第92話 主よ憐れみたまえ
そこから。
俺と私は、破滅へ続く坂を転がり落ちるように、加速しながら壊れていった。
止まろうと思ったことがなかったわけではない。
セレナから離れればいい。
孤児院へ行かなければいい。
レオンを見なければいい。
何度も、そう思った。
それでも、一度胸の奥に生まれた羨望は消えなかった。
どうしてセレナだけ。
どうして、自分では駄目なのか。
どうして、自分には家族がいないのか。
問い続けるうちに、その思いは少しずつ形を変えていった。
自分も必要とされたい。
自分にも居場所が欲しい。
自分だって父親になれるはずだ。
そして最後には。
――レオンがいれば。
そんなところまで辿り着いてしまった。
◇
今までの自分なら、もっと上手くやっただろう。
人の家へ入るなら、音を立てない。
誰かを攫うなら、顔を見られないようにする。
必要なら別人になり、足跡も残さず、誰にも正体を悟らせない。
百年以上。
そうやって生きてきた。
なのに、あの日の俺と私は正面から孤児院へ入った。
隠れることもしなかった。
誰かに成り代わることもしなかった。
そのままの姿で。
レオンを奪った。
今思えば、あれが初めてだったのかもしれない。
誰かの名前も。
誰かの顔も。
誰かの役割も借りず。
自分の欲しいものを、自分のためだけに奪おうとしたのは。
だからこそ。
あまりにも醜かった。
◇
逃げ込んだ先は、寂れた教会だった。
祭壇の奥には、女が幼い子供を抱く古びた絵があった。
その前で。
私もレオンを抱いていた。
父親になりたいと願いながら。
片手には短剣を握っていた。
滑稽だった。
あれほど欲しかったはずなのに、レオンを腕の中へ収めても何一つ満たされなかった。
この子は、ただこちらを見ているだけだった。
父親だとは思っていない。
家族だとも思っていない。
当然だ。
レオンは、一度だってそんなことを望んでいなかった。
セレナから離れたいとも。
私と暮らしたいとも。
父親になってほしいとも。
何一つ。
言っていない。
全部。
私が勝手に決めただけだった。
◇
それでも。
あの子は、手を伸ばした。
小さな。
本当に小さな手だった。
何の力もない。
ただ、こちらへ向けられた手。
嬉しかった。
どうしようもないほど。
嬉しかった。
反射的に。
こちらも手を伸ばそうとした。
あと少しで触れられた。
けれど。
そこで。
自分の手に何があるのか気づいた。
刃。
銀色の短剣。
それが、レオンと自分の間にあった。
あの瞬間。
初めて。
自分が何をしてきたのかを、目の前へ突きつけられた気がした。
誰かに必要とされたかった。
家族が欲しかった。
母親になりたかった。
父親になりたかった。
誰にも成り代わらず。
自分として。
誰かの手を取りたかった。
なのに。
俺と私が最後まで握っていたのは、誰かの手ではなく刃だった。
これが。
俺と私が。
百年以上を生きて、成したことなのか。
◇
絶望した。
もう、全部終わらせたくなった。
今の自分が駄目なら。
次なら。
この世界で駄目なら。
来世なら。
そんなことを考えた。
そして。
あろうことか。
レオンまで道連れにしようとした。
あの子は何も悪くない。
何一つ関係がない。
それでも。
一人で終わることすら怖かった。
最後の最後まで。
誰かを巻き込まなければ、何もできなかった。
刃をレオンへ向けた。
その時だった。
強烈な光が爆ぜた。
目の前が白く染まり、反射的に腕の力が抜けた。
そして。
そこにあったはずの重みが消えた。
「レオン……?」
腕を伸ばす。
何もない。
「レオン……どこ……?」
何度手を動かしても、空しか掴めなかった。
あの時。
頭に浮かんだ。
――セレナなら。
セレナなら。
こんなことはしない。
◇
次の瞬間。
顔に衝撃が走った。
セレナだった。
最初の一発は、確かに当たった。
痛かった。
口の中に血の味が広がった。
けれど。
嬉しかった。
そんな自分が。
心底、気持ち悪かった。
それでも嬉しかった。
セレナが、自分だけを見ていた。
怒りも。
憎しみも。
悲しみも。
全部がこちらへ向けられていた。
久しぶりに。
彼女の感情を。
独り占めできたような気がした。
だから。
もっと殴ればいいと思った。
殺したいなら。
殺せばいい。
そのくらいのことをした。
当然だ。
けれど。
次の拳から。
音が変わった。
――ゴッ。
顔の横。
石床が砕けた。
もう一度。
――ゴッ。
反対側。
また、石だった。
そこで。
俺と私は気づいた。
外している。
セレナは。
自分でも分かっているのか分からないまま。
こちらを殴れなくなっていた。
「なんで……外すの」
聞いた。
殺したいんだろう。
だったら。
ちゃんと当てればいい。
そう言った。
セレナは。
「殺してやる!!」
そう叫んだ。
けれど。
拳は。
また石床へ落ちた。
結局。
セレナは、セレナだった。
怒りに支配されても。
憎しみに飲まれそうになっても。
最後のところで、自分が何をするのかを自分で決める。
自分がセレナであることを手放さない。
昔から。
ずっと。
そうだった。
だから。
羨ましかった。
どうしようもなく。
羨ましかった。
◇
やがて。
レオンの泣き声が聞こえた。
『レオンが泣いているぞ』
あのリザードマンが言った。
その一言で。
セレナの動きが止まった。
自分を見ていた瞳が。
レオンへ向く。
そして。
セレナは、こちらから離れていった。
少し前までなら。
また思っていただろう。
どうして。
どうして自分ではない。
どうしてレオンを選ぶ。
どうして。
また自分を置いていく。
でも。
あの時は違った。
――当然だ。
そう思った。
セレナは。
母親なのだから。
◇
レオンは、血まみれのセレナへ自分から這っていった。
その手へ触れ。
抱かれた。
それを見ながら。
思った。
変なの。
本物の家族でもないのに。
口から零れた。
すると。
リザードマンが言った。
『本物になろうとするから、本物になる』
『間違えれば謝る。足りないものがあれば、周りが手を貸す』
『そうやって家族になっていくんだろう』
痛かった。
殴られた時より。
ずっと。
俺と私が、ずっと分からなかったことを。
あの男は当然のように言った。
家族は。
誰かの空いた場所へ座れば手に入るものではない。
名前を借りればなれるものでもない。
父親の真似をすれば父親になるわけではない。
母親の振る舞いを覚えれば母親になれるわけでもない。
そんな当たり前のことを。
百年以上生きて。
ようやく。
少しだけ分かった気がした。
◇
『自首しろ』
リザードマンは言った。
『自分のしたことを話せ』
そして。
『二度とセレナたちの前に現れるな』
次に現れたら斬る。
そう言われた。
優しい男だと思った。
あの場で。
俺と私を殺すことなど。
あの男には簡単だっただろう。
それでも。
殺さなかった。
まだ。
俺と私に。
自分のしたことを抱えて生きる余地があると。
そう思ったのかもしれない。
あるいは。
ただ。
あの男は。
自分の力を振るうべき場所を知っているだけなのかもしれない。
俺と違って。
◇
短剣も取り上げられた。
石床に落ちたそれを。
リザードマンが拾った。
腰へ差した。
『武器は預かる』
『好きにしろ』
そう答えた。
不思議だった。
手から刃がなくなっただけなのに。
少し。
楽になった。
もう。
握らなくていい。
そんな気がした。
もしかしたら。
あの男は。
俺と私に。
死ぬなと。
言っていたのかもしれない。
勝手に終わらせるな。
自分で終わりを選ぶな。
犯したことを抱えて。
その先へ行け。
そういう意味だったのかもしれない。
◇
もう。
いい。
そう思った。
あの男がいるなら。
セレナは大丈夫だ。
レオンもいる。
孤児院には。
あの二人を支える者たちがいる。
昔。
セレナは言った。
『今は一人じゃない』
あの時。
その言葉が嫌だった。
名前を挙げられた中に、自分はいなかったから。
自分がいなくても。
セレナには居場所があった。
家族がいた。
支えてくれる者たちがいた。
だから。
悔しかった。
でも。
今なら。
少しだけ違って聞こえる。
そうか。
セレナは。
本当に一人ではない。
なら。
もう。
俺と私が隣にいなくても。
大丈夫なのだ。
◇
だから。
全てを託すことにした。
去ろうとするガルドを呼び止め。
小さな鍵を放った。
俺の部屋の鍵。
そこには、百年以上をかけて集めたものがある。
エルフの里。
天竜教。
黒雷石。
雷葬獣。
調べたこと。
盗んだもの。
騙して手に入れたもの。
誰にも見せなかった記録。
俺と私が、今まで何をしてきたのか。
そのほとんどが残っている。
『お前たちが調べてみろ』
そう言った。
役人より先に。
見てほしかった。
セレナに。
レオンに。
セレナを支えるみんなに。
なぜなのかは。
うまく説明できなかった。
ただ。
もう。
俺と私の中だけに抱えておきたくなかった。
◇
やがて。
教会の扉が閉じた。
セレナも。
レオンも。
リザードマンも。
もういない。
残されたのは。
俺と私だけだった。
静かだった。
ずっと誰かになり続けてきた人生の最後にしては、拍子抜けするほど。
「…………」
祭壇の奥には。
まだ。
女が子供を抱く絵があった。
先ほどまで。
俺と私も、その前でレオンを抱いていた。
家族になりたいと願いながら。
あの子へ刃を向けた。
もう。
何も持っていない。
短剣は取り上げられた。
部屋の鍵も渡した。
百年以上かけて抱えてきたものも。
ほとんど全て。
託した。
あとは。
自首するだけだ。
逃げない。
今度こそ。
誰かになって逃げたりしない。
エドガーとして。
エミリーとして。
自分たちがしたことの罰を受ける。
それでいい。
そう思った時だった。
――ピシリ。
「…………?」
乾いた音がした。
どこかから。
細かな石の欠片が落ちてくる。
――パラ……。
床を転がっていった。
見上げれば。
一本の柱に細い亀裂が走っている。
「…………」
そういえば。
随分と古い教会だった。
壁には幾つものひびが入り、屋根も一部が崩れかけている。
長い間。
まともに手入れもされていないのだろう。
いつ崩れても。
おかしくない。
ただ。
なぜ。
今なのだろう。
――ピシ。
亀裂が。
ほんの少し。
広がった。
その音が。
妙に。
優しく聞こえた。
「……そうか」
思わず。
笑った。
ここは。
教会だった。
神を祀る場所。
俺と私は。
神など信じてこなかった。
祈ったこともない。
誰かに救ってほしいと思いながら。
誰かに縋ることを嫌っていた。
神にすら。
自分を見せようとしなかった。
「……神様」
声が漏れる。
返事はない。
当然だ。
それでも。
もう一度。
小さく。
柱が鳴った。
――ピシリ。
「本当に……そこにいるのか?」
天井を見上げる。
崩れかけた屋根の隙間から、月明かりが細く差し込んでいる。
「今度こそ……」
喉が震えた。
「本当に、俺と私を憐れんでくださるのか」
罪を許してほしいわけではない。
グレゴリーを殺した。
セレナを傷つけた。
レオンを奪った。
最後には。
あの子まで殺そうとした。
そんなものが。
祈っただけで消えるとは思っていない。
それでも。
もう逃げないと決めた。
持っていたものも。
知っていたことも。
全部。
残した。
セレナは一人ではない。
レオンもいる。
孤児院には。
あの二人を支える者たちもいる。
だから。
もう。
俺と私がいなくても。
大丈夫だ。
「…………」
気づけば。
両手が持ち上がっていた。
右手と。
左手。
胸の前で重なる。
誰かの仕草を真似たわけではない。
祈っている人間を演じたわけでもない。
自然に。
そうしていた。
生まれて初めてだった。
誰かになるためではなく。
俺と私のままで。
心から祈った。
「神様」
目を閉じる。
不思議と。
怖くなかった。
「もし……」
声が震えた。
「全てを託して、ここで罰を受けて終われるのであれば……」
少しだけ。
笑う。
「ありがたい」
――ミシ。
小さな音がした。
それでも。
目は開かなかった。
逃げようとも思わなかった。
ただ。
祈った。
エドガーとして。
エミリーとして。
二人で。
「……ありがとうございます」
その直後。
頭上から。
月明かりが、一瞬だけ遮られた。
一本の柱が。
静かに。
エドガーとエミリーのもとへ。
崩れ落ちた。




