ネモフィラの花
「はぁ、それでセシーちゃんはその姿のまま、連れて帰ってきたというわけ?」
「そうだ。普段なら自分の意思で戻れるはずなんだよな? べノー」
「はい、そうです。幼い頃はともかく、僕らはまず獣化の制御を訓練しますから」
「うーん、そっかぁ。ほんとに先祖返りっているんだなぁ……感激だ。とりあえず、セシーちゃんは討伐の疲れで体調不良、しばらく休みってことにしようか。んで、この子は討伐先で保護したから、怪我が治るまで面倒を見る……っていう筋書きはどう?」
「ああ、悪くないと思う」
「僕も大丈夫だと思います。姉は僕の部屋に連れて行きましょうか」
「いや、俺の部屋に連れて行く」
「えっ、でも……」
「いつ人化するか分からないんだろう? 俺の部屋はセシーの部屋の隣だし、他の団員の部屋とは離してある。万が一を考えれば、日中はこの執務室、夜は俺の部屋にいるのが1番安全だろう」
「──はい、わかりました」
「ん、じゃあそれで決定ね! セシーちゃんもそれでいいかな?」
獣化すると、少しだけ本能が強くなる。セシリアは大好きな甘い香りに耐えきれず、エメリックの膝の上でゴロゴロと甘えては、はっ! と理性を取り戻しては羞恥に震えることを繰り返している。
その姿を愛おしそうに見つめるエメリックと、生ぬるい目で見守るユルヴァンとべノー。3人の視線に、セシリアは気付いていない。
◇
ちらり、と上を見ると、「ん?」と蕩ける様な甘い眼差しでこちらを見下ろす薄水色の瞳。書類仕事には邪魔なのか、白銀の煌めく髪は後ろでひとつにくくられている。伏せた瞼に、影を落とす長い睫毛。うーん、と難しい顔をしながら、長い指が唇をとんとんと叩く。
なんとも暴力的な艶かしさだ──真下から見上げても。
セシリアは今、エメリックの膝の上にいる。てきぱきと書類を捌きながら、時折空いた左手でさらりとセシリアの首や耳の後ろを撫でるのだ。
今のセシリアには書類の整理を手伝うことも、休憩時間にお茶を出すことも出来ない。にもかかわらず、子犬の姿から戻れなくなってから、エメリックはセシリアを決して自分の側から離さなくなってしまった。セシリアも離れたいとは思っていないのだけれど……。
副団長のユルヴァンももうその光景を当たり前のように受け入れているし、べノーも時々現れてはニヤニヤと笑うだけ。一応、「アルノーに原因が分からないか手紙を出した」とは言っていたが。
以前拾われた時にも思ったように、エメリックは犬が好きなのだろう。魔力の強いエメリックを怖がらない犬の姿のセシリアは貴重な存在なのかもしれないが──正直に言えば、今セシリアが人の姿に戻れないのは、エメリックのせいなのでは?! と、思っている。
なにしろ、あの日──額にエメリックの唇が触れた時から、セシリアの心臓は高鳴り続けているのだ。獣化は感情が大きく振れるとコントロールを失ってしまう。幼い頃から物分かりの良かったセシリアにとって、怒りや悲しみをぐっと抑えるのはもはや慣れたもの。しかし、この胸の高鳴りだけは、どうにもうまく抑えることが出来ないのだ。
だからこそ、少しひとりで落ち着く時間が欲しいのに、それを伝えることが出来ないもどかしさ。仕事中も、そしてその後はエメリックの部屋で共に時間を過ごして、あの蕩ける様な眼差しで見つめられ、胸に抱かれて、優しく撫でられて。
人に戻りたいのに──ずっとこのままでいたい、と思ってしまう自分も確かにここにいて。ままならない思いがまた感情をぐちゃぐちゃにするのだ。
「今日はこれからどうしても顔を出さなければいけない会議があるんだ。共に行きたいが──こんなに可愛いんだ、攫われても困る。仕方ないから、ここで待っていてくれるか?」
そう言われて、エメリックは執務室に置かれた籠にそっとセシリアを下ろす。
ずっとエメリックの胸に抱かれていたから、離れた身体の隙間に風が冷たい。
けれど、このままでは騎士団員としての仕事に支障が出てしまうのも事実だ。働かずにお給料を貰うわけにはいかないし、セシリアにはお金が必要なのだ。エメリックと少し距離を取って、心を落ち着けるいい機会だろう。
「ワン!」
「ん、いい返事だな。では行ってくる」
パタリと扉が閉まる。ユルヴァンは訓練所で後輩に指導をする日らしい。おそらくべノーもそこにいるだろう。このまま執務室にいてもいいけれど──最近はエメリックに抱かれて移動していたせいで、筋力が落ちているかもしれない。セシリアは少し散歩に出てみることにした。外の空気を吸えば、この気持ちも少しはスッキリするだろうから。
(わぁ……! 綺麗に咲いてる!)
執務室を抜け出したセシリアは、王城の庭園へと足を伸ばした。騎士団棟のすぐ裏手なので距離も近いし、何かあればすぐに戻れるだろう。
子犬の姿で散策する庭園は、全ての植物が大きく見えて迫力満点だ。人の姿で見るのももちろん綺麗だけれど、これもまた捨てがたい魅力がある。
(ネモフィラの絨毯……エメリック様の瞳みたいな色だわ)
庭園の一角がびっしりとネモフィラで埋められている。水色の小さな花弁がさわさわと風に揺れて、空との境目が曖昧になりそうなほど。
今のセシリアなら潰してしまうこともないだろうと、そっと花畑の中に足を進める。水色の海の中に包まれるようで、心がほうっと暖かくなる。
(いつのまにか──私、エメリック様のことが……)
温かな春の日差しに、ついつい瞼が重くなる。人の姿のセシリアが、エメリックの広い胸にそっと包み込まれている夢を見ていた。
「──ゃないか、──機会に……」
「──いな、あの野郎──」
「──いつがたいそう可愛がってる犬──、今度こそ痛めつけて──」
間近で男達の声がする。エメリックの部屋で寝ることに慣れず、常に緊張していたので寝不足が祟っていたのだ。こんなに近くで囲まれるまで気付けないなんて。
「おや、お目覚めかい? 第三騎士団の番犬さん?」
「ギャハハ! この弱っちそうな子犬が番犬か、そりゃいいや」
「──ぅぅ……ワン!!」
姿勢を低く、いつでも飛びかかれる体勢で周りを見渡す。
青い騎士服の男達が5人、ニヤニヤと笑いながらセシリアを囲んでいた。この制服は第二騎士団だろう。腰に下げられた剣にはギラギラと宝石が埋め込まれていて、礼装の際の宝飾剣のようだ。こんな実用性の乏しい物を腰に下げて歩く気がしれない。ふと見ると、彼らの足元でネモフィラがぐちゃぐちゃに踏み荒らされていた。
(──許せない)
スパン、と音がして、ぶわっと黄金色の毛が舞い上がる。振り返ればセシリアの尻尾の横に短剣が刺さっていた。エメリックが大事にしている犬を甚振って嫌がらせをしようというのか。
「ギャン!!」
「──っ、痛ぇ!」
とにかく執務室までの逃げ道を作ろうと手前の男の足元に飛びかかって噛み付けば、足を振り上げて蹴飛ばされた。
「生意気な犬畜生がっ!」
「矢を射かけろ!」
「こいつの骸を持って行けばあのいけすかないお飾り団長様も俺たちに膝をつくさ──!」
走り回っても5人で囲まれればなかなか逃げ出すことが出来ない。やはり運動不足で筋力が落ちていたのかもしれない。どんどん踏み荒らされて行くネモフィラの花が悲しかった。




