドの端には母の姿があった。
「お母さま……」
「セシリア……目覚めたのね。怪我は? 痛むところはない? ああ……心配したわ。ごめんね、ごめんねセシリア。寂しかったのよね……気づいてあげられなくて、本当にごめんなさい。あなたがあまりに良い子だから、甘えてしまっていたんだわ。あなただってまだ子供なのに……でも、これだけは分かってちょうだい、私たちはみんなあなたのことを愛しているわ。あなたがいなくなったと聞いて、胸が潰れるかと思ったの。あなたが無事と聞いて、やっと息ができた。ああ、本当に……無事で良かった。セシリア、愛してる、愛してるわ」
「お父さまは……?」
「お父様は今お爺様とお話ししているの。明日起きたら、セシリアも一緒にお話をしましょう。大丈夫よ、セシリアのことはみんなが守るからね。もう怖いことはないわ、今日はお母様が抱っこしてあげるから、一緒に寝ましょうね」
「うん……お母さま、だいすき……」
朝起きて、横に変わらずいてくれたお母さまにキスをしてから身支度を整える。部屋を出ると、そこにはお父さまも待っていた。
「お父さま、おはようございます……」
「おはようセシリア。聞いてはいたけれど、本当に無事で良かった……そのサファイアの瞳を見られて、安心したよ。もちろん寝ている姿だってとびきり可愛いけれど、父様はセシリアの元気な笑顔が1番大好きなのだから」
きゅっと抱きしめて、頬にキスをして貰う。仕事が忙しいお父さまとはなかなかゆっくり会うことも出来なくて、まさか毎日寝顔を覗かれているなんて知らなかった。
誰も私を見てくれていないなんて拗ねていた事が恥ずかしくなるくらい、こうしてみればみんなに愛してもらっていたのだ。
「さあ、お爺様とお婆様も待っているわ。まずは朝食をいただいてから、みんなで大事なお話をしましょうね」
◇
「まずはセシリア。セシリアの話をしよう」
そう言ったおじいさまが教えてくれたのは、こうだ。
お父さまの家、つまりアリベール家は、狼獣人の血を持つんだそうだ。もう何百年も前からの話だから、かなりその血は薄まっているだろうということだけれど。狼獣人は愛情深くて一途らしいから、1度好きになったら、禁じられようとも愛を貫いてしまうのだそうだ。そういえばうちの両親も見ていて恥ずかしくなる程の仲の良さである。そういうところには、本能的な部分が残っているとも言えるのかもしれない。
そしてお母さまの生家、バロー家は犬獣人の血が流れている。ただ、バロー家はもう存在していない。のちに語られる諸事情により滅ぼされたからだ。
狼獣人の血を持つお父さまと、犬獣人の血を持つお母さまの子供として生まれたセシリアは、先祖返りと呼ばれる特徴を持っていた。完全な獣の姿をとることである。
セシリアが赤子の頃は、ふとした時に獣化する事があったらしい。だがそれは成長するうちに収まっていった。感情の乱れが獣化に関係しているから、大人しく物分かりの良い子供だったセシリアは、図らずも自ら体質をコントロールできていたのであろう。ただそれが、今回の事件で激しく感情を揺さぶられた事により顕現した。
襲撃された際、身体にあった違和感は獣化した際のものだったのだ。犬の姿になったセシリアは人型の時より嗅覚や聴覚が鋭くなり、また動きも俊敏で素早くなる。刃物を除けることが出来たのは、先祖返りの獣人であったからこそだ。
アルノーとべノーは身体の一部分にだけ獣人の特徴が出ることがある。爪が鋭く伸びたり、嗅覚が優れているのはセシリアと一緒だ。エミーはまだ幼いからか、血が薄く出たのかは分からないが、今のところ獣人の特徴を現したことはない。おじいさまやお父さま、お母さまは、完全に獣化のコントロールを身に付けていて、無意識に獣人の特徴を現してしまうことはないらしい。目や耳、鼻の良さなどは普段から役立てているし、疲れにくかったりもするらしいけれど。そして獣化しても、せいぜい耳や尻尾が出るくらいなのだそうだ。
セシリアが自らの異端さに気付き、身体が震えそうになった時……これからどんな困難があろうとも、私たち家族はセシリアのことを愛しているし、心から誇りに思っているよ──そう言われてセシリアも、みんなが誇りに思ってくれる自分を、愛していたい、と思った。




