4.薔薇の香り
「どうぞ。粗茶ですが」
マルタが湯呑みを差し出すと、男が軽く会釈をし両手で湯呑みを持ち上げた。
薔薇の香りが鼻を掠めた気がして、リゼットは思わず男の方を二度見する。この店に花の香りがする上等な茶など置いてあるはずがない。
リゼットは大きくかぶりを振って、皿洗いに戻った。
灰猫亭に貴族らしい人が来ることは稀だが、あるにはある。その多くは帽子を深く被り顔が見えないようにする。
マルタはここらで顔が広く、その実情はリゼットにも教えてくれないのだが、裏の世界との繋がりもあるらしい。この店に訪れる身なりの良い人間のほとんどは、その情報を仕入れるためにやってくる。
しかし、高貴な人がありのままの状態でいるだけで、こんなにも空気が華やぐのものなのかと驚いた。年季の入った薄汚い店が、まるで老舗の高級レストランじゃないか。
「それで?あなた様のような方が、こんな店に何の御用でしょう?」
「ああ、まだ名乗っていなかったな。カイ・ローゼン。王宮監査院に所属している」
カイと名乗る男は懐から一枚の札を取り出し、マルタにそれを見せた。
王宮監査院。店の客が話しているのを聞いたことがある。役人や貴族たちの仕事に不正がないかを調べるところだったはずだ。不正があればそれを正す役割も担っているので、もちろん国民からの支持は厚い。
「リゼット!あんた何か粗相したんじゃないだろうね」
「してないよ、たぶん」
「多分じゃないよ!まったく、あんたは…」
「彼女には、先日の商人の件で協力してもらったんだ」
「きょうりょく?…ダッハッハッハ!ああ、せっかくお越しいただいたのに申し訳ありませんが、人違いではありませんか?確かに銀髪の子供なんて、この辺りではそうそういませんけどねぇ。あの子は人と協力できるようなタマじゃありませんよ」
「いや、彼女で間違いない。それにしても彼女の観察眼には恐れ入った。あなたが幼少期から養っていたと伺ったが、育て方がよかったんだろうな」
「おお、そうですか?お偉い方にそう言っていただけると、育てた甲斐があるってもんですね」
カイはマルタのような人間の扱い方がよく分かっているようだ。なぜか盛り上がっている二人に、リゼットは冷ややかな目を向ける。
「で、あんた何しに来たの?世間話したいなら他所に行ってよ」
「リゼット、なんだいその口の聞き方は!!」
カイが手を上げ、マルタを制する。前髪の隙間から覗く曇天の瞳が、まっすぐこちらを捉えていた。その視線はどこか底がしれない。
「お前、監査院に来ないか?通常であれば、監査院に入れるのは貴族や、それに準じる者だけだ。だが、私の助手という形でなら可能だ。記録の確認や書類の整理、聞き込みの手伝いなど…」
「嫌」
「…まだ仕事内容を全て説明していないが」
「い・や」
「惜しくはないのか?お婆さんに楽をさせられるぞ」
リゼットはちらっとマルタを見る。聞こえているくせに知らないふりをして、厨房の方へ入っていった。
「ああ見えて、たんまりと溜め込んでるから心配ないよ。それに、偉い人を相手にするなんて面倒臭い。あの人たち立場とか身分のためなら何でもするでしょ。そんなの死んじゃえば関係なくなるのに」
「……なら、葬務官を目指せ。お前のような偏屈なやつにぴったりな仕事だ」
「は?」
「葬務官になればいい。養成機関に通う必要はあるが、金なら俺が出す。生活に必要な費用も援助しよう。その代わり俺の仕事を手伝ってくれ」
「待って、どうして?あんたに何のメリットもないと思うんだけど」
「ああ、ちょうど助手を探していたんだ。期間は三、四年といったところか」
怪しい。どう考えても何か裏がある。
しかし、癪だが葬務官に興味があるのは事実だ。でもこの男とこれ以上関わるのはもっと嫌だ。
「どうする?やめておくか?選ぶのはお前だ。養成塾に入り認められれば、すぐにでも死体に触れる権利を得られるかもしれないぞ。興味があるんじゃないか?
それに、卒業さえできれば晴れて自由の身だ。俺から離れて、葬務官として好きなように働ける」
ふと、灰街に放置された死体が脳裏に浮かんだ。リゼットはその魂を救いたいとどうしても願ってしまう。
「……分かった。それで、その塾っていうのはいつから通えるの?」
「まずは春の試験だな。筆記試験と適性検査。それから、簡単な実技試験が行われるはずだ」
「私、学校行ったことないけど」
「俺が教えよう。俺の手伝いをしながら勉強してもらう。半年あれば十分だ。試験に必要なことは、全て叩き込んでやる」
「あんたたち話はまとまったかい?店を開けるから、そろそろ終わりにしてくれよ」
マルタが暖簾の隙間から、こちらを覗いている。
窓の外に目を向けると、いつの間にか日はすっかり傾いていた。灰色の街並みが夕陽に染まり、店の中にも薄暗い影が伸びている。
カイは椅子から立ち上がると、背もたれに掛けていた真っ白なコートを手に取った。肩を通し、襟を整える。胸元には、王宮を示す紋章が銀糸で刺繍されている。白い布地の上で、夕暮れの光を受け淡く輝いている。
「ああ、今日はこれで失礼する。明日の朝十時に迎えに来るからな」
「明日の十時だね。準備させておきますよ」
「ちょっと、勝手に決めないで」
「では、明日の朝九時にするか?」
「そういう問題じゃないし。はぁ、もう十時でいい。」
言い返す気力も残っていない。きっと何を言っても、この男には分からないだろう。リゼットは諦めて、マルタが運んできた野菜をひとつ手に取った。




