3.ある男
リゼットは再び、あの死体の前に立っていた。
じっと死体を見つめていると、視界の端に艶のある黒い革靴が入り込んだ。灰街の泥で汚れているが、ほとんど傷はない。
視線を上げて、まず目に入ったのは男の髪。光さえ呑み込む深海のような深い青。前髪は目元にかかるくらいの長さに切り揃えられている。額に落ちる毛束がところどころ流れを乱し、整えられてはいるがどこか奔放さを感じさせる。
その隙間から、こちらを見下ろしていた。青とも灰色ともつかない、澄んだブルーグレーの瞳。凍えるような視線だった。
細身の身体を包んでいるのは真っ白なコート。肩はすっきりとしているが華奢というわけではない。コートの下には鍛えられた身体があるのだろう。
そして、胸元。そこには金糸で一つの紋章が刺繍されている。中央に天秤。その左右には翼を思わせる意匠。
それを見た瞬間リゼットは息を呑んだ。王宮の人間だ。しかも、ただの役人ではないと直感した。
男は何も言わず、リゼットとリゼットの足元に転がる死体を交互に見る。
そして、男の目がリゼットの底を測るように顔の上をなぞった。曇天を映したような青灰色の奥で、何かがひっそりと息づく。
「お前、何を見ていた」
「死体」
「それは見れば分かる」
「…じゃあ聞かないでよ」
男の眉がぴくりと動き、端正な顔がほんの少し歪む。気に障ったようだが、リゼットは気にせず目の前の死体へ視線を戻した。
そのとき、遠くから馬の蹄が石畳を叩く音が聞こえてきた。続いていくつもの足音。
振り返ると、表通りの方向から数人の人影がこちらへ向かってきていた。木枠の担架を担ぐ者。死体を包むための布や革の道具袋を手にした者。そして、記録帳を片手に歩く者。
葬務官だ。死体を扱う際に着用する作業用の上着を羽織っている。装飾は胸元にあしらわれた小さな葬務院の紋章だけだった。
膝上まで覆う丈の長い上着は丈夫な布地で仕立てられ、袖口や前合わせも作業の邪魔にならないよう簡素にまとめられている。手には真っ黒な革手袋をはめている。
葬務官が来た今、ここにいても仕方ないと思い、リゼットは踵を返した。それに早く仕入れに行かないと、またマルタにぐちぐち小言を言われる。
「ああ!お疲れ様です……この症状。例の疫病ですね。それにしても、なぜこんな場所で……」
「……疫病?」
葬務官の一人が呟いた言葉に、思わず反応してしまった。その囁きに気づいた葬務官のひとりが、リゼットに声をかける。
「なんだ、君は。通報者か?まだ何か?」
「いや、別に」
「おい、待て。何か気になることがあるなら言え」
再び歩き出そうとした瞬間、先ほどの白いコートの男がリゼットを引き留めた。
その声には妙な吸引力があり、リゼットの口は勝手に動いていた。
「……その人、疫病で死んだんじゃないと思うよ」
「では、何が原因だ」
「いや、知識がないからよく分からないけど……毒。今朝も同じような症状の人を見たの。赤い斑点があったし、指先が凍えてた。あと…同じ匂いがする」
「それで、なぜ毒だと思った」
「分からないけど、でも、なんか体に悪いものを含む物に触れたんじゃないかなと」
「薬品かなにかか……お前、何者だ?」
男が顎に手を添える。思案するような仕草とは裏腹に、その目はリゼットの様子を窺っていた。
それに対して、リゼットは気のない様子で肩をすくめる。ようやく正気が戻ってきて、この男の質問に答えるのが嫌になった。
「では、名は?」
「教えない。知らない人に教えるなって、婆さんに言われてるから」
男は虚を突かれたように黙り込み、それから真面目な顔で頷く。
「それは正しい教えだな。だが、私は怪しい者ではない」
「なら、お互い様だね」
すると、男の口元が少し緩んだ。なぜ嬉しそうなのか見当がつかず、訝しげに男の顔を見つめる。
それにしても綺麗な顔をしている。でも、綺麗な顔をしている奴ほど、何を考えているのか分からないから危険だ。
「………勘がいいのか……」
男は目を伏せ、ポツリと呟いた。長いまつ毛が頬に影を落としている。
「よく言われる」
「誰に?」
「死体に」
リゼットは、ふいと宙へ視線を逸らす。
数秒の沈黙。しばらくして、男は片手で口元を覆った。肩が震えている。
「え、それ笑ってるの?」
「いや、すまない。お前と話していると調子が狂う」
「それはこっちの台詞だよ」
「なら、お互い様だな」
悪戯めいた声色の男に返事せず、リゼットは地面の死体に視線を戻した。
「死んだ人は喋らないから、楽だよ」
「お前は本当に変なやつだな」
「よく言われる」
「それも死体にか?」
私は俯いたまま男の胸元の紋章へ視線を滑らせる。そのまま、ゆっくりと上へ辿っていく。真っ白な生地に傷ひとつない肌、血色のいい唇。どこをどう見ても、ここにいるべき人間じゃない。
「……ねぇ、あんたこそ何者なの?」
すると男は人差し指を唇の前に立て、意味ありげに目を細めた。
「今は秘密にしておこう」
*
あれから数日。灰猫亭にとあるニュースが飛び込んできた。マルタが新聞を片手に愉快そうな声を上げる。
「聞いたかい?お貴族様が捕まったらしいよ」
「へぇ、何したの?」
「染料の密輸だってさ。最近、灰街で死人が増えてただろう?」
マルタが広げた新聞を読む。どうやら、その原因は疫病ではなかったらしい。
数年前、外国から持ち込まれたとある染料。発色がよく値段も手頃だったことから、若い貴族の間で一時期流行したものだった。ところが、その染料が入った化粧品を使用した貴族令嬢たちが次々と体調を崩したのだ。国はすぐにその使用を禁止した。当然だ。問題は、その染料が数年ぶりに大量に国内へ持ち込まれたことだった。
「なんでまた、禁止されたものを輸入したんだろうねぇ」
マルタが呆れたように呟く。
捕まった貴族は数年前に事業に失敗し、多額の借金を抱えていたらしい。そこで目をつけたのが、その染料だった。安価で、発色もいい。王宮では禁止されているが、それなら市井で売ればいい。名前さえ変えれば誰にも気づかれず、利益を独占できる。 そうして染料を大量に輸入し、別の商品として売り捌いた。多少身体に悪いくらいなら問題ないと考えていたようだが、実際の毒性は彼が想像していたものよりはるかに強かった。そのことに気づいたときには、もう引き返せないほど多くの人間に手に渡っていた。
「……馬鹿みたい」
私は『劇薬の染料』の文字見つめながら、言い捨てた。
灰街だから。衛生状態が悪いから。だから疫病が広がったのだと人々は思い込んでいたが、全ては金に目がくらんだひとりの貴族の責任だった。そして、その犠牲になったのは何も知らない灰街の人間。
「結局、死んだ人たちは何も悪くなかったんだ」
「そんなの、いつでもそうだろ」
ふと、あの日の男を思い出す。王家に関わる紋章がついた、真っ白なコート。あの死体を前にしたとき、彼は妙に冷静だった。後から聞いた話では、死んだ男も王宮に出入りする商人だったらしい。
あの男は、一体何者だったんだろう。そんなことを考えていると店の扉が開いた。そこに立っていたのは久しぶりに見る顔だった。少しだけ懐かしい無愛想な表情。
「……ドニさん?」
「よう」
「ドニ!久しぶりじゃないか!あたしゃ、あんたが死んだんじゃないかと思っとったよ!」
マルタが不謹慎なことを言いながら笑ったが、その顔には安堵が滲んでいる。リゼットはマルタを尻目に、ドニにエールを注ぐ。
「体調はもう大丈夫?」
「ああ。新しい制服に、あの染料が使われていたらしいんだ。あの服を着なくなったら、良くなったよ」
「そっか。」
「せっかくの金づるが死んだら、こっちまで飢えて死んじまうからね!」
「……まぁ、あんな感じだけど、婆さんも心配してたよ」
「そうか」
短い返事だったけれど、その口元がほんの少しだけ緩んだ。リゼットはそれを見ていた。
ドニが生きててよかった。あの日見つけた死体はもう灰になった。でも生きている人は、こうしてまた酒を飲みに来る。
*
「じゃあな」
「うん。またね」
ドニが店を出ていく。その背中を見送ってから空になったグラスを片付けた。
カラン、コロン。
「いらっしゃい!…おや、見ない顔だねぇ。ずいぶんいい身なりをしてるようだけど、こんな店に何の用だい?」
マルタの声色はいつもと変わらなかったが、どこか探るような響きがあった。
その客が低く澄んだ声で淡々と答える。
「ここで銀髪の子供が働いていると聞いたのだが、いるか?」
私は思わず振り返った。そこに立っていたのは、あの日灰街で出会った男。真っ白なコート。整えられた濃い青の髪。そして、全てを見透かすような冷たく澄んだブルーグレーの瞳。その瞳がこちらを捉えると、口元が弧を描いた。
「ああ。いたな」
リゼットは開いた口を閉じる気にもなれず、そのままじとりと男を見やった。
「……なんでここにいるの?私何もしてないよ?」
「まだ何も言っていないが?」
マルタがリゼットと男を交互に見る。
「なんだい、あんたたち。知り合いなのかい?」
「知らない」
「知り合いだ」
声が重なった。
リゼットは男を見る。
男もリゼットを見る。
「……」
「どっちなんだい!黙ってちゃ分からないだろう!」
マルタの怒鳴り声が灰猫亭に響いた。




