2.灰色の街で
昼過ぎ。マルタに仕入れを頼まれ、灰街の市場へ向かう準備をした。
灰猫亭を右に出て真っ直ぐ進む。ガレドの親父がやっている鍛冶屋がある角を左へ。その先にある細い裏路地。表通りから少し外れるだけで人の声は急に遠くなる。
リゼットはいつものように麻のフードを深く被り、裏路地へ入った。昼間でも陽が当たらず石畳には水溜まりが残り、建物の壁には煤と汚れがこびりついている。
灰街の中でも特に人が寄りつかない場所だが、リゼットにとっては見慣れた道だった。市場へ行く日は必ずここを通るからだ。
数年前、灰街では王国主導の区画整理が行われた。表向きの理由は灰街の衛生状況の改善だが、本当の理由は別にあるのだろう。
近年、王都では交易を求めてやってくる異国人が増えていた。そんな客人たちに王都の一番汚いところを見せるわけにはいかず、表通りだけを綺麗にした。
石畳を敷き直し、建物を整え、表から見えるところだけは取り繕った。おかげで表通りを歩くぶんには灰街だと気づかない人間もいる。
けれど、一歩裏へ入ればこの有様だ。国から見放され、行き場をなくした人々。そんな人間が今もこの街には溢れている。
この街へ流れ着いた人たちは生きるために仕事を選んでいられない。死体運搬人や火葬場作業員など死体を扱う仕事に就く者も少なくない。
本来であれば尊ばれるべきだが、この街の住人でさえ、そういった仕事に就いた人とは距離を取る。
結局のところ人間は本能的に死が怖いのだろう。王立の葬務院でさえ「灰色の館」などと呼ばれ恐れられている。誰かが死ねば必ず葬務官が必要になるにも関わらずだ。
葬務官が街を歩けば、人々は道を空け、時には軽蔑するような目を向ける。
そして、この街の人々が国から見放されたというのは大袈裟でもなんでもない。
灰街で死んだ者は王都の他の場所で死んだ者とは違う扱いを受ける。葬務院で身を清めてもらうことはできない。
灰街に仮設された葬務局から下級の葬務官が派遣され、最低限の処置だけを施してその死を見届ける。場合によっては腐敗が始まる前に、そのまま火葬場へ運ばれることさえある。
それは、この国の人間にとって決して小さな問題ではない。死者の身体を正しく送り出すこと。それは魂がグレンを渡り、トートへ還るために必要なことだと信じられている。
ならば、灰街で死んだ者はどうなるのか。グレンを渡れず、トートへ還ることもできず。このヴェトをいつまでも彷徨い続ける。エルベン教を信じる者にとってこれ以上の恐怖はない。
だから人々は灰街を嫌い、恐れる。そして見えないものにする。
リゼットは麻のフードを深く被り直した。この街では死者だけじゃなく、生きている人間まで見えないものにされている。
リゼットは、いつも疑問に思っていた。人なんて死んでしまえば皆同じなのに、なぜ死してなお差別され続けるのだろう。この人たちの魂を救ってあげるにはどうすればいいのだろう。
リゼットには死体に触れる権利はないが、せめて祈ることくらいならできるんじゃないか。祈れば、グレンを渡れずにいる魂をトートへ送り届けることができるんじゃないか。
そんなことを考えて、リゼットはよくこの裏路地を訪れていた。
そこかしこに死体が転がっている場所にわざわざ訪れるなんて、我ながら物好きだと思う。それでもリゼットからすれば、死んだ人間より生きている人間のほうがよっぽど恐ろしい。
死体は嘘をつけない。傷があれば傷があるし、死因があれば、身体のどこかに痕跡が残る。
けれど生きている人間は違う。都合の悪い真実は隠してしまう。平等を謳いながら、心の中では社会からはみ出した者を嘲笑する。
リゼットは眠る人たちを見つめた。今日もこの国の片隅で、明日を迎えられなかった人たちがいる。誰にも看取られず誰にも名前を呼ばれず、ただそこで眠っている。
膝立ちになり、そっと目を閉じた。
「すべての命はヴェトに生まれ、グレンを超え、トートへ還る。
生きる者には明日を。
死せる者には安らぎを。
道を失いし魂には、灯を。
迷える魂には、祈りを。
恐れることはない。
死は終わりではなく、還るための道。
どうかその魂が、迷うことなく、
静かにトートへ還れますように」
小さな声が冷たい裏路地に落ちていった。
*
祈り終えたリゼットは、立ち上がって壁沿いに歩いた。そして角から顔を覗かせる。
薄暗い路地が奥へと細く伸びている。昼間だというのに人通りは全くなく、聞こえるのは遠くの喧騒とどこかで滴る水の音だけ。壁際には古びた木箱や布切れが無造作に転がっている。
そしてその先に、人影がひとつ横たわっていた。上等な服と指にはいくつもの指輪。灰街には似つかわしくない身なりの男が、うつ伏せで倒れている。
どう見ても、この辺りで暮らしている人間ではない。
「ねぇ、あんた。大丈夫?」
返事がない。リゼットは近くの粗末な家の脇に積まれていた薪に目をやる。その一本を手に取ると男の肩口に差し込み、ぐっ、と力を込める。
なんとか身体を転がし、顔を覗き込む。目は固く閉ざされ、胸も動いていない。襟元の大きく開いたシャツが無造作に着崩されて、首筋から胸元が露わになっている。そこには小さな赤い斑点がびっしりと広がっていた。目線を手の方へ移すと赤黒く変色している。
その瞬間リゼットの頭の中で何かが繋がり、来た道を全力で戻った。灰猫亭の扉を大きな音を立てて開ける。
「おや、早かったね。まさか言い値で買ってきたんじゃないだろうね?」
マルタの声を聞き流し、リゼットはそのまま階段を駆け上がった。
「ちょっと、リゼット! 食材はどうしたんだい!」
返事をする暇もない。二階にある自室へ飛び込み、机へ駆け寄る。
そして引き出しを開け、奥にしまっていたものを取り出した。古びた一冊の帳面。母のものだと聞かされている、唯一の遺品だ。
机の上に帳面を広げる。紙は黄ばんでいて、端は何度も触れたせいで擦り切れている。そこに並んでいるのは薬草の名前や病気の症状、日付、患者の記録。そして意味の分からない記号。
リゼットは次々とページをめくっていく。一枚。また一枚。そして、あるページで手が止まる。そこには見覚えのある症状が、乱雑な文字で書き留められていた。
「皮膚に赤斑…四肢末端の冷却…意識混濁……」
文字を追っていた指が止まった。その先に短く『最悪の場合、死に至る』と記されている。
私は帳面から目を離せなくなった。ドニもあの男も、
「……同じなの?」
「何が同じなんだい?」
「うわっ!」
「さっきから何を一人でぶつぶつ言ってるんだ。食材はどうしたのかってのが聞こえなかったのかい」
振り返ると、呆れ顔のマルタがいつの間にか部屋の入口に立っていた。私は何も答えず、ただ開いた帳面を見つめていた。




